空の英雄
尾和次郎
prologue
待機室の窓からは喫水線がよく見える。
空と同じ色の海面に白い飛沫が跳ねる様はさながら雲が流れていくようでもあり、長い間眺めていると天地の感覚が失われそうになる。そうして、ふとした時に跳ねるトビウオの姿にここが搭乗員待機室であることを思い出すのだ。
「今日の相手、ソロモンで沈め損ねた連中らしいぜ」
いつの間にか隣に座っていた廣澤が、特製の濃すぎて泥のようになったコーヒーを差し出しながら言った。
零は無言のままカップを受け取る。
「要は一昨日の水上部隊の尻拭い、上のメンツの為に取り逃した食い残しの残飯処理って訳だ」
廣澤が憚らずに言うので、零は気になって視線を待機室の中に戻した。ブリーフィングにも使われる広い空間には既に数十名を超す搭乗員が集まっているが、昨日から乗艦しているらしい赤煉瓦の飼い犬はまだその姿を見せていない。
「安心しろよ、俺だって分別くらいある」
廣澤はコーヒーを啜りながら涼しい顔で言う。
赤煉瓦の飼い犬はほぼ間違いなく今回の作戦に関する目付として乗艦した。とすれば、最終確認にも出てきて一言二言挨拶をするだろう。となれば、廣澤が敢えて喧嘩を吹っかけることもほぼ間違いない。廣澤直(ヒロサワナオシ)はそういう男だ。
「信用できるか。お前のせいで書いた反省文、何枚あると思ってんだ」
返しながら廣澤の特製コーヒーに口をつけると、酸っぱすぎて苦すぎる慣れた味がした。
「良いじゃねえか、文才を磨いてやったのさ。飛べなくなったら記者にでもなれよ」
「俺が抜けたらその時は人類の敗北だ、再就職の心配は要らないだろ」
「ハッ、吹きやがる。何なら今日の撃墜数で賭けてみるか?」
「それなりに面白そうだ……問題は何を賭けるかだが」
「追々だな、お出ましだ」
急激に引き締まった辺りの空気を察知して雑談を打ち切り、残っていたコーヒーを一気に胃へ押し込む。
クソマズくて気合が入る、出撃前には良い味だ。
第一航空戦隊所属超大型装甲空母『加賀』。遥か数百年前から日本海軍の歴代空母に引き継がれてきたその名は既に七代目を数える。
同艦保有の航空戦力は総数百二〇機、そのうち戦闘機隊は六〇機・二十小隊編成で十六小隊が直掩機として掩護対象と行動を共にする。そして航空戦力を有する相手との戦闘が行われる場合、先陣を切って敵陣に突入し後続の血路を開くのは残る四小隊、一航戦戦闘機隊の中でも精鋭中の精鋭を集めた選りすぐりの制空隊だ。
高度1万メートル、雲は山脈のようにどこまでも連なっている。巡航速度とは言え超音速の世界だが、これでも遅いと零の気は焦っていた。
『バイタルに乱れがあります、レイ』
聞き慣れた合成音の呼びかけに零は鼻を鳴らす。
「覗き屋め」
『パイロットのバイタルチェックは生存率に重大な影響を及ぼす事項です』
人工知能とはいえ、生まれた時からの付き合いである。零にとって、この“愛機”とのやり取りは、肉親との間で交わされるそれと変わらない。
「色々あったんだ」
『伊吹少佐のことですか』
「何で扶桑がそれを知ってる」
『廣澤少尉から映像が転送されてきました』
「あの野郎、余計なマネしやがって」
『貴方が無理をするかも知れないからと心配して教えてくれました、レイ』
「面白がってるだけだ。お前だって気づいている癖に……アイツ、今どこに居る」
『七〇度方向・高度マイナス6・距離842です、レイ』
「クソが、雲で見えやしない」
『チャンネルを繋げますか?』
「電信で良い。文面は――」
『一番機より入電・回線開きます』
扶桑のアナウンスとほぼ同時にホログラムディスプレイが起動し、隊長機との映像通信が繋がる。『加賀』飛行隊長兼第一航空戦隊制空隊一番機志波敏生(シバトシキ)中佐だ。
《第一航空戦隊加賀飛行長志波より各機へ通達。予想戦闘空域まで三〇〇を切ったぞ、全機戦闘態勢へ移行、戦時通信に切り替えろ――》
聞きながらコンソールを叩いて電子関係のロックを確認しようとすると、独りでに画面が切り替わり既に全ての操作が完了していた。確認するまでもない、よくできた愛機である。
《それから廣澤! 間違ってもシモの話なんぞで戦時回線使うなよ。次やったら第一艦隊全艦に飛行長名で回覧するからな》
ざまあみろ、とほくそ笑む零である。
「扶桑、空域天候図。敵機侵入予想も付けて」
間を置かず別のホログラムが立ち上がり空域図が投影される。いかに人工知能でも早すぎる、“予想”していたのだろう。
『敵機侵入経路32パターン検出・表示件数設定はどうしますか、レイ』
「全部だ」
《見つけた敵は必ず落とせ――》
『了解しました・今回は予想困難な空域です、レイ』
《一人も墜ちるな、一人も落とすな――》
「何とかするさ。これだけ絞れれば対処はできる」
《では小隊ごとに突入。気合を入れろ、一等賞には俺の自腹で褒美をやるぞ!》
『了解・判断後命令をお願いします……では、少しお休みなさい、レイ』
「ああ。お休み、扶桑」
――戦闘AIフソウ起動・搭乗者吉川零(キッカワレイ)の命令を小隊各機へ電信・完了・通達確認……起動各部点検……クリア・対ノイマン粒子兵装……クリア・兵装確認・機関砲各種・二式三〇mm機銃および九七式五七mm砲……試射・搭乗者許可確認……実施……クリア・電子欺瞞兵装……クリア・生体装甲……起動可能――
ホログラムに映し出された空域図に無数の光点が浮かんでいる。百と少しといった所だろうか。第一航空戦隊制空隊は加賀・赤城・信濃の三空母から十二小隊・三十六機で構成されており戦力差は三倍近い。
しかし零は平静のままに状況を受け入れていた。零だけではない、制空隊の人間であれば皆同じ、彼らにとってこの程度の数的不利は日常だ。
「フソウ、小隊各機にガイド信号、方位〇・二・三の六機に直上から噛み付く」
情報伝達を指示し、最後の一息のつもりで機外を見ると、それぞれが初撃の標的を定めているのだろう、高高度から獲物を狙う僚機たちが目に入り、カワセミの一群を想起するような光景だ。
「一等賞は譲れない」
零はバーナーを再点火して加速、敵直上目的座標へ瞬きする間に辿り着くと、小隊二機を引き連れて高度二〇〇〇メートルの逆落としに打って出た。
パイロットスーツの変圧補正を越えて影響を及ぼす程のGを身に浴びながら、AIによる照準補正を頼りに目視外から乱射して敵編隊のど真ん中を食い破る。
すれ違い様の一瞬、さながら辻斬りのような奇襲。完全に虚を突かれた敵隊は三〇ミリ機銃の直撃を受けて無残に千切れ飛ぶ。
「何機だ」
零の問いかけに音も無くホログラムディスプレイが立ち上がり個人撃墜数2、小隊4をマークする。
「二機残し……とすると、来るか」
その時、機体に衝撃が走ると無数の光の筋が背後から機体を追い越していった。
「クソッ、両方俺に食いつきやがった。二番機と三番機、掩護はどうか」
ディスプレイに返ってきたのは交戦中という味気ない三文字の返答と空域中の敵戦力がこの地点に一斉に向かってきているという何とも有り難くない情報。どうやら本当に一番槍だったらしい。
突出し過ぎた事を悔やむ間もなく背後の二機を引き連れて命懸けの追いかけっこが始まる。
一番槍成功の報は既に味方にも伝わっているはずであり、数秒もすれば全ての敵機が小隊に迫っているこの状況はどうとでもなるだろう。
しかし目下の追撃が振りほどけない。二度目のシザーズで尚も食らいついてきた相手の二機は、これまでの経験に照らし合わせても思い当たらないほどにしつこい相手だった。
先ほどから機体を掠める敵機関銃は今はまだ生体装甲で受け流せているが、所詮は航空機の装甲、蓄積など一瞬だ。
零は決断する。
「バーナー全開用意、それと同時に機首を七〇度上げ、そのまま徐々に機首角を上げながら限界高度まで上昇する。カウントは省略だ」
言うや否やのタイミングで強烈なGが発生すると、身体は軋んだ音を鳴らしながら、シートにめり込むようだった。
零は機体を垂直に立て太陽目掛けて駆け上りながら、自らの背後を確認する。
二機、追って来ている。着実に、距離を詰めて。
「そうだ、しっかり着いて来い」
そうでなければ鬼ごっこに付き合った意味がない、そう続けそうな、不敵な表情だ。
「全マニューバをマニュアルに、急げ」
機首角度が九〇度を超えループの軌道が浮かび上がる頃には敵機との距離はみるみる縮まり、今はもう手が届かんばかりにまで詰まっている。
しかし零は余裕の笑みさえ浮かべ、
「さて、無重力の時間だ」
そう呟いた瞬間コックピットにレッドランプの明滅とけたたましい非常警報が響き渡り、機体が急激な失速を引き起こした。
ループ軌道の最中、背を海面に向けようかという体勢で急激に速度を失った機体はどうなるか――当然コントロールを失い、さながら木の葉の様に揺れながら、真っ逆さまに落下する。
そして、面食らうのは追っていた二機も同様だ。彼等にしてみれば目の前を飛んでいた敵機の姿が突然消えた格好になるが、かと言って自機は速度を出した大がかりな宙返りの最中、急激な軌道変更ができるはずもなく、このまま大きな円を描く機動を無事に終えてから機体を水平に立て直さなければならない。
それこそが零の狙いだった。
零の機体はふらふらと落下しながらも、さながら木から落ちた猫のように、慣性によって水平姿勢に向き直る。
「風の流れに逆らわず姿勢制御、申し訳程度に推力パドルで補助してやれば、あとは素敵なオケツが丸見えって寸法よ」
一足早く体勢を立て直した零からは大回りの軌道で体勢を立て直すしかない敵機の後ろ姿が丸見えになる。追う側と追われる側が一瞬にして入れ替わると、息を吐く間も与えずに二機を撃墜した。
「さて後は」
小隊の位置を確認するために空域図ディスプレイへ意識を向けると、どうやらカワセミが本格的に狩りを始めたらしい、敵を示す光点は瞬きの間にも減っていく。
最早この空域の制空権は揺るがないだろう。
そう確信しつつも安堵することは無く、零は即座に飛び立った。
《敵制空隊壊滅と敗走を確認、当空域に残敵無し。撃墜戦果六九・損害八。各機任務継続されたし》
零が小隊を連れて敵攻撃隊迎撃用の空間機雷を設置していると、一番機から第一次制空戦の簡潔な総括が電信で届いた。
「少し多過ぎるな……ロスト機照会」
侮ることはできないが【連中】の搭乗員練度は相当に低いと言える。実際、一航戦制空隊のキルレートは一〇対一を上回る程の圧倒的な数字だ。
しかし【連中】は、この圧倒的な練度の差を埋めて余りある物量で、この太平洋の制海権を侵食している。その余りの物量は物資はともかくとして機体を動かす搭乗員の存在が想定し難い規模であり、AIによる自律行動を推測する根拠にもなっている。
そしてだからこそ、零の表情は重くなる。恐らく一番機からの報告を受けた全ての隊員が同じ心境だろう。友軍が最も憂慮すべきは人的消耗なのだ。
照会が終わりディスプレイに表示されたロスト機を目で舐めると、被撃墜機の全てが信濃隊のものだった。
信濃制空隊十二機中小隊長機三を含む八機が被撃墜。余りの状況に歯軋りが漏れる。
『信濃』はつい先日の配置換えでベテラン搭乗員の多くを別部隊に移動し、新人を多く集めていた。無論、これは最前線の精鋭部隊で経験を積ませることで新人の練度を少しでも高めたいという赤煉瓦の意向が大きい。
小隊長機は新人のフォローに意識を取られたのだろう。零には知った名前もあるが、今回程度の戦闘で落とされる技量では無かった。一機落ちればまた一機、僚機の墜落は戦場に不慣れな新人にパニックを連鎖させ収拾がつかなくなる。
「現場を知らない役人が、新人なんぞ連れ込みやがって」
零は乱暴に髪を掻き上げながら、苦々しく吐き捨てた。
こうして結果が出てしまった現状では搭乗員の無事を祈るしかなかった。大昔の海戦では洋上での被撃墜は即ち死と考えられていたそうだが、人的消耗が死活問題となっている現状では機体設計において搭乗員の生命維持が最優先の課題とされており、撃墜されても生存率はそれなりにある。
空間機雷の設置を完了した零に、一番機からの秘匿通信が入った。
《零、相談だ》
音声のみだがその表情まで浮かぶような志波の重い声。
「どうされましたか、飛行長」
《ロストの照会はしてあるな? ひどいものだ》
「橘田さんも大岩さんも城山さんも赤煉瓦のせいで落ちたようなもんだ」
《その辺にしておけ、レコーダーがある》
言葉とは裏腹にその声は笑っていた。実際、仮に上に知られても屁とも思わないのだろう。荒くれもの揃いの飛行隊員をまとめ上げているだけあって、志波という男もまた豪気な性格をしている。
「失礼しました。相談とは?」
《派手なドンパチが始まる前に配置換えだ。信濃隊の新人三人を送り返すからお前の所の二人を貸してくれ、敗走中の敵とカチ合う可能性がある》
「了解です。俺は?」
《廣澤とコンビだ、好きにやれ。廣澤の第四小隊は信濃の嶋田に任す》
嶋田小隊長は先日の配置換えまで加賀飛行隊に在籍していた。突如指揮が変わって混乱が起こる事もないだろう。
「了解です。第四小隊も喜ぶでしょう」
《お前もだろう……派手にやれよ、以上だ》
秘匿通信を終えてから、フソウを通じて小隊員に指示を出す。簡単な電信故心情までは読めないが、去り際に残されたバンクが少し乱暴に見えのは気のせいでも無いのだろう。彼らにしてみればメインディッシュを前にしながら新人のお守りで帰されるのだから面白くないはずだ。
しかし零もここから先は意識を変えなければならない。詫びの内容を考えるのは後回しだ。
敵航空隊迎撃戦の用意を整えた制空隊は再度高高度に上昇、一番機を先頭に編隊を組み悠然と構えている。
その編隊から外れた場所で浮かぶように佇む戦闘機が二機。
「直、聞こえるか」
零が一月ほど開けていなかった専用チャンネルを開けて呼びかけると、相手の廣澤は大あくびをかましていた。
《おう……ところでお前今何機だ》
「単独だと六だな」
《それなら最初は譲れ、俺はまだ三だ》
「賭けの最中だろ、負けたくないんでね」
《相変わらず可愛げがないね》
「お前相手に可愛げ出してどうすんだよ」
言い合っている最中に一番機から通信。
《各員、行動開始》
その一言で二機のバーナーが同時に焚かれると、編隊に先駆けて敵の方角へと突っ込んでいった。
作戦は単純明快。制空隊が後方に仕掛けた機雷源へ敵編隊を誘い込み、動きの制限された相手に集中攻撃を加えて一網打尽にするというもの。零と廣澤へのオーダーは敵隊を意中の方向へ追い立てながら護衛戦闘機を釣り出して排除するというものであり、正しく獲物を猟師の元へ追い立てる猟犬という訳だ。
放たれた猟犬は数分とせずに獲物の群れを捉えた。距離はまだ遠いが空の色で解る。畑を襲うイナゴの群れとでも言おうか、一つ一つの粒は小さくともその数量で空の色を変えている。
《四桁いるんじゃないか? やけに多いぞ》
廣澤の感心したような声が届いた。
「艦隊の直掩までコッチに回したのかもな、使い捨てる事に躊躇が無い連中だ」
《艦隊の生存は諦めて全打撃力を相手戦力を殺ぐ事に向けたか、その意気やよし》
「言ってる場合か、仕事が増えたんだぞ」
《言葉の割に嬉しそうじゃねえか》
「ま、お互い様だな」
言い合いながら二機の速度は増している。隠れる事もせず真正面から敵集団の中心へ突っ込んでいく。
《作戦は?》
「いつも通り。取り敢えず連中のど真ん中突っ切ってケツまで抜けてから考える」
《シンプル・イズ・ベスト。了解だ》
ヘッドオンで敵編隊に突っ込んで行くなどおよそ空戦の常識を外れた行動だが、元よりセオリーの通じる敵ではない。照準を合わせる必要が無い程の敵がいるのだから下手に小細工を打つよりも真正面から突撃した方が戦えるという選択だ。
「機体制御を戦闘機動モードへ、火器管制フルオート。リアクター・リミッター解除二〇秒間、生体装甲最大稼働。敵中心を突っ切るぞ――」
命じると同時に零の機体が青白い光を放ち始めた。並走する廣澤機も同様の変化を起こしている。
生体装甲――【連中】の機体から開発されたこの装甲は、その名の通り、生命活動を行う生きた装甲であり、破損部分の自動再生を行う事ができる。その再生力は機体から供給されるエネルギー量に比例しており、標準的なリアクターの最大エネルギー量を供給した場合、三〇mm機銃百発を毎秒間受け続けたとしても撃墜されることは無い。
「――突撃する」
銃弾を撒き散らしながら、二つの機体は黄金色のマズルフラッシュへと飛び込んだ。無数に放たれる光の矢を弾き飛ばし戦場に蒼い尾を引きながら走るそれを遠くから眺めたのなら、暗闇の雲を切り裂く美しい流星にも見えるだろう。
リミッターのカウントダウンが進む一方で撃墜数を示すホログラムのカウンターがそれ以上の速度で進んでいく。
零は弾着に揺れる機体の中で操縦桿を握りしめ、己の勘を頼りに敵陣を斬り進む。見たままを判断したのでは間に合わない。有視界情報から常に先を読み、機体を導かなければならない。厳密には戦術理論に基づいた予測だが、実戦では理論を飛ばして結論を得なければ間に合わない。
機内に真紅の警告灯が灯る。リアクター内の圧力異常を警告するそれはリミッターを解除してから十六秒が経過した事を示している。
終わりまではあと僅か、しかし速度が――
「――エンジンバイパス全閉鎖三秒!」
刹那の判断で叫ぶと機体の速度が限界を超えて跳ね上がった。エンジン保護の為のエネルギー迂回路を遮断し強制的に出力を上げたのだ。
暗闇を突き抜けて出来た一瞬の間で見ると、ディスプレイにはリミッターの再稼働とエンジンバイパスの解放が正常に行われた旨が表示されている。リアクターの圧力値が多少高いのは気になる点だが、今減圧してやる訳にもいかない。
「エンジンに異常は無いな」
問いかけから間を置かず推進システムの稼働状況が表示されるが、異常を示す赤の明滅は無い。
「転進、追撃する」
言うより先に操縦桿はインメルマン旋回へ機体を導き、今しがた貫いてきた敵集団の背後を捉えた。
《方位一―四―六、直掩八個小隊》
廣澤からの通信が入る。相手の位置を確認する必要など無い。
「了解した、雲に入る」
経験上、廣澤の位置取りと思考する戦闘機動は直感で把握できる。このまま右前方積乱雲に突入、ワゴン・ホイールを行いながら敵を釣り上げる――と、廣澤も読んでいるだろう。
フォロー限界ギリギリの、有視界外距離を保ちながら、不定期のブレイクを交えた複雑なループ機動を互いの後ろを守りながら繰り返す。敵機が一方の背後につけば、自動的にもう一方が後ろを取れるという寸法だ。
仮に一方がロールを行えば寸分違わぬ箇所でもう一方も同じ行動を取る。有視界外にある僚機の行動を完全にトレースする、零と廣澤による互いの呼吸を完全に合わせたコンビ芸は、その完成度からウロボロスとまで呼ばれていた。
大蛇の巣に乗り込みその尾を捉えたと思い込んでいた敵は背後から迫る大蛇の咢によってその身を噛み砕かれる。この蛇に背は無い。
ものの数分と経たないうちに二十数機の敵直掩を血祭りにあげた一匹の大蛇にして二匹の猟犬は、更に獲物を網へと追い立てるべく雲を抜け敵編隊へと容赦無い攻撃を加える。そうして敵の直掩戦闘機を釣り出してはその数を減らしていくのだ。
体感には数刻とも取れる時間だったが実際には数分の出来事だ。両機のカウンターが三ケタの大台を大きく超え敵編隊にも乱れが見え始めた頃、集団は目的地点に到着した。
エスコートを終了した二匹の猟犬は敵編隊から距離を取り制空隊本体への合流を目指す。それと同時に空域に張り巡らされた空間機雷が連鎖炸裂、雲上の空が茜色に輝いた。
動きが遅れ、完全に編隊を乱した敵集団に数十機の精鋭が襲い掛かる。さながら鴨でも撃つように撃墜記録を稼いでいく一方的な光景は、獰猛な肉食獣の捕食活動そのものだった。
《よくやった、完璧だ》
志波からの通信はごく短くその一言で切れた。恐らく小隊を引き連れて戦闘に参加する直前に寄こしたのだろう。
「俺らも行くか」
《ああ、オヤジに働かせてノンビリ観戦って訳にはいかねえよ》
まだ弾は残っている。二機は制空隊の進路に合わせて再度敵中への突入を敢行した。
《当空域に残敵無し。敵攻撃隊壊滅も二〇〇機あまりが艦隊方向へなお侵攻中、これより全速帰投し直掩隊の掩護に回る》
一番機からの迎撃戦の総括が入る。全速帰投し直掩隊の掩護にとあるが、二〇〇程度であれば艦艇の対空支援を受けた直掩隊が余裕を持って処理できるだろう。隊員は全員がよく理解しており、従って志波の総括もまた表向きのこと。速度は出して帰投するが、到着する頃には防空戦も無事終了しているはずだ。
《にしても、今回の攻撃隊は楽だろうな》
廣澤の言葉を受けて零は時計を確認する。そろそろ友軍の攻撃隊が目標地点へ到着している頃のはずだった。
「余程の事が無ければ大戦果だろうな」
敵艦隊の規模からして、今回の戦力配分は明らかに偏っているはずだった。恐らく艦隊直掩は残っておらず艦砲による対空砲火のみだろう。攻撃隊はやり易い。
《そういや、スコアは?》
「ああ……一六九だ、そっちは?」
《ちょい待ち……お、っしゃ! 一七一》
僅か二機、零は舌打ちした。
《んじゃ、例の件よろしくな》
「解ったよ。あー、畜生」
言い合いながらの帰路に就く。
艦隊旗艦から敵艦隊および敵攻撃隊殲滅の報が届いたのは道中でのことだった。
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