第弐話・蒼い追想




 自身の書類仕事はとうに終え、後は巡回に向かった者達の報告を待つのみの透夜の元に、一人の部下が入室を願い出て来たのは、あと一時間もすれば空が白み始める頃だった。自分よりは幾つか階級が下だが、機関内ではそれなりの地位にいる男だ。

「准将、五十崎少佐が見回りから戻って来ないのですが」

 その言葉に、机上にある時計をちらと見やる。明奈の見回り開始時刻は二時間前だ。透夜が明奈に巡回を命じた場所は、鍛えていない人間が往復したとしても、一時間もかからない。戻ってこれない事情が出来た際、連絡を怠るような気質の娘でもない。強いて後者に付け加えるならば、胸元から無線を取り出し使用できる状況下であれば、という注釈があるが。

「妙ですね、通り魔と出くわしたのでしょうか」

「倒すのに手間取っている、と? それはありますまい、Mecanismoに限って」

 准将も愛娘には甘い、と笑う相手に、透夜はその目に宿す温もりを少しばかり減らした。

「それは、どういう意味ですか」

 思わぬ眼光の鋭さをまともに受け、男は、ああだのそのだの言葉にならない言い訳を並べ立てる。透夜としては、一つ溜息をついて手で制止の素振りを作ってみせるしかない。

 Mecanismo。その意味は、戦機。戦いに特化した絡繰である明奈の二つ名。

 その名前に、別の漢字を宛てて揶揄されていることを透夜は知っている。

 殲鬼。殲滅すら躊躇わない鬼、と。

 自分とて、Ejecutante……奏者にして葬者、と呼ばれている身だ、多少の畏怖は甘んじて受けるべきとも思う。周囲から恐れを浴びることは、犯罪者を取り締まる側としては一種の栄誉ですらある、と。しかしそれでも、あの子はただの絡繰ではない、心なき兵器ではない、と叫びたくなる。

 明奈に甘い、という指摘だけは合っているかもしれない、と内心でのみ苦笑して、立ち上がる。意図を察した部下が一歩下がり、道を空けた。そのまま歩を進め、扉を開く。准将が少佐の巡回に加勢するなど、それこそ甘い沙汰だろう。だからこそ、見つけたら常より厳しく叱らなければと、そう思っていた。




 「明奈くん?」

 それも、彼女に特に事件が起こりやすいと示唆した路地裏を抜けた先で、茫然と立ち尽くす姿を見るまでの話だ。

 駆け寄って、肩を掴みこちらを向かせる。布越しでも分かるほどに、その体温は冷え切っていた。眼差しが、ゆるゆると此方に向けられる。怯えるような畏れるような、それでいて縋るような、そんな眼差し。

「透夜、さん……?」

 既視感を覚えながら、思い出すより目の前の存在がどうしてこうなったのか知らねばと、周囲を見回す。足を踏み入れると同時に感じていた、鉄の匂い。予測していたモノが、周囲に幾つも打ち捨てられている。この情景で足が竦んだということはないだろう。ないように、自分こそが彼女の優しい心を潰した。その時より更に数年前、自分自身の繊細さを握り潰した覚悟と、似て非なる完全なエゴで。申し訳なさと共に、それが最良の選択だったと、師であり上司である自分は告げている。そして同じ部分が、部下の失態の可能性を、ひどく冷静に指摘した。

「通り魔を、逃がしましたか?」

 感情のない声で紡ぐ。すぐ近くにある漆黒の瞳が、見開かれた。

 自分一人が育て上げたとは思えないほど優秀なこの子にしては珍しい失敗だな、と思いながら口を開こうとする。告げようとしたのは叱責の言葉。しかし、それよりも早く、目の前にある唇から、か細い声が零れた。

「透夜さん、あの……私……私っ……」

 明奈の両眼を常に満たす強い光が拡散する。顔を覆うように上げた手は小刻みに震えて。何かを拒絶するように頭を抱え、蹲って、言葉にならない声は、やがて。

「あ……ぁ……うわぁあぁぁぁぁ!」

 喉から引き絞るような金切り声の絶叫へと変貌した。

 明らかにおかしい。何があった、何が彼女を、ここまで追い詰めた。

「落ち着きなさい明奈くん、明奈くん!」

 何度も何度も名前を呼ぶ。抱きすくめるように体を押さえて、錯乱状態からどうにか引き戻そうとする。それでも慟哭は止まらない。透夜の瞳が、不意に切なげな色に染まった。口端が、自嘲するかのように歪む。

「――ごめんなさい、明奈くん」

「っ――……!」

 とん。頸動脈近くにある、絡繰の弱点……軽く突かれただけで意識を失う場所に、手刀を打ち込む。かくんと糸が切れたように倒れ込んできた身体を受け止めて、青い髪を優しく梳くように撫でる。

「少し、眠っていて下さい。話は、後で聞きましょう」

 そして思い出す。あの眼差しを初めて見た日を。

 あれは、二人の始まりの日。明奈が、たった一人の家族たる妹を、喪った日だ。




 覚えている。それは遠い空、淡い記憶。

『姉さん、ごめん、ごめんなさい』

 自ら姉妹と称していたとは言え、明奈と立花は、同じ施設の友人という括りで育てられた。その立花が、呼称ですら明奈を姉とした時は、称賛する時か、からかう時、そして。

『いいよ立花、わざとじゃないの解ってるし』

『でもっ……!』

『避けきれなかった私も悪いし。これぐらいの怪我ならすぐ治るよ』

 己の失態を責める時……不用意に、相手を傷つけてしまった時。

 遠距離型攻撃に特化した絡繰として『生き直す』ことを求められ明奈に腕力で若干劣った立花は、力の加減を知らずに育った。それゆえ戦闘演習の際に不必要なまでに手加減をし、逆に同じ隊の明奈や裕季に怪我を負わせることが何度もあったのだ。そのたびに申し訳なさそうな色を宿した、藍色の瞳。

『今度から気をつける。それでいいでしょう?』

『う……ん。もう、二度としない……よう、気をつける』

『……その微妙な間が、またやるかもって言ってる気がするのは私だけかな? 立花ちゃん』

『っ、仕方ないでしょ! ……怖い、んだもん』

『うん。知ってる、解ってるよ』

 あの時から、狙撃では立花が一番秀でていた。確実に人間を殺せる技術では、あの子が誰より上手かった。けれど、それが的であろうと敵であろうと罪悪感を覚えるような心を持っていたのだ、立花は。

『遊ぼう? 絡警のお姉さん』

あんな、あんな狂った藍色は、立花の瞳じゃない。

立花な筈がない。あれは――

『明奈……?』

「――……っ!!」

 がばりと上体を起こす。明奈の目に入ったのは、紅に染まった路地ではなく、見慣れた自分の部屋だった。それも、職場で与えられている粗末な待機室ではなく、隅々まで品の良い調度品が揃えられている五十崎の屋敷だ。広い空間で尚充満する鉄と火薬の匂いではなく、すぐ近くの小机上の花瓶に生けられた薔薇の香りが鼻腔をくすぐる。理解が追い付かず、くらりと揺れる視界。

「目が覚めましたか?」

 優しい声に視線をそちらに向ければ、自分が寝かされていたベッドのすぐ傍にある椅子に、透夜が腰かけていた。淡く穏やかな笑みは、葬者Ejecutanteと畏怖される師でも准将という地位を背負う上司でもなく、保護者のそれだ。明奈にとって、唯一絶対の安息地。たったひとつの、守り守られる存在。

「透夜、さん……」

「急にうなされたようだったので、もう少しで起こそうとしていたところだったんですよ」

「そう、だったんですか」

「えぇ」

 見れば、嘘ではないことを示すように、上官の中では珍しい、傷一つない白い手が自分へと伸ばされていた。頑丈な自分の頬に、まるで硝子の人形でも扱うようにそっと、その手が添えられる。

「……昨夜あったこと、話せますか?」

 無理なら話さなくてもいいと、その声音は告げている。今は身分も立場も忘れていい、と。その優しさに触れられたからこそ、甘えてはいけないと思った。自分はこの人を守るために、この人が血で汚れずにすむために、在るのだから。

「ごめんなさい。……通り魔、を、逃がしました。斬れません、でした」

 それでも、声が震える。透夜は黙ったままだ。その沈黙は決して、責めるものではない。

 いっそ此処が仕事場ならば良かったとさえ思う。公の場なら、真っ先に叱責してくれる人だから。

 あやすように撫でられては、心の箍が外れてしまう。

「理由が、あったんでしょう?」

 そんな、一片の疑いもなく信じてくれていると、そう思うしかない眼差しで、包まないでほしい。無力な幼子に戻ってしまう。

「……透夜さん……立花が、生きてた……」

 認めたくない。あれが現実だと思いたくない。

 夢幻でいいからもう一度と、あんなにも願った存在との再会だったのに。

「立花が、通り魔だった……っ!!」

 今はこんなにも、心が痛い。




 訥々と詳しい状況説明を始めた明奈は、話し終わると同時にまた意識を手放した。自分の理解を越える現実に自己防衛機能が働いたのだろう、眠りさえすれば精神的外傷は癒える特殊絡繰の特性だ。それを以て、一般的に特殊絡繰は感情面において強いのだとされている。

『いいや、違うな。アイツらの精神は、時に俺たちより脆い』

 そう異を唱えたのは、透夜の知る限り、一人だけ。

『そう……なんですか?』

『あぁ。俺の持論なんだけどね。何でもアイツらに負けたら、俺らの立つ瀬がないだろう?』

『……ご自分が勝てない存在があるのが癪に障る、とか言ったら怒りますからね』

『それもあるよ。……じゃなくて、アイツらは俺らと同じ、ただ特化しただけ。心が特化したら、どうなると思う?』

『だから、強く……』

『それは、ある意味では痛みに鈍くなった、ってことだ。より純粋に、真っ直ぐに、アイツらの心は在る』

 単純に俺らが利用しやすいようにってだけかもしれないけど。馬鹿馬鹿しいほど素直だからねアイツらは。

 そうやって貶めるように言いながら、誰より正確に機巧を見ていたその双眸。揺らぐことなどないと遠い日の透夜が信じきっていた眼差し。

「僕は未だに、貴方の持論だけは正しかったと思っているんですよ、先輩」

 例えその論を組み立てた者の末路がどうだったとしても、理論だけは間違っていなかった。目を伏せて、決して明奈を起こさないようにと気を配りながら一度その柔らかな髪を撫でて、呟く。

「まるで、よく出来た悲劇ですね。何かの曲のモチーフにありそうだ」

 世界で一番優しい考えを自分に示した存在は、今の自分にとっては最も憎むべき存在。

 建前でも何でもなく、透夜は彼を赦せない。だからこそ、私的な場以外で明奈と向き合う時は、冷厳な信念のみを教え続けた。迷ってほしくなかったから。迷えば、かつての自分と同じように、苦しむだろうことが解っていたから。まさかこんな形で、彼女が苦しむことになるとは思っていなかったけれど。

 惨劇の日、透夜は、奇しくも今の明奈と同じ地位の警察として、現場に駆け付けた。明奈の妹たる絡繰の損傷具合は、書類越しとはいえ正確に把握している。死亡同然、安楽死しか選択のないまでの損壊。

 あの状態から再生出来る人間など、透夜は一人しか知らない。否、一人知っていると言うべきか。あの日から前後して、二度と会うことはないとされた、一人の特殊絡繰技術者。

「先輩。もし、この先に貴方がいらっしゃるなら……僕は今度こそ、貴方に失望しますよ」

 その言葉が、今も心の何処かで相手のことを信じてしまっている何よりの証だと。本人にも、今は安らかに眠る彼に一番近い存在にも、気付くことは出来なかった。




 こつり、こつり。

 冷たい石畳の床に、警戒することを忘れた足音が響く。此処が郊外、人の立ち入り等ついぞ絶えた立花の居場所たる古屋敷だと言うことを差し引いても、ここまで無防備な姿を晒すことは稀だ。

 項垂れ、長い前髪で視界全てを覆い隠して歩いていた彼女がふと顔を上げた。細い廊下の前方を塞ぐように、壁にもたれて白衣の男が立っている。自分の帰還など、扉を開けた瞬間から解っていただろうに、さも今気付いたかのような顔をして、彼は笑う。

「お帰り、立花」

「……只今、帰りました」

「遅かったね?」

 まるで、門限を破った我が子を窘めるかの如き口調。けれど立花には解らない。今の彼が、何を考えているのか。だからただ、事実を伝えるのみ。

「絡繰警察と、遭遇しました」

「お前の推測が当たったか、悪かったね。階級は?」

「……恐らく、少佐かと」

 一軍人から小規模とはいえ隊を率いる権利を有することになる階級。特殊絡繰守護警察内においての一つの関門。それを突破したのだ、自分の姉は。妹として、誇らしく嬉しいことの筈なのに。

 おめでとうと、その一言を告げる未来さえ、自分にはなかった。

 首元の階級章を把握し記憶出来るほど衝撃は小さかったのかと、自身を嘲笑うだけだ。

「そうか。じゃあ……次は、殺せるね?」

 けれど。

 ぐっ、と拳を強く握る。少しだけ、手の平が痛い。視線から逃げるように、俯いた。身体にも心にも叩き込まれた教えに全力で抗い、首を横に振る。

「殺せ、ません」

「どうして?」

 即座に返って来る問い。解っている。そして答えも決まっている。

 破壊衝動が湧き上がらない相手など、今目の前にいる相手を除けば、ただ一人だけ。

「先刻遭遇した絡繰警察は、彼女は、私の姉です」

Mecanismo戦機五十崎明奈? あぁそれで、太刀筋が浅いのか」

 眼前の相手が情報を掴んでいて秘匿していたという事実よりも、己と同様に何も知らなかったはずの彼女が無意識に手心を加えてくれていたという真実に、今更ながらに涙が出そうになる。

 姉だと、そう定義し慕った無二の存在だと知覚してしまえば、もう銃は向けられない。よしんば向けられたとしても、当てられない。

 それこそ、心が捨てられないように。

「明奈は、殺せません。殺せと言うなら……、っ!!」

 貴方の言葉に従えない、その覚悟が、たったひとつの足音で凍る。壁際へと追い込まれ、全てが砕ける。不意に、首元へと伸びる手。

 何をされるか分かる。足がすくむ。動けない。

 温もりなど一欠片もない、冷たい笑顔。暗い、暗い、光の届かない深海のような瞳。

「お前の主人は、誰だか分かってる?」

 包帯が巻かれた首を、掴まれる。頸動脈の位置を正確に把握した手。此処にいるのは、非力な人間と常人離れした絡繰だ。しかし、背丈と地位、性別の差が、抵抗を阻む。そのまま力任せに壁へと押し当てられる。衝撃に肩が悲鳴を上げるが、喉は音すら漏らせない。

 圧迫されていく気道。苦しい。息が出来ない。

「……ぃ」

「何? 聞こえない」

「っ……」

 視界が、揺らぐ。掠れた声を無情に笑う、この笑みを知っている。自分がヒトを葬る時に、浮かべる冷酷なそれと、同じもの。自分とこの人は、こんなにも違うのに。

 塞がれている喉に、半ば無理やり力を込める。紡ぐのは、主の名。

木晴きはる先生、です……」

 反抗することなど許されない、唯一絶対の神にも等しい存在。

「良い子だ。それでこそ、Meine Tochter俺の愛し子

 手を放される。反射的に口元を押さえ、咳き込む。

 そのまま崩れ落ちそうな身体を、当然のように支えてくれる腕があった。雫が浮かんでいるのだろう瞳のままで見上げれば、淡い青の双眸がすぐ近くにある。一夜浮かび続けた三日月を受け止める、東の海の色だ。

「お前がどうしても殺せないって言うなら殺さなくていい。でも、絡警は俺の敵だ。解るな?」

「先生の敵は、私の敵です」

「有能かつ従順な助手で嬉しいよ。そんなお前の願いひとつ聞いてやるぐらい、この俺には造作もないさ」

「作戦に、変更が出ませんか?」

「姉だろうが何だろうが殺せって言おうか? お前は俺に逆らえないよな?」

 有無を言わせない涼やかな声に視線を下に逃がせば、くしゃりと頭を撫でられる。薬品の混ざり合った匂いが仄かに鼻孔に届いた。気まぐれに、けれど本当に欲しい時に与えてくれる、優しい行為。

「お前は、俺の作戦は完璧だって信じて、ただ従ってればいいんだよ」

それは、望まない結末になど絶対にしないと、そう言われているにも等しい言葉で。立花はゆっくりと離れ、頷く。

Ja, Mein Mannはい、我が主

そこで気が抜けたのだろう、立花の身体が軽く傾いた。壁に手をついてどうにか立て直す。今度は指一本動かさず傍観していた木晴は、何事もなかったかのように言葉を紡ぐ。

「一時間で作戦を立て直す。お前の為に変えるんだから、邪魔したらどうなるか、解ってるね?」

「勿論です」

「じゃ、一時間後に俺の部屋においで」

「はい」

 肩口を押さえる立花、そこに走っているのだろう斬撃の痕。一瞬だけそちらに視線を向け、目を細め形容しがたい笑みを浮かべると、木晴は踵を返した。




 無人の自室は、無数の青白い画面の光が部屋の主を出迎えていた。所狭しと並べられた機材の中に申し訳ばかりに置かれた椅子に、埋もれるように腰を下ろす。閉じた瞼の裏、木晴の思考回路は既に、懸案事項に対する幾つかの解決策を弾き出している。

 修復、強化、調整。その全ては、立花のこと。負った傷など、数から深さまで見切っていた。

 その心の、動揺さえも。

「……解ってるよ。お前にMecanismo戦機は殺せない、Schwesterを殺せる筈がない」

 絡繰警察の隠語として活用される語と自身が得意とする語でもって、違う意味合いで敵たる存在を形容する。

 思い出すのは、遠い宵闇。

 世間的には惨劇の日として記憶されるあの日、木晴もまた違う形で絶望を味わっていた。否、酷く屈辱に似た絶望ならそれより前に、知り尽くしたと思っていた。だからこそ、あの日僅かな期待を賭けた。

 そして、その賭けにさえ負けた。

 激情のままに動こうとした当時の考えは浅はかだったと、今は嘲笑うように愛おしむように思い出すことが出来る。あの瞬間だけは、神の存在を信じてもいい。

 視界に映った、廃棄場の異様な光景……まだ幼い銀髪の少女。横たえられ、後は死を待つばかりの風前の灯火。何か考えるより先に、身体が彼女の元へと駆け寄っていた。膝をつき、肩を揺らした。

 半ば独白に近く、言葉を紡ぐ。

『Haben sie aufgeben, ihre Kinder so……Der Grund ist, weil er nach allen Doll ist……?』

 敢えて解らないだろう言語を使ったのは、子供が生死どちらを望もうと、不可解な音には反応すると『知って』いたからだ。首の出血を止め、絡繰特有の人工臓器を幾つか『治せば』、生かせることは『解り切って』いた。

 少女が瞼を持ち上げた。自分のそれより僅かに暗い、藍色の瞳。同時に、唇から小さな声が零れ落ちた。

『……め、ね……』

『?』

『な……、……ん……』

 途切れ途切れの、単語を繋げば。

『……かえ、な……てっ……』

 視界さえ虚ろな、ろくに回らない口で、その子は。


 ――明奈、ごめんね、明奈……明奈姉さん。

 ――守れなくて、戦えなくて、ごめんなさい。


 眼前に迫る自分の死よりも、絡繰として自分が無能であったことを悔やんでいた。それは、彼女のせいではない。彼女が無能であるわけでは、ない。

 白い頬に手を添える。文字通り傷ついた瞳が、此方を向いた。あぁこの右目は治してやれないな、と思いながら、静かに問いを口にした。

『生きたい?』

 答えは、向けられた眼差しひとつで充分だった。

「……あれから五年、か。俺も年をとったものだね」

 平然と嘯いて、木晴は追想と沈思の世界から舞い戻った。

 あの時同じ年頃の少女より軽いだろうという『確信』を持って抱き上げた身体は、本当は自分など簡単に捻り潰せる。だというのにその力は、木晴以外の人間を屠る為だけに振るわれる。立花自身の衝動のままに……木晴の命令のままに。

非道外道と罵しられようとも構わない、暗い笑みを口の端に載せて、心底思う。あの日から、不浄の手とされる左の手に宿願を抱き、右の手で自身の右腕たる存在に血濡れた道を指して、歩いてきた。

もう、自分にはそのふたつ以外要らないのだ。

「来週は……あの日と同じ、新月の夜、朔の月」

 あぁそういえば。

 あれからついぞ、寒暖を感じることがない……それ程に、この魂は、もう。





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