第四話・黒の追撃




 意識が覚醒した明奈は、すぐさま警鐘を鳴らした本能に従い、開こうとした瞼を閉ざした。

 此処は、自分の知っている部屋ではない。無造作に横にされているのはおそらく、石の床だろう。湿り気はないものの明らかに日頃使われていない埃っぽさが拭えていないところから推測するに、奥座敷の牢とでもしたほうが妥当か。手足の違和感と周囲の気配は感じるが、多少の錠の縛りは絡繰には関係ないし、警戒されている風情もない。

 舐められている、ということか。それならば、時機さえ誤らなければ確実に隙をつける。

 そう判断した明奈の耳朶を、聞き慣れない低い声が叩いた。

「おはよう、絡警の狗。具合はどう?」

 起きていると、気付かれていた。驚愕から反射的に目を見開く。

 まず視界に映ったのは、すぐ近くに立つ足。そのまま視線を上げれば、一人の男が目に入った。着崩れた白衣、色素の薄い髪、淡い青の瞳。そして、その肩越し、檻の向こうに。

 ――俯いて、控えるように壁際に佇む少女がいる。

「立花を返してっ!」

 立ち上がろうとした勢いは、鎖に繋がる錠に削がれて阻まれる。ぎっと睨みつけた眼光には肩をすくめられるのみだ。

「返して、とはまた心外だね。今のアイツは、俺が生かしてるようなものだ。俺のもとにいなければ、アイツは生きられない」

「どういう意味……?」

「降伏するなら教えてやるけど?」

 膝を落として視線を合わせる仕種は、育ちの良さを思わせる優雅さに比例して此方を舐めきっていることがありありと感じ取られた。反射的に噛み付く。

「誰がっ!!」

「まぁ、お前に俺の思想を理解してもらえるなんて思ってないさ。……分かりやすく教えてやるよ」

 語尾に冷気が纏わり付く。小さく息を呑む気配がした。男が再び立ち上がる。

 次いで生じたのは、全身を貫く衝撃。

「っ!?」

 痛み、などという生易しいものではない。無造作に振り下ろされている筈の足は正確に肺や気道を圧迫し、息が詰まる。

「俺には、こういうことが出来るってこと」

 歪む視界の中で、傲慢に優勢を宣言する相手を探す。頭の芯が揺れる感覚がする。何だ、何だこれは。打撃という意味ではこれより上級の者の技を幾らでも喰らったことがある。拷問吏の所業を眼前で見たこともある。今自分をいたぶっている相手は、どちらに関してもずぶの素人だ。そもそも絡繰に生半可な打撃は効かない。

それにも関わらず、どうして、急所をえぐるような攻撃が出来る。

 不意に解放され、ごほごほと鈍い咳が洩れる。これ以上無様な姿を見せてたまるかと息を整える明奈に、涼やかな声が提案する。

「今の、相当苦しかっただろ? お前の上司の名前売るっていうなら、止めてやってもいいよ」

「断るっ……!! あの人を裏切るくらいなら……死んだほうが、マシだっ……!!」

 どれほど激情に駆られようとも、透夜の名前だけは呼ばない。渡さない。揺れることなどない瞳で自分を見据える立ち姿が浮かび、次いで穏やかに笑み崩れ自分を手招く仕草がよぎる。

 自分に強さをくれた人。守るべき妹を失い、守るという定義を失い、何も残されていなかった明奈に、存在意義をくれた人。守りたいと、浅はかな願いだと承知の上で、思う人。

 この男の狙いが自分の先にいる透夜なら、明奈は死んでもこの位置を動かない。透夜を守れるのなら、強がりでなく笑って死ねる。

「流石というか何というか……、強情だな。まぁ、お前が苦しめば直接手下すよりアイツが傷つくから、俺にとってもそのほうがいいね」

 青い、決して藍ではない瞳が暗い色を帯びる。

「俺はね、お前が俺らに屈しようが屈しまいがどうでもいいんだよ。お前が傷ついて、それで苦しむ顔が見られるなら、それで」

 相手が見ているのは、明奈ではない。

「だから……目を逸らすなよ? 立花。これは、お前への罰でもあるんだから」

「分かって、ます」

 絞り出された声は、震えていた。彼女の瞳が何を訴えているのか、聞かなくても分かる。

 大丈夫、立花。私は大丈夫だから。そう、敵味方の別もなく告げてやりたいのに。

 再び始まりを告げた拷問に、明奈は声を殺すことしか出来なかった。




 透夜に師団の出動を願い出られた中将は難色を示していたが、一つの名前を告げるとすぐに掌を返した。論拠があるとはいえ、それを出していない現状で考えれば荒唐無稽な仮説だというのに、まるで怨霊に怯えるかのような素振りに呆れさえ覚える。同時に、胸の奥に閉じ込めたはずの記憶が疼いて、痛むけれど。

『軍服、様になってるじゃないか、五十崎少佐?』

『先輩!? どうして此処に!』

『お前みたいな名家の坊ちゃんに怪我させるわけにはいかないって絡繰を鍛え上げる企画が持ち上がってね。天才たるこの俺は何と試験無しで少尉に任命ってわけ。凄いだろう?』

 軽い口調に、目を眇めた。本来なら、もっと高い地位のはずだ、この人は。

 彼が背負っていた苗字は透夜のそれより先に来る数字。元は五十崎など比べるまでもない名家でありながら自らの信念に背く事象には頑として首を縦に振ろうとしない性情を持つ者の多さゆえ零落した、一族宗家の一人息子。今は絡繰製作の第一線で働く親類の級友として彼に紹介された、透夜の学生時代の先輩だ。生家の不遇も実母が異国人ゆえ不当な扱いを受ける自身の境遇も笑い飛ばし、自分と出会った時には既に絡繰制作への並々ならぬ才能を発揮し、その道を志していた。

 だから透夜は、知っていた。

 彼が非凡な業績を持つに至った、類稀なる生来の能力を。ゆえに持つ、彼の思想を。絡繰制作に尽力せよなど、彼には言うまでもない命令だ。そう思い、複雑な顔をしている透夜に、肩をすくめて笑みが返される。

『お前がそんな顔する必要ないんだよ。見てろ、いつかこの機関に俺の一族の名前を知らしめてやる』

 その数年後、彼の一族は確かにその名を再び歴史に刻んだ。――自分に従わない絡繰警察名うての絡繰をことごとく破壊するという大罪を犯した悪魔の、忌むべき生家として。

 数ヶ月後に『惨劇の日』が起こったために、該当事件については機関内でも詳しく知らない者が多い。けれど、あの悪魔さえいなければあの時の被害は抑えられたと、被害者たる絡繰以外は皆知っている。一度理不尽に全てを奪われ再びの機会を与えられた絡繰の未来さえ奪った、絡繰を機械としか見ていない、科学者と呼称することさえ憚られる存在。それが、彼の本性。

『俺はあくまで、絡繰製作者だ。科学者としての自分を誇るし、お前とお前の部下の繁栄に、全力を尽くすよ』

 元来感情の薄い、けれど冷たくはなかった眼差しで紡がれた言葉。あれは、まやかしでしかない。

 透夜は静かに、隊に向け足を踏み出した。夜の匂いが、彼を包む。




 尊敬する姉が尊敬する師に甚振られているという板挟みの状況に身を固くしていた立花は、不意に首を巡らせた。見つめる先にあるのは、玄関。微かに、足音と号令を交わす声が聞こえた。これを知っている。絡繰警察が敵に作戦内容を知らせないようにするために使う、異国の言葉だ。

 どくりと、普通の人間であれば血脈にあたる部分が脈打つ。衝動が、湧き上がる。

 あれは、敵だ。

 先生の敵で、私の敵だ。敵が私たちを囲んでいる、敵のくせに私たちのところへ踏み込もうとしている。あぁじゃあ私が追い払わないと。そうしてもう来ないようにしないと。消さないと。殺さないと。

 くつくつと、まるで楽しむように笑みを零す。否、立花にとって殲滅は最早義務ではなく遊戯だ。

 消したい壊したい殺したいころしたいコロシタイ…………!!

「立花」

 低く柔らかな声が呼ぶ。振り向けば、木晴が笑みを浮かべている。その表情だけ見れば優しき保護者と見紛う顔で、立花を制しも動かしもする存在は言う。

「いいよ。遊んでおいで」

 許可は出た。立花は心底嬉しそうに、口端を吊り上げる。

Jaはい

 その表情に、姉を案じる風情は既に面影もなく。踵を返して走り去る姿に、後ろ髪を引かれる様子はなく。銀の髪を軽く踊らせて、白衣の鬼子は闇へと消える。去り際、扉に立てかけてあった銃剣を、当たり前のように手に取って。

「……立花……?」

 呟いた声音は、空しく響く。応えはもう、届かない。

 一瞬にして豹変したその姿に、明奈は拷問の手が緩んでいるにも関わらず、反撃という手段を思いつかなかった。目の前の光景に、起き上がることはおろか、身体を動かすことすら出来なかった。

「信じられない? 今のアイツの姿が」

「っ、立花に、何を……!」

「お前だって聞こえてるだろ? 絡警の足音。一人残らず追い返せ手段は問わない、ってところか」

 絡繰である自分たちよりよほど無機質な声が、追い打ちを紡ぐ。

「俺は、許可を出しただけだよ。どうするか、決めたのはアイツだ。アイツは、望んで人間を手に掛けてる」

「アンタが、そう洗脳したからじゃないのっ……!?」

 反射的に口をついて出た言葉。

 明奈の思考回路では極自然な、だからこそ瑣末と言ってもいい言葉。今の立花を見れば、誰であっても無理やり従わせられている等とは思わないだろう。理性は、そう告げている。

 あれはもう妹でも親友でもなく、処罰すべき犯罪者だと。思うたび胸をえぐる決断を、明奈に突き付けてくる。それと同じ冷酷さで、嘲笑うのだろう、信用出来ない口調で否定するのだろう。

 けれど明奈には、過日に見た幼い微笑だけが真実。立花は、自分の知っている立花は、遊ぶように人の命を奪える性格ではない。

 ――洗脳されて、いないのならば。

 絡繰の思考回路は、普通の人間より格段に容易く洗脳出来る。だからこそ明奈はぎっと顔を上げ、相手を睨んで。腹立たしい敵を見据えて。そして。


「――ふざけるな」

 一瞬、心から寒気を覚えた。先程までの愉悦を含んだ口調からは想像も出来ない、暗い炎にも似た激しさ。


「あんな奴らと同じ真似、誰がするか……!」

 眼光は、決して明奈を捉えていたわけではなかった。それでもその強さに、反論が出来ない。胸元を掴まれて尚、自分に焦点が合っているとは思えない瞳。激情に染まった、青。

「真実を封じて、偽りの、都合のいい情報だけ与えて。何も知らないまま凶行に向かわせて用済みになれば廃棄?」

 気道にかかる圧力。明奈ではない誰かを明奈に重ねて、明奈を締め上げる怨嗟の発露。低下する酸素濃度に白く遠のき始める視界の中で、目の前の男が立花に行ったのだと信じていた所業が憎々しげに語られる。

「やったのはっ、――……」

 そして、不自然なほど唐突に、言葉が止んだ。腕を放され、咳き込む。同じだなと微かに呟かれた声が今重ねたのは、立花か。

「さて……アイツはいない、お前は何も吐かない。俺もそろそろ飽きたし、一旦休憩とするか」

 突然自由になった呼吸。無意識に首に手をやり、明奈は瞠目する。

 階級章が、ない。位階を示すもの、それ以上に。漸く透夜直属の部下になれると、頼りにしていますよと職場では滅多に見ることの出来ない微笑で渡された、大切なもの。

 何処かで落とすはずがない。誰かが意図的に外さない限り、階級章は外れない。

「返してっ!」

 鎖で繋がれた腕は空を切った。階級章を掌で遊ぶように転がしながら、淡い青の視線が向けられる。

「絡警から貰ったから? 五十崎から貰ったから? まぁ今のお前にとっては同義か。――教えてやるよ」

 明奈の目の前で、階級章が無造作に床へと落とされる。小さく跳ねたそれに靴の踵が振り下ろされ、回線が切れるがごとき微かな音と共に金属が、悲鳴をあげた。原型こそ留めてはいるものの、それは既に屑の寄せ集め。

「今まで絡警の奴の中で、俺から絡繰を奪い返そうとした奴はいなかった。お優しい五十崎准将は、どうだろうな?」

 絡繰警察に籍を置く者への最大の侮辱に、我知らず歯を強く噛みしめる。ここまで自分の神経を逆撫でられ、日頃沈着さを課している自分が易々と煽られていることが、また悔しい。例え立花が目の前の相手に心酔していようともこの憎悪は撤回してなるものか、ここまでの仕打ちでの痛みが激情に油を注いだ。

 眼差しだけで射殺せそうな視線に意に介する風情すらなく、相手は踵を返す。こつこつと、膂力を補う細工でもしているのか抑える風情すらない足音と共に、言葉が紡がれる。

「あぁ、逃げようなんて無駄な抵抗はするなよ? 反抗した絡繰用の鎖だ、お前たちには解けないよ」

 その声は既に、こちらを侮ったものだ。檻を越え、錠が閉められ、縛りがなくても捕まえるのに一拍必要となる距離まで離れたところで、その顔が振り向く。

「絡警を裏切って俺の側につくなら外してやってもいいけど、愚問だろう?」

「当たり前でしょうっ!」

 そういう奴等だよ、お前たち絡繰は。

 嘲笑った言葉が僅かに掠れていたことが、妙に印象に残っていた。




 あれから、おそらく数時間が経つ。床の冷たさが布越しに肌へと伝わり、常人よりは寒暖に強い筈の体の温度が徐々に下がっていくのを感じながら、明奈は耳をそばだてる。上から微かに届く味方の声は、時を経るごとに遠くなっていた。否、減っているのだろう。減らされて、いるのだろう。悲しいほどに秀でた聴覚は、集中すれば聞きたくもない哄笑さえ拾える気がした。

「……嫌になるな……」

 とうとう自分のいる空間に無音が降りしきるまでになり、呟きが零れた。思うように動かない体と決して開くことのない扉は、いやでもあの日を思い出す。強くなると、決めた日を。


 そう決めたのは、何のため。


 立花と共に生きる筈だった未来を奪った、憎い相手に復讐するため。そのための力と居場所を与えてくれた透夜が、少しでも長い時間元来の穏やかな顔でいてもらうため。今は裕季だけが残るかつての自分の居場所で、もう二度と自分たちのような存在が出ないようにするため。

 それなのに。

 図らずも再び目の前に現れた立花は敵で、復讐対象と見なしていいだろう相手には一方的に嬲られた。自分が帰って来なければ、透夜と裕季は少なからず心配するだろう、迷惑をかけるだろう。上で力尽きた者の中には、施設の縁者もいる筈だ、待っている家族や恋人がいた筈だ。

 強くなったと、思っていたのに。

「全然、強くなれてないじゃん、私……」

 立花を返してと、ただ叫ぶだけの。そんなことは、幼子でも出来る。それこそ、あの日も同じことを言った、願った。剣を握り、血に濡れ、力を求めたこの手は、結局誰かを守るには足りない。

 もう、身体は動かない。心が、摩耗している。自分は、無力だ。

 胸を抉るような自嘲の言葉が消えるのを待たずに、黒の瞳は視界を閉ざす。希望の潰えた果てに感じる切り裂かんばかりの寒さは、それこそあの時の再演で。



「――そんなこと、ありませんよ」

 あの日と同じ、声が響いた。



 気力すらないと思っていた瞼が、即座に開く。映るのは、煌びやかな階級章を最低限に留めた機動性の高い制服に長剣を佩いた、上司の姿。いとも容易く外れる錠の音が、何処か遠くのことのように響く。そして、瞠目したまま動けない明奈の頬を、白い手が撫でる。あの日、同じように腰を落として、泣きじゃくる自分の涙を拭ってくれた手。今度は涙ではなく、汚れを拭き取って。

「よく耐えましたね、明奈くん」

 君は決してあの日のままではないと、態度で肯定してくれる。その言葉に、必死に堪えていた堰が崩れた。

「っ、透夜、さん……っ!」

 身体を起こし、小さな子供のように縋りつく。あの時大きく感じた相手は華奢にすら思えるけれど、それでも自分を受け止めてくれる。明奈を育ててくれた、明奈の心が真実凍ることがないよう見守ってくれていた、唯一絶対の温もり。

 今更のように思い至る。透夜の為なら死んでもいいと覚悟を決めながら、きっと何処かで彼が来ることを待っていた。心の奥底で、助けに来てくれると信じていた。だから自分は気丈でいられたのだ。

「ごめ……なさ、私……」

「僕の命令を破ったことは赦しません。ですが、拷問に屈しなかったのですから今回は特別に不問にしましょう」

 君は僕を、守ろうとしてくれたのでしょう?

 敢えて叱責した後にそんなことを言うのは狡い。涙交じりの反論は聞こえていないだろうし、聞こえても流されるだろう。そういう人だ。

 誰よりも厳しい人。自分の領分を守らないと誰より怒る人。けれど本当は、無茶をしないよう見守ってくれる、優しい人。明奈に何が出来て何が出来ないか、誰より分かってくれる人。

 服をぎゅっと強く握り、数拍深い息をついて自分を落ちつかせる。もう大丈夫、自分の傍には透夜がいる。それに気付いたのか、透夜の口調が変わった。

「これ、誰にやられたんですか?」

 叱咤する時にしか聞かない冷たい声音に、対象は自分ではないと分かっていても、身体がすくむ。そろそろと見上げた瞳は燃え盛るからこそ寒色に変じた炎のような、そら恐ろしさが垣間見えた。

 感情が表に出ているのは、明奈を信頼しているからだ。信頼している部下を傷つけられたことに、激昂しているからだ。明奈をここまで、追いつめた相手に。

「妹さん、では、ありませんよね?」

「違います!」

 拷問の余波か大声を出せば喉が痛む状況で、それでも声をあげた。

 違う。遠距離型の立花には近距離型の自分を痛めつけられる力はない。妹は姉である自分が傷つけられる様を心底辛そうに見ていた。この非道を、成したのは。

「えぇ、分かってますよ。心当たりは、ありますから」

「え……?」

 透夜が立ち上がる。その瞳が見据えている先は、警帽に隠れて判然としない。

 ふと思い出す。自分が決して告げなかった透夜の名前を、あの男は知っていた。二度目は階級付きの嘲笑うような呼称だったが、最初は違った。

「犯人確保に、向かいますよ」

 今や誰も敬称を抜いては呼ばない名前を、侮蔑とは違う感情で呼び捨てていた。まるで、何度も呼んだことがあるかのように。




 自室に籠り画面上の数字や記号を操っていた木晴が、不意に顔を上げた。邸内に何か変化があれば即座に表示される別の液晶を眺めれば、示すのが当然であるかのごとく主張する光がある。怪我でも負っているかのように、進んでは止まり、また進んでは止まりを繰り返し、それでも着実に歩く存在。

 虫の知らせとでも言うやつか、と呟いて浮かべる笑みは、何処か自嘲じみたものだ。

「……俺はね、何処までいっても絡繰制作者なんだ。だから」

 机に手をついて席を立ち、先程まで作業を行っていた機械を作動させる。浮かぶのは刻々と削られる数値。そして、何処かへと転送されていく情報。

「この計画だけは、例えお前が止めても、譲ってはやらないよ」

 誰もいない空間で、さも誰かと相対しているかのように告げ、踵を返す。

 向かう先は、玄関へと続く大広間だ。もっとも、客人だろうと応接間への道を間違えなかっただろうかつての面影はない。幾多の障害物や見せかけの通路で阻まれ、隠れ鬼をするには最適だと嘯けるほどの薄暗い空間である。

 星の数ほど住居があった往年の遺産として辛くも残った屋敷の一つ。その住人の数を二人と定めた日から、ここまで辿り着く道は複雑化の一途を辿った。主人たる自分ですら滅多に通らない通路を今歩いて来る相手は、考えるまでもない。

「ただいま帰りました、先生」

「お帰り。随分と早く終わらせてきたじゃないか」

 もう少し遊んでから帰ってきても良かったのにと、続けるそれは、二人の間では惜しみない称賛だ。

 表にいた人数の規模を、木晴は大体察している。一連の事件の真相を見抜きこの屋敷に押し入る判断が出来る者の指揮ならば、旅団以上が来ている筈だ。それも、相当優秀な部類が。

 それを一人で全て片付けて来た立花は、実績を考えれば不相応と言ってもいい一言に、ふわりと笑みを浮かべた。この表情を、無邪気と言わずに何と言うのだろうと木晴は此処数年本気で思っている。例え、身体が緋色で汚れていようとも。その身を染めるものは、決して他者からのものだけではないのだから。

「数に物を言わせて近距離戦に持ち込まれたので、銃撃は使えなかったんです。だから、すぐに終わらせようと思って」

「だろうね、顔に返り血ついてる。あと右腕、動かすと痛むだろう?」

「いえ、痛いことは痛いんですが、別に」

 強がりではなく首を傾げる立花。絡繰は常人より痛覚が鈍い、しかし血が溢れている今の状況を照らし合わせれば異常だ。

 かつて一度壊されたがゆえに起こった、いわば後遺症の一つ。死の恐怖さえ自覚しなければ、立花は痛みを本当の意味では認識しない。他者の痛みは、手に取るかのごとく理解するというのに。

「……俺が見てて痛いから」

 持ってきていた包帯を放って寄越す。止血しろという無言の命令に立花が逆らういわれはない。彼女を拾った際、当時持っていた技術の全てを以てしても消してやれなかった傷跡を隠すよう渡してから、恐らく一番多くなった命令。最初は上手く巻けず手を貸してやっていた幼子の手は、今やすっかり成長し利き手でない腕の止血など造作もない。そんなことを脈絡もなく思い出す意味にも、木晴は疾うに気付いている。

「先生」

「何?」

「先生が修理したほうが早いと思うんですが。お忙しいんですか?」

「いや? ――立花、殺さなくていい、押さえろ」

 主語の無い指令。だが、絡繰は主人に忠実だ。突如現れた影を、立花は正確に捕縛する。動けないよう締め上げて、そこで初めて瞠目する。

「明奈!?」

「流石絡警の狗ってところか。お前が逃げ出したのバレてると、知ってただろうに」

 あの画面には、把握する必要のない木晴自身は映らない。把握しなくとも自分に反旗を翻すことのない立花も、映らない。大広間に向かう存在は、拷問の隙をついて探知機を仕掛けた相手に他ならない。

 動きを拘束されて尚、刃を木晴に向けることを止めようとしない明奈の瞳には、手折った筈の光が戻っている。

「立花、離して……ってのは、無理なお願い?」

「……ごめん」

 妹を見ることなく背後に言葉を紡ぐ機巧警察と、合う筈のない姉からの視線に怯えるように目線を落とす犯罪者。身分で形容するよりも姉妹と一纏めに表現した方が似つかわしい二人に、笑う。

「そいつに情に訴えて効くのは俺が絡んでない時だけだよ」

 二人を引き裂いた運命を、嘲笑う。

「さぁ、どうする? これで終わりか?」

 挑発するように言えば、強い眼差しが真っ直ぐに木晴を見据える。過日に自分に生きたいと願ったものと、よく似た瞳で。その光源は、誰かへの揺るぎない信頼。

「まさか。――Dios我が主!!」

 異国の言葉。敬虔なる宗教家が、自らの敬愛なる主を呼ぶ言霊。

 ひやりと、硬質な銀が首筋に当たる。背後に目を滑らせれば、感情を消し去った双眸がある。遠い日に見ていた顔と、似て非なる表情。

「お久しぶりです、四島ししま先輩」

 冷たい声音。さながらそれは、暁の光を待つために、吹きすさぶ風に耐える夜。

 木晴は今度こそ、心の底から笑みを浮かべた。悪魔と契約した狂人が如き、歪んだ微笑。

「……あぁ、久方ぶりだね、五十崎」


機巧はあくまで、主に忠実なものだ。

――自分たちが対立したあの日から、彼女等の対立の運命もきっと決まっていた。




  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る