第六話・其の終焉




 ざざ、ざざ、と草木が揺れる。

 無彩色が信条と言わんばかりの絡繰警察本部で、此処だけは緑に囲まれていた。殉職者追悼の石碑群だ。その中でも人に顧みられる事の少ない一角に、明奈は佇んでいた。背後から草を踏みしめる音がしても、振り返ることはない。近づいてきたのが、供花を手にした裕季だと知っているからだ。

「……今日は、見回りないんですか?」

「……うん」

 半ば倒壊した屋敷を抜け、組織に属する者として成すべきことを成し、元来た道を取って返すように駆け、漸くの思いで辿り着き。

 その後の記憶は、曖昧だ。精神的打撃を受けると強制的に睡眠状態に入り、目覚めた時には断片的な情景しか残らない絡繰の性情が、今回だけは恨めしい。

 眼前の石碑に改めて目を落とす。此処にある石碑は、大きく分けて丁寧に名前と役職が彫られたものと明確な記述の不在を補うほどに賛辞と訓辞で覆われたものがある。その中で、人目を憚るような眼前のものは文句も異彩だ。小さく小さく、それを読み上げる。

「『幾多の同胞を殺し幾多の同胞を生かした、我等が同胞』……『此処に眠る』……」

 さしたる功も成さず若くして散った人間にせめてと添えられたような短い言葉。だが、明奈は知っている。だから笑う。

「本当、その通りだよね」

 黙って頷く、隣からの気配。裕季には、全てを伝えた。はらはらと言葉もなく泣く姿を、妙に冷静に宥めたことを覚えている。

 明奈は、泣かなかった。

 堪えているわけではなく、感情が麻痺してしまったわけではなく。受け入れた。悲しみも寂しさも、遣る瀬ない心も。心が波立てばその分だけ自分の記憶から妹がいたという事実が零れ落ちて行くことに気付いたから。

 裕季が一歩踏み出し、屈んで献花を手向ける。寄り付く者の殆どいない場所でありながら、この一角に石碑が増えてからささやかな華やぎが絶えたことはない。その理由を維持してくれている友人を一瞥してから、明奈は空を見上げた。夕日の紅に目を細め、眩しさに手を翳す。首を巡らせたのだろう裕季の視線を感じる。

「そういえば、あっちゃん」

「うん?」

「瞳の色、変わりました……?」

 あぁ、と明奈は瞼の上から目に触れた。今隠れている瞳は、あの事件以降、視力が落ちてほんの少しだけ褪せた。人間と微細が異なる絡繰には、色の濃淡に限れば儘あることらしい。

「原因は分からないんだけどね。多分、立花に庇われて倒れた時になったんだろう、って」

 宵闇を映したような黒は、夜を越えて少し色を変えて。今はさながら、朝日が差し込む直前の、雲立ちこめる空の薄墨色、そして。

「立花の髪と、ちょっとだけ似てるでしょう?」

 思えば妹の瞳の色は、自分の髪の色だった。髪と、瞳と、まるで色を取り替えたような唯一の姉妹。濃い銀色の髪、紺藍の瞳、淡い記憶を上書きするかのように最期に微笑んだ立花は、きっと忘れていいよと言うのだろうけれど。

 忘れない。立花にまつわる記憶がどんなに痛みを伴うものでも、忘れてやらない。

「そうですね。……りつちゃんの色だなって、私も思ってました」

 裕季が立ち上がる。並んで、二人揃って、石碑から離れる。そのさなかで、明奈は心中呟いた。

 

 立花、私はね。出来ることならやり直したいけど、それでも、また会えただけで良かったとも、思ってるよ。

 だから今は、どうか安らかに。




 教え子とその友人が戻って来ようとする姿を窓越しに確認し、透夜は一つ息をついた。存外重くなったそれに苦笑に似た表情を浮かべ、一転して厳しい眼差しを執務机の上に向ける。其処に置いてあるのは明奈の為に新たに支給された階級章と、明奈の元へ向かう前に裕季が携えて来た封書だ。

 先日の事件で負傷した裕季の治療を絡警の経費で落としたところ、彼女の保護者である絡製作者がいたく恐縮し是非お礼をと進言したため、では、と頼んでいた案件があったのだ。果たして結果は、透夜の予想通りだった。


 明奈の階級章には、盗聴器と絡警に逆らわぬよう暗示をかける為の機材が仕掛けられていた。


 おかしいと、気付く場所は幾らでもあった。自分が気付くより早く明奈の不在を報告してきた部下。声や姿を確認しない限り眉唾ものでしかない木晴の生存を信じた上司。かつて自分たちの保護を無し得なかった組織を盲信していた明奈自身。

 浮かんだ疑惑が確信に変わるには、充分だった。目を閉じ、絞り出すように呟く。

「先輩」

 知って、いたんですか。

 問い掛けは、相手がおらず答えが分かっている時ほど無意味なものはない。階級章を隅に置き、業務中は触れないと決めていた愛用の楽器を取り出す。幾つかの穴を指で押さえ、息を吹き込む。流れ出す旋律。紡ぐのは、初めてまともに演奏出来た時、叶うならば慣れぬように、せめて自分の後から来る者はと綺麗事を並べてしまった曲だ。未だこの音に唇を引き結ぶのだろう青髪の部下が脳裏によぎる。

 乱れることのない指使いが、心を鎮めると同時に微かに煩わしかった。




 裕季と別れ廊下を歩いていた明奈は、向かう先から小さく響く金管楽器の音色に歩調をこころもち早めた。久々に聞く音、滅多に聞かない曲、これは。透夜の奏でる、鎮魂歌だ。

 扉の前まで辿り着き、曲が終わるまで待つ。今入ったところで無礼を叱ることはない上司だが、入ってはいけない間合いだと知っている。駆けたのは、これが終わった瞬間こそ自分が入るべき時だと察したからだ。音が止んで三拍後に、扉を叩く。

「透夜さん、明奈です」

 日頃の名乗りは敢えて使わない。今必要なのは、『准将の優秀な部下』ではなく『透夜の被保護者』だろうから。

「……あぁ、どうぞ、明奈くん」

 案の定ほんの少しだけ返事に間が空いた。扉を開けば、既に片付けを始めた師の姿がある。意識して、組織外での言い回しを選ぶ。

「お仕事終わったんですか?」

「……僕がやるべきことはやりましたよ」

 歯切れの悪い言い方は透夜らしくないが、現状を思えばさもありなん、だ。

 絡繰警察は今、組織始まって以来ともいえる風評被害に晒されている。ある夜を境に、報道各社に絡繰警察の不祥事が、組織結成の黎明期から現在に至るまで丁寧に時系列を並べた上で、匿名にて大量に撒かれた。瑣末なものや出鱈目であっても事実確認に群がる者を捌くのは容易ではない。また、どれだけ潔白を叫ぼうと、一度流れた評価はそう簡単に変わるものではない。

「暫く、大変そうですね」

「先輩の置き土産ですから。あの人が本気で勝ちに出て、無傷で済む相手などいませんよ。それに」

 ふと言い差し、透夜の視線が地に落ちた。すぐに上がろうとした眼差しは、しかし明奈とは重ならない。執務机、そしてその先にある来客用の向かい合うソファの方角へと滑る。

「透夜さん?」

「……明奈くん、君の仕事は、もう終わりですか?」

「あ、はい」

 終わりも何も、明奈の仕事は透夜が管理しているのだから聞くまでもない筈だ。訝しんでいると、ゆっくりと言葉が紡がれた。

「少し、話が長くなります。座って話しましょうか」

 ソファへと態度で誘導され、歯向かう謂れもないので黙って従う。透夜が上座、明奈が下座になるのは最早無意識だ。

「最初に、確認をしておきましょうか。……君は、この事態をどう見ていますか?」

「え?」

「分かりにくいのでしたら、質問を変えましょう。君は、今回先輩が流した情報のうち、何割が真実だと考えますか?」

 無機質な声音で綴られた内容に瞠目する。透夜がこの聞き方をするということは、何割かは確実に真実だということだ。全てが虚偽だと、絡繰警察は清廉な組織だと、そう思ってはいけないのだ。

 不正を働こうとする輩がいたのでは、数日前に透夜に提言したのは他ならぬ自分だ。しかしあれは飽くまで可能性、あのまま木晴が残っていればという前提だったのだ。嗚呼、それでも木晴を陥れようとした人間が組織に残っているという事実は変わらないのか。

 綺麗でいたいと、そう叫ぶ自分をかなぐり捨てる。

 甘いままでは、透夜の補佐として立てない。

「五分五分、ですか?」

 覚悟を決め、口にした言葉に、透夜は首を横に振った。責める顔ではない。

「いいえ。それ以上です」

 透夜が腰を浮かせる。音の無い自然な動きに明奈が漸く反応を返せたのは、伸ばされた手で視界を覆われてからだ。決して不安でも不快でも無いが、意図が掴めず身じろぐ。すると柔らかな声が降って来た。

「今から僕が話すことは、君にとって酷な話です。だから君は、聞かなくてもいい、君には耳を塞ぐ権利がある。ただ、君には全てを聞く権利もあります、そしてその情報を以て断罪する権利が」

 本当は、聞いて欲しくないのだろう。この声は、普段なら職場では決して聞けない響きだ。そして透夜は、もう知っているのだろう。明奈がどちらを選ぶかを。

「聞かせて、下さい」

 残酷と言うのなら、自分より余程理不尽な運命に蹂躙された存在を、もう知っているから。息が僅かに頬にかかる距離で、話は始まった。

「まず、先程の問いの答えです。全ての確認は出来ていませんが、8割は間違いなく真実だと断言して差し支えないでしょう。残り2割に関しても、それを否定する為の過程で別の不祥事を認めざるを得ない構造になっていることが殆どでしたから、ある意味全てが真実と言ってもいいのかもしれませんね」

 個人としては長い月日であっても絡繰という存在が生まれてすぐに立ち上がった組織として考えるのであれば確実に短い筈の年月。その中で膿は着実に溜まっていたのだ。正義を声高に叫ぶ裏で降り積もるものを、誰もが掻き出そうとすらしなかった。

「そして絡繰警察最大の不祥事は……あの、『惨劇の日』です」

 透夜の声が震えた。明奈が何を言うより先に、言葉が接がれる。

「ごめんなさい。僕は君を、この組織に引き入れるべきではなかった。君を此処から、離すべきだったっ……」

 今も透夜の右手が明奈の視界を塞ぎ、表情はよく見えない。限定された感覚は、次の予測を困難にさせる。


「『惨劇の日』の情報を、絡繰警察は予め知っていた」


 抑えた声が、画面上の風評を読み上げているようにしか響かない。いつも正しい真実を明奈に示してくれた透夜の声だと、ともすればそれすら認識出来ない程に。瞼を押さえられている筈の手から、温もりを感じない。

「確認をとったところ、真実だそうです。僕たちは君たちを、見殺しにしたんです」

 当時透夜は既にいた絡繰警察。上層部は、明奈や立花が傷つくより先にそれを知っていて、敢えて存ぜぬ振りをしたのだと。

「脅しに屈しては名誉に傷がつく、と。脅しではなく警告だったと言うのに。そして警告を無かったことにしたのです。『名誉』の為に」

 絡繰の……明奈や立花、その他多くの子供たちの命より、保身のほうが大事だったのだと。此処は、そんな泥にまみれた組織なのだと。

 不意に気付く。透夜が視界を奪ったのは、明奈の為だけではない。明奈の目を見て全てを話せる自信が、透夜に無かったからだ。そんな虚栄心を、透夜はきっと自覚している。ここまで来て尚、無意識に自分を守ろうとする心を、厭っている。

 その証拠に、揺らいでいた声が凪いだ。

「これで、僕が話したいことは以上です。話すべきことも、おそらくは全て話し終わりました。……終わりです、明奈くん。君は僕を、君をこの組織に引き入れた僕を、断罪する権利がある」

 教え導いてくれた声が、断罪しろと要求する。悪を討てと繰り返し口にした唇が、自分こそが悪だと動いているのだ。


 それは、『惨劇の日』を生み出した組織の『上層部』で在り続けることを、透夜が決めたからだ。

 木晴のように離反することで糾弾するのではなく、汚泥に塗れた剣と椅子だと知っていて、罪と責とに向かい合う道を、選んだからだ。もう、それしか選べないとも、例え選べるとしても結論には変わりないとも。だから。

 今、『惨劇の日』の原因と呼ばれるべきは、『上層部』は、透夜なのだ。


 知らなかった、知らされなかった。自分たちの運命を変えた相手はすぐ近くにいたのだと。暗い視界、この原因たる腕を掴んで、捻って、殴る権利すらあると。

守られると同時に隠されていた、関係。それをどう処すか、全てが明奈に委ねられているのなら。

 言わなければならない、ことがある。

「透夜さん」

 視覚を奪う手を、ゆっくりと外す。間にある机から乗り出すような形で自分と向き合っていた透夜を見上げる。西日で更に色が抜け灰白色に見えるのだろう明奈の瞳に透夜が目を細めた。それには気付かない振りで、首を傾ける。

「私には、貴方を断罪する権利があったとしても、断罪する理由がありません」

 だってそうでしょう、と同意を求めても固まって動かない相手に、少しだけ憮然とする。

 何で分かってくれないんだろう。何でいつも私を信じてくれるこの人は、こういう時だけ私を信じてくれないんだろう。

 優しすぎる人だからだと分かっているから、すぐに微笑んで言葉を足すけれども。

「確かに、立花と一緒に生きられなかったのは悲しいし、悔しいです。返してくれるなら返してって、今でも思います。でも。それこそ立花、言ってたでしょう?」

 自分が木晴と対峙していた最中、まさに立花が口にした言葉。木晴が立花を生かした、その事実だけが揺るぎない真実ならば、他は何も要らないのだと。


 ――自分たちは姉妹だと、心から思う。


 離れていきそうな透夜の指を、緩く握り込む。その手も腕も見えているのに、日差しで表情だけは判然としない。

「私にとっては、あの日私に生きる意味をくれて、ここまで生かしてくれたのが、透夜さんなんです。どんなに汚くても、歪んでても、私は絡警にいる透夜さんに憧れて、絡警で透夜さんの役に立ちたくて、今まで生きて来たんです。私にとっては、それが全てです」

 息をのむ気配がする。しかし口元より上の顔は、どうしても差し込む光が邪魔をする。眩しいなあと目を細めれば、尚更視界が明瞭さを失う。じわりと透明な膜が瞳を覆うのは、きっと気のせいだ。

「私は、透夜さんの絡繰で、透夜さんの部下です」

 それでも、黄昏時、明奈が誰ぞと名を問うことはない。本当に人の判別がつかなくなるのは一瞬きりだと、巡回の経験がある警察ならば誰もが知っていることだから。そして、握り締めていた手が離れたとしても、今度は隣に腰を下ろす気配が近づいてきているから。

 自分を引き寄せる存在の名など、聞くまでもない。

「君は、何処にも行かないで下さいね、明奈くん」

 いつも自分を宥める為に柔らかく背に回された腕が、今は少し痛みを感じる程に強い。肩口近くで呟かれた願いは、些細な望みにして至上の幸せ。だから、同じように腕を回して、誓う。

「私は、ずっと透夜さんの傍にいますよ」

 貴方の対となることが、対と引き離された自分の存在理由だと、そう信じて。

 暮れなずむ世界の色はまだ黒には遠く、果てしなく優しい。

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絡繰警察 蒼城ルオ @sojoruo

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