第参話・白の再来
何があろうと、朝は訪れる。感じる長さに違いはあれど、日々は確実に過ぎていく。久方ぶりに透夜に呼び出された明奈は、一寸の狂いもなく絡警の顔をしていた。その姿に半拍安堵の表情を見せた透夜もまた、この部屋の主たる冷徹な空気を再び纏う。
「件の、連続通り魔事件のことですが」
「はい」
机上に幾つかの紙が広げられる。ひとつだけ大きさの違うものは近隣区域の地図、その他は以前も見た被害者の名簿だ。最後に見たものより、枚数自体が増えている。
「年齢性別、一見特に共通点はありません。居住地に一定の並びが見られますが、おそらくこれは目くらましでしょう」
このような言い差しをする時の透夜は、既に何らかの手掛かりを掴んでいる。無闇に不安を煽ることになど何の意味も見出ださないからだ。ただ、この前置きがくる時は、後続は全くもって宜しくない情報でもある。
「犯人の狙いは、僕たちです」
「……警察への挑発、ですか?」
「違うとも言えますし、そうだとも言えますね」
透夜が座る席の机越しに明奈が立っているため、日頃とは絡む視線の上下が逆で物珍しいと、何処か他人事のように思う。軽く指を組んだ透夜は、真っ直ぐに直属の部下を見上げた。
「被害者は全員警察関係者……具体的に言えば、十年前から五年前の時点で警察関係者だった者、です」
「それは」
「帝都警察に絞ってもこれだけでは範囲が広すぎる、中将にもそう言われましたよ。ですから、公式では発表しません、が……」
その瞳が、鋭さを増す。冷たさの奥にあるのは、自責と悔恨。
「一線を退いた方でこの条件に当て嵌まる方は、もう殆ど残っていません」
つまり。
犯人は……立花は、もうそれだけの人間を殺しているのだ。
思えば目の前にある資料は、明奈が巡回を任されている地域のみ。此処を中心に動いているからであり、だからこそ自分が呼ばれたのだと思っていたが、もしもこの区域に限定したものだけ抜粋した資料であり、被害が帝都全体に及んでいるというのなら。捕縛と廃棄は、同義だ。
ならば、いっそ。腰に佩く剣を強く握る。誰かが殺す責を担うなら、いっそ。
「明奈くん」
静かな声が、明奈を現実に引き戻す。
「あ……すみません」
「君を、犯人捕縛の役につかせる訳にはいきません」
「どうして……っ」
「また、錯乱状態にならないと、理論立てて証明出来ますか?」
言葉に詰まる。甘えなど、とうに捨てた筈だった。それでも心の片隅で、存在を主張する顔がある。鞘から手を離し、拳を握る。
「すみま、せん」
「失態を繰り返しさえしなければ、責めるべきことではありませんよ。……その意味では、この組織自体のほうが業が深い」
最後に添えられた言葉の重みに、顔を上げる。職場ではおそらく滅多に見せないのだろう沈痛な面持ちが、そこにある。
「五年前といえば、絡繰作りの科学者たちも絡警の一部として数えられていた頃。また、彼らを巻き込むことになる」
その言葉に、以前透夜の口から聞いた話を思い出す。保護施設が今の規模になった理由。より有能な絡繰を作れと警察に駆り出され、激務でそれまで制作した絡繰の面倒を見切れなくなった科学者が多かったためだと。警察学校に、絡繰制作の学科が一時的に作られたことすらある、と。
それでも、警察の狗同然の扱いでも、生きているならいい。二度と絡繰のもとへ戻れなくなった者もいる。原因は過労や、蘇生の為に化学物質に日がな触れていたために起こった病。
あぁ、だからか。
与えられた任務に目を伏せ、明奈は拝命しながら思い当たる。その犠牲となった世代は、まさしく自分や友の制作者の世代……、透夜の同期の世代なのだ。
「惨劇の日」に隠された、もう一つの悲劇の世代。
「それじゃ先生、私、行ってきますね」
「うん、ありがとう。ごめんね、僕が行けたら良かったんだけど……」
「何おっしゃってるんですか! 先生たちは今凶悪な犯罪者に狙われてるんですよ!? 先生に何かあったら私は、私はっ……」
「大丈夫だと思うんだけどなぁ……うん、でも、任せるよ。宜しく頼むね」
「はいっ!」
ぱたぱたと、軽やかな足音が駆け出して行く。その足どりは、月の光さえない夜闇だというのに、まるで昼と相違ない。不意に立ち止まり、振り返った。師から譲られた白衣と日頃より僅かばかりしっかりと編まれた髪が翻る。
「あっちゃんの上司さんたちだっておっしゃっていましたから、大丈夫だとは思いますけど……」
視線の先にあるのは、先程出て来たばかりの研究所。一連の連続殺人事件の対象者が一部の警察関係者である可能性が高いと内々に通達が回され、数人の絡繰警察が警護の巡回を行っている。じっと見つめていた裕季は、暫くして首を横に振った。
自分が戦闘に特化した絡繰だったなら、など詮無いことだ。それは制作者を否定すること、それは、嫌だ。与えられたものを、自分は誇りに思っている。
「菅井裕季さん?」
そう、名前さえも。
振り返った先にいたのは、闇夜にも輝く銀色の影。その綺麗な色合いが、何故か警戒心を引き起こす。無言を貫いていると、言葉が続けられた。
「先代から警察と縁深かった菅井の手によって作られた絡繰で、警察の知人多数。合ってる?」
「私の先生を、呼び捨てにしないで頂けますか」
「あぁ、ごめんごめん。そうだよね、やっぱり『先生』は大事な人だもんね。じゃあ……」
にぃ、と、吊り上がる口端。目元は長い前髪で判然としない、その思惑と同様に。
「今から菅井を殺しに行く、って言ったら、怒る?」
首を軽く傾けて、物の道理を知らない子供のように。
血の気の下がる、音がした。
「っ、させませんっ」
考えるより早く、足が地を蹴る。非力が何だ、適性が何だ、自分はあの人の絡繰だ。守らなければ。先生を、私が、目の前の相手……連続殺人鬼から。
健気な決意は、次の瞬間銃声と共に砕け散る。
「うぁっ!!」
肩に生じる衝撃。致命傷ではない、治らない傷でもないと知識は告げる。だが、動かない。殊更にゆっくりと、装填準備の動作が視界をよぎる。
次いで足へ。これも軽傷だ。それでも膝は地面へと落ちる。溢れ出す鉄の匂いに、噎せ返りそうになる。脂汗が浮く。
跪くような姿勢で蹲る裕季の頭上に、いっそ優しく聞こえる冷たい声が響いた。俯く視界にすら映り込むほど近付いた、しかしそのことを感じさせない気配。
「殺す気は、ないんだけど。邪魔するなら、壊していくよ? 脳さえ無事なら絡繰は死なない、有能な絡警の縁者なら、直して貰えるでしょう?」
知らない。そんなことが可能なのかも。可能だとして、絡警がそんなことを警察でもない自分にしてくれるのかも。絡警ならば、それはもちろん保障されているのだろうが。
向けられた銃口。首筋に突き付けられたそれを払い落とすことさえ出来ず、強く目を瞑る。熱い。修復作業を行う際の器具に似た感触はそれを上回るおぞましさを伴って肌に張り付く。撃たれるのか、それとも、今、確かめるように触れられた指で絞められるのか。
脳裏に、青い髪の友人がよぎった。こんな怖い思いを、彼女はいつもしているのか。だから、あんなに優しい笑みを浮かべられるのに、いつも険しい顔で、冷たい声で。
「何やってんの、立花」
思い浮かべていた声が、玲瓏と響いた。
全てを覆う群雲の下で再び見えた妹は、やはり笑っていた。
「あぁ明奈、一週間ぶり」
「私は、何してんのって聞いたんだけど」
語調を強めると、僅かばかり表情が曇る。些細な悪戯を叱られて肩をすくめる、幼子と同じ顔だ。
「もう、知ってるでしょう? 私が今何してるか」
「だからって! 何で裕季まで狙うの、友達だったでしょ!」
その言葉にびくりと肩を揺らしたのは、裕季のほうで。そういえば知らせてなかったなと、今更思い出す。二人の間を裂くように刃を向けると、真逆からか細く問い掛けられる。
「あっちゃん……?」
「ごめん裕季、後で全部説明する」
「いえ、お仕事の話、私が聞くわけには。……一つだけ」
謙虚に望む裕季の視線は、先程まで自分を壊す構えでいた殺人鬼。
「りつちゃん、なんですか?」
「……うん」
その肯定を、せずにいられるならどれほど楽か。それでも、直視すべき現実として立花は眼前にいる。ほんの少し、眉を寄せて。
「裕季……?」
紡いだ声は、この場にはひどく釣り合わず、違和感を覚える。立花とて何度も呼んだことがある名前を、呼ぶというより呟いて。訝しみそれ以上の牽制を止めた明奈の前で、立花は不意に目を伏せた。
「――ごめんね、二人とも」
それは。
久方ぶりに見る、あの表情に似ていた。傷つけてごめんなさいと頭を垂れた、遠い記憶の中の顔。
「ごめん、明奈」
だから初動が、一拍遅れた。
再び放たれた弾丸は、明奈の頬を掠めた。わざと外したのか、僅かに震えた手のせいで外れたのか、見当をつける間さえ惜しんで距離を詰める。殲滅の命は出ていない。自分に下されたのは、科学者と警察のパイプ的役割を担う裕季に万が一にも危機が及ばぬよう警護することだ。ここで自分が成すべきは同僚への連絡、深追いは独断専行に過ぎる。
しかし。
「裕季、離れててっ!!」
背後に告げながら、剣を振り上げる。受け止められはしたものの、全力で叩き付けた武器の重みは生半可なものではない、立花の体勢が崩れた。一歩引いた姿勢には、離れようとする意思が見てとれる。近距離では利があるのは此方なのだから当然だ。踵を返して走り去る相手を、剣を仕舞うことすらなく追い掛ける。
逃げ込まれたのは、大立ち回りの効かない路地裏。右、右、左、と規則性のない順路で迷うことなく進んでいく。向こうも、実践慣れしているのだ。それはさながら、あの日妹が憧れた理想、敵を翻弄する遠距離型絡繰。
「……本当、私の隣で生きてて欲しかったよ、立花」
立ち止まった背中に呟く。
袋小路だと、気付いたのだろう。此処に来るまでに何度かあった細道は、明奈の背後にあるもので最後だ。そして近距離型絡繰は、敵にとどめを刺すために存在する。
一歩、また一歩と、妹の……否、犯罪者の元へと近づく。
「最後にもう一回聞くよ。何でこんなことしたの?」
立花が、ゆるゆると此方を向く。失ったと思っていた藍色が、そこにある。
「ごめんなさい、明奈姉さん」
その謝罪の意味に、明奈は気付けなかった。欠けた月は、伸びる影を作らない。闇が全てを覆い隠す。
突如、としか思えない間合いで、背後に気配が忍び寄る。
明奈が目を見開くのと、すぐ後ろで鉄が風を切る唸るような音が響くのは、ほぼ同時。
まるで、映画の一場面を細切れにしたように、刹那の出来事が鮮明に映る。泣きそうな、けれど決して涙を零すことのない藍の瞳が、明奈を見た。否、明奈の背後、白衣を羽織りながら闇の眷族としか思えない空気を纏う影を。影が、笑う。立花の冷笑など子供騙しだと思えるような、背筋の凍る楽しげな笑声。
「誘導お疲れ様、立花」
その言葉と頭部への衝撃を最後に、明奈の意識は黒に沈んだ。
「五十崎さんに、取り次ぎお願いしますっ!!」
響いた声に、透夜は何事かと扉を開ける。廊下の先にいたのは見知った、教え子と親しい絡繰。その唇が、紡ぐのは。
「あっちゃんが、さらわれたんですっ!!」
まるで悪魔が耳元で囁くような、そんな悪夢への誘い。どうして、何故。日頃冷徹と過ぎた畏怖を向けられる思考回路が停止する。
脳裏に浮かぶ、自分を真っ直ぐに見る強い瞳。妹の仇を討つのだと、復讐心と言うには綺麗過ぎるそれを抱いた姿。だからこそ、この一件からは僅かに遠ざけたのだ。これ以上傷つけたくない、巻き込むわけにはいかないと。彼女に、自分と同じ思いはしてほしくない。自分と同じように、かつて近くにいた人間を見殺すも同然の衝撃を、味合わなくていい。
駆け巡ったエゴは、最悪の想像を呼び起こした。否定すべきだというのに出来ない、嵌まり過ぎた推測。
「……まさか」
焦燥から一気に冷えた思考、視界が自分へと駆け寄る茶髪の少女を捉える。彼女の首筋には銃口を突き付けられたような痕。わざと、痕跡を残すような。
「五十崎さんっ!!」
「聞こえていましたよ。すぐに捜索班に向かいなさい」
「え……?」
首元に触れる。本来絡繰には仕組まれていない僅かな硬質の物質を感じる。怪我の痛みで、この違和感になど気付けなかっただろう。奥歯を噛む。自分でも信じられないほど、冷たい声が唇から零れた。
「探知機が君に仕掛けられています。伝えて下さい、『Mephistoだ、逆探知せよ』と」
その言葉が示すのは「悪魔」、この組織においては「裏切り者」の隠語。
ただそれが、日頃隠語に使う言語とは別のものであることに、おそらく誰かが気付き震撼する。
それは、五年前に消えた裏切り者の愛した言葉。光に愛されながら光を愛さなかった、もういない筈の過日の科学者。
「捜索及び、確保に向かいます」
鞘を鳴らす。目深に被った絡警帽の下、滅多に見せない鋭い眼光で五十崎は低く呟く。
今から行く。君を救い、貴方を捕まえに。
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