第4章 深まる絆

4-1 慎一からのメッセージ

 ―真智子と慎一がそれぞれ桐朋短大、芸大と別々の音大に入学した後、三ケ月が過ぎようとしていた―。


季節は初夏の装いをはじめ、そろそろ梅雨明けが待ち遠しい頃―。街並みは新緑の木々に包まれ、街を歩く人々の装いも半袖が目立ちはじめた―。


 真智子も慎一もそれぞれのスケジュールに追われ、会う時間を作れなくなっていったが、その分、お互いの時間の合間を縫って携帯でまめに連絡を取り合っていた。


―そろそろ、交換留学制度の選考結果が出るころかな。実は夏休み頃から行けるコースを早々に応募したんだ―。


 ある日、慎一からそんなメッセージが届いていて、真智子はしばらく考え込んだ。慎一と毎日のように高校の音楽室でピアノの練習に励んだ日々が脳裏を巡る―。慎一が留学のことを真智子にはじめて告げたのは去年、秋も深まってきた頃のことだった。―あの頃はまだふたりとも受験前だったけれど、今は受験を乗り越えそれぞれ音大に進学し、真智子も桐朋短大で音大生としての毎日に慣れてきた頃だったし、今、こうして音楽を学び深めることができるというだけで充実した思いでいっぱいだった。慎一とは出会った頃からテクニック的なレベルの差を真智子は感じていたし、芸大受験の時の結果も明瞭だったけれど、それでもこうして音楽の道を歩んでいられるのは慎一と一緒に練習した日々があったからだと真智子は実感していた。慎一とは大学も離れ離れになった上、留学してしまうとなれば、会うことさえ叶わなくなるけれど、慎一のためには応援しなければと真智子は改めて思いながらメッセージの返信を書いた。


―この前、芸大に入学したばかりなのに、もう、留学の応募したの?凄いね。選考に通っているといいね―。


 一方、慎一は幼少の頃からの母との念願を叶え芸大に受かった喜びも束の間、父との約束の留学を実現することが自分のこれから先の人生にも影響してくることを考慮し、芸大のグローバルサポートセンターに相談に行ったところ、慎一が以前、コンクールで賞をとっている実績や今回の受験での成績を考慮し、特別に夏休み頃から入学できるコースを紹介してくれたので、さっそく音楽部教務係を通してそのコースを応募したのだった。もともと、芸大に進学できなかったら、父の紹介の留学先に進学するつもりだったのだし、留学すること自体に慎一はあまり抵抗はなかったし、心の中で強く意識していた真智子と離れることに対する抵抗感も以前ほどではなくなっていた。別々の音大に通うようになり、桐朋短大のカリキュラムに従って頑張っている真智子のことを思えば、なかなか会う時間が作れないのはしかたない面もあったし、カリキュラム的に桐朋短大より自由度が高い芸大に進んだ自分が甘ったれた考えでは真智子に対して男が廃る―。現実的に金銭的なことまで考えると、真智子の卒業後、留学先に一緒に連れて行くというのは真智子のご両親や父を説得しなければならないことを考慮に入れると学生の分際では、金銭的に土台無理な話だ。それに芸大の交換留学制度を利用する場合、芸大の協定校に三ヶ月から一年以内の留学で、休学ではなく在籍扱いになるのだからもし、早めに留学できるならその方が、奈良からピアノを持ってこれないまま叔父の家からの通学で我慢している自分にとっては好都合かもしれない。もし、選考に通らなかった時のことはその時、考えようと意を決しての応募だった。


―選考結果がはっきりしたら、また知らせるよ。どういう結果になっても久しぶりに真智子と会いたいな―。


慎一のメッセージを見ながら、真智子は個人レッスンなどの大学での日程表を確認した。真智子の個人レッスンの担当の佐藤みどり先生は、年代が三十近くの女の先生だったが、見た目もまだ若々しく、小奇麗で活発な第一印象で、ピアノのタッチは繊細さが特に際立つ演奏でドビュッシーの曲を得意としていた。佐藤みどり先生は真智子が受験の時の実技試験で弾いたドビュッシーの『ベルガマスク組曲』の『プレリュード』を評価してくれて、大学に入ってすぐの真智子の課題曲は先ず『ベルガマスク組曲』の4曲すべてを完成させるということになり、週一で個人レッスンを受け、七月にその課題曲『ベルガマスク組曲』の『プレリュード』、『メヌエット』、『月の光』、『パスピエ』の実技試験を受けることになっていた。また、音楽理論、ソルフェージュ、音楽療法などの履修科目の試験も控えていた。


―七月は課題曲の試験が控えているけど、試験が終わって夏休みに入る頃なら会えると思うよ―。


 真智子は慎一にそうメッセージを送ったものの、ふと不安になった。結局のところ、慎一とはゴールデンウイークに会ったのを最後に会えない日が続いた。それはスケジュール上しかたないと思っていたし、その分、まめに連絡を取り合うようにし、夏休みになったら会えればいいなと思っていた矢先に慎一から留学の話を伝えられたところだった。それにいつか慎一が留学しなければならないということはなんとなくは覚悟していたものの、もう少し先の話だと真智子は思い込んでいたようなところもあった。


―慎一のことだから、きっと選考に通って留学を決めるにちがいないわ。出立はいつ頃なのかな?夏休みまで待ってくれるかな?私はとにかく、今は、課題に集中して。無事に試験に合格しなければ……。せめて、見送りには行けるように―。


 真智子にとって慎一はピアノの先生でもあった。慎一の影響で真智子はピアノの腕をあげたし、芸大は無理だったものの、念願の桐朋短大に入学できた。慎一が側にいてくれたから頑張れたことを真智子は桐朋短大に入ってからも身に沁みて感じていた。特に個人レッスンで新しい先生がついたことでの心境の変化は大きかった。担当の佐藤みどり先生はピアノは確かに上手かったし、優しく親身になって真智子の今後の方向性や目標について相談に乗ってくれたが、慎一のピアノを聞いたときの真智子の心を引き込む圧倒的な魅力は今のところ感じられなかった。ただ、みどり先生は真智子の心の緊張をほぐし、リラックスできるような雰囲気作りが上手かったし、話していて楽しく、親友のまどかと話していた時のような気持ちになることもあるぐらいで、教え方も上手かった。その一方で、みどり先生のもと、課題曲の『ベルガマスク組曲』に真剣になればなるほど、慎一と音楽室で練習に励んだ日々が遠くなっていくような気がした。そんな時に舞い込んだ慎一の留学の話だったから、少しずつ感じはじめていた慎一との距離が一気に広がり、慎一が自分の手の届かない人になってしまうような不安な気持ちが真智子の心をとめどなく押し寄せてきたのだった。

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