6-5 絵梨と真智子
—翌日、真智子は長井絵梨から伝えられていた練習室へと向かった。
待ち合わせの時間より少し早く着くと、すでに着いていた長井絵梨が部屋の外で部屋が空くのを待っていた。中では別の音楽グループが何かの練習をしている様子だった。
「時間になったら、すぐ空くから、それまでちょっと待ってね」
「ええ、練習場所を確保しておいてくれて、ありがとう」
「音大の伝手でいくつか指定されてるのよ。新学期からは音大で練習できる日もあると思うけど、ピアノ二台設置されてるのは限られてるから、先に雰囲気だけでも味わっておこうと思ってね。やっと真智子さんの都合がついてよかったわ」
「今日はまだ練習不足でごめんなさいね」
「まあ、本番はまだ先だから……」
その時、練習室のドアが開くと、それまで練習していたグループが部屋を出た。
「鍵、渡しておきますので、よろしくお願いします」
グループのリーダーらしき人から鍵を受け取り、絵梨と真智子は練習室の中へ入った。中に入ると設置されていたのはアップライト式の二台のピアノだった。
「グランドピアノでないのがちょっと残念だけど、ピアノ二台って迫力あるわよね」
「ほんと、なんだか見ているだけでどきどきするわ」
真智子はピアノ二台の重圧感に圧倒されながら、慎一と一緒に練習した高校の音楽室のグランドピアノや卒業後、一緒に行ったレンタルスタジオのことを思い出していた。慎一は留学先のハンガリーで他の留学生たちとの連弾も経験しているようだった。その経験に程遠いのはよくわかっていたが、それでもピアノ二台をいざ目の前にすると、これからふたりで演奏を仕上げてアンサンブルに加わることについて今まで弾いてきたひとりでの演奏より何か責任感のような意識を感じずにはいられなかった。
「じゃあ、さっそく、練習を始めようか。まだ、初めてだし、間違えてもいいからどちらの曲も最後まで通してみてもいいかな。真智子さん、一応、どちらの曲も弾けるんだよね?」
絵梨は鞄から楽譜を取り出すと一方のピアノの椅子に座ると言った。
「ええ、まあ……。でも暗譜するほどではないから、間違えると思うけど」
絵梨につられるように真智子も楽譜を取り出し、もう一方のピアノの椅子に座った。
「譜捲りのこともあるから、間違えてもしかたないけど、あまりにずれてる時は途中で止めて、弾き直しをするから真智子さんはできるだけ私についてきて」
「はい」
「じゃあ、『牧神の午後への前奏曲』からにするね。準備はいい?」
真智子は絵梨に言われ、『牧神の午後への前奏曲』の楽譜を譜面台に置いた。いざ、譜面を目の前にすると、心臓がどきどきしすぎていまひとつ気持ちが集中できない―。
「ちょっと深呼吸していいかな」
「いいよ。準備ができたら言って。弾きはじめは私だから」
真智子は昨日、何度も聞いて練習した『牧神の午後への前奏曲』に気持ちを集中させた。
「そろそろ、いいよ」
「じゃ、はじめるね」
絵梨は弾きはじめのソロのパートを弾き始めた。真智子も自分のパートから入ると、ふたりは曲想に乗って音色を合わせ、最後まで一通り曲を弾き終えた。
「練習不足ってわりにはそれほど大きな間違えもなく弾けたわね」
「昨日、練習したからね。でも弾きこなせなかった箇所が目立たなかっただけよ」
「本番の舞台は響くからね」
「私、舞台に慣れてなくて。高校時代は先生についてなかったし、発表会には出なかったからね」
「えっ、それでよく音大受かったわね」
「高三になって、音大目指すようになってから、音楽室のピアノを練習に使わせてもらえるようになって、放課後は毎日のように練習したんだ」
「えっ、もしかしてひとりで音楽室を貸し切り状態?」
「ひとりじゃなくて、友人とふたりで。もうひとりの友人は、奈良から引っ越してきて、叔父さんのところに下宿してて、家にピアノがなくて……」
「その人も音大に進学したの?」
「ええ、まあ」
「私達と同じ桐朋短大?それとも……?」
「えっとね、その人は芸大」
「ええっ、それって凄いね。その人の演奏、やっぱり普通じゃないぐらいずば抜けて上手かったんだよね」
「上手いというか、素晴らしかった。才能に満ち溢れてるって感じで、迫力があって、人を惹きつける演奏だったよ」
「芸大、受かるぐらいだから、特別な才能があったんだよね。きっと大きなコンテストで活躍してたのね」
「絵梨さんは芸大は受けた?」
「私はもともと桐朋女子高の音楽科からの推薦で桐朋短大に入学したから、芸大は受けなかった。芸大は特別な才能がないと受からないと思うし」
「そうだよね、私も芸大は落ちたし、桐朋短大も最終選抜でぎりぎりで入れたって感じかな」
「今、一緒に弾いていて思ったけど、真智子さんの演奏は柔軟性があるから、きっと受かったのよ」
「そうかな」
「少なくとも私はそう思ったし、一緒に弾いていて安心できた」
「ありがとう。絵梨さんのドビュッシーも淀みなくてきれいな演奏だね」
「ドビュッシーの演奏で評判の高木真智子さんと一緒にアンサンブルすることが決まって、一緒に練習する日を楽しみにしていたのよ」
「えっ、そうなの?」
「だって、この前の学年発表会での『ベルガマスク組曲』、とても良かったし印象に残ってたわ」
「絵梨さんは確か、シューマンの『飛翔』を弾いてたわよね。迫力あったし、軽やかで素敵だった」
「ありがとう。じゃあ、次の曲『アンダンテと変奏』に移ろうか」
「えっと弾き始めは今度は私だったね」
「そう、準備ができたら、合わせるからよろしく」
真智子は深呼吸すると『アンダンテと変奏』のはじめのパートを弾き始めた。絵梨も真智子に続いた。
それまではお互い桐朋短大ピアノ科で連弾することになった同級生といった感じの距離の真智子と絵梨だったが、その日、一緒に練習したのを境に一気に心の距離が縮まった気がしたふたりだった。
—真智子は家に帰るとさっそくメッセージでその日の練習のことを慎一に報告した。
―今日の練習、順調だったよ―
すると間もなくして、慎一からも返信が入っていた。
―それは良かった。こっちも引っ越しの日取りも決まったし、順調だよ。父が押さえてくれていた物件に入居できることになってね。真智子も予定が空いていたら、今度の日曜日に一緒に見に行かない?
―そうだね。今度の日曜日は予定、空いてるから都合、つけられると思う。どんな部屋か楽しみだね―
―じゃあ、日曜日に練馬駅に九時で待ち合わせようか。まだ、叔父に真智子のこと紹介してなかったし、その日、紹介するよ―
―叔父様に?なんだか緊張するけど、楽しみにしてるね―
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