四話 布切れ

 幼き頃、ロゼは太陽と花をこよなく愛する少女だった。人一倍身体を動かし、人一倍好奇心が強く、よく膝小僧に擦り傷を作ってくるような少年じみた娘で、使用人や女中たちは交代で遊び相手にと振り回された。多少やんちゃな方が子は純真に育つものだとランベルティ侯爵は笑い、バラ園だけは荒らされては困るわとブリージダ夫人は愚痴を零す。


 太陽と花は密接な関係にあると、少女は心の片隅に漠然と思う。晴れが続けば蕾が芽吹き、雨が続くなら花弁は萎れるものだと。人間も同様に陽に育まれ、やがて陰に毒され死に至るものであると。

 少女なりの世の摂理は植物の有様を糸口にした安直なものであり、世界の実態は彼女の妄想とは大きく異なる。陽と陰は表裏一体であり、共に寄り添い、生物の足跡そくせきを慈しむものである。どちらが欠けても成り立たず、そこには善悪の是非というものは存在しない。


 だが少女にとってはどうでも良いことだった。私は太陽の元で育ち、花のように笑い、落陽とともに床に就く。そんな人生を死ぬまで送っていくのだ。まるで神と交わした誓い言であるかのように己の希望に満ちた道程を信じて疑わなかった。


 それはロゼが七つを迎えて間もなくの時分であった。

 空は厚い雨雲に満ち、眩い稲光と共に雨が降り出していた。空の堰塞湖えんそくこが決壊したかのような大粒の雨は邸宅の屋根や庭園を絶えず打ち付けた。

 ロゼは窓辺で頬杖をつきながらバラ庭園を眺めていた。バラは開花の時期にあったが、雨によりその殆どが泥水に埋もれてしまっている。千切れた花弁は汚水の氾濫に呑まれ、庭園に散らばり土に塗れていく。その光景はひどく退廃的である。肩が石になるほどの倦怠感で、無垢な少女の目にはまるで世界の終わりのように思えた。


 ふいに窓の向こう、硝子を挟んだ一枚先に何かが居るのに気づく。

 それは布切れの襤褸ぼろのようであった。いつの間にそこにあったのか、雨風に打たれながら布切れはばたばたと靡いている。寝敷物大の大きなそれは荒んだ庭園をすっぽりと隠している。ロゼはぼうっと、布の棚引きを眺めた。それが何なのかが分からないまま、布切れに向けた意識を静止させる。


「許されぬことだ」


 老いた男の声がした。布切れからだった。

 見れば、布地の切れ目からぎらりと光る紅い両眼が覗いていた。


「これは、いわば天命……」


「てんめい」


 初めて聞いた言葉のようにロゼは反芻する。布切れはゆっくりと頷く。


「お前に課せられた、いや……お前を通じ、お前の『子』へと課せられた天命」

 布切れは切れ端の奥から素腕を露出させ、煤けた手の平をロゼへと向けた。その瞬間、ロゼの身体は宙に浮いた。坐っていた椅子ごと、少女の小さな身体は寝室の中空に吊り上げられる。自分は夢でも見ているのだろうかと、ロゼは宙に浮遊しながら首を傾げる。

「天命の種が如何なるものか、いずれ知ることになる。そしてお前はその種を、死をもってして咲かせるのだ」


 全身の毛が総毛立ち、布切れの紅両眼に魅入られる。体内の細胞を無理に組み換えるような背馳感が襲った。視界が歪み、じわじわと浸食するように深淵の闇に取り込まれていく。

 歪曲した影視の先、窓辺の向こうで雨に打たれながら、布切れは遥か上空を指差した。


そらを憎め、ロゼ・ランベルティ」




 少女の記憶はそこまでで、気づけば晴れた陽光の差し込む自室だった。雨音は止み、痛いほどの日の光が半身に降りている。ロゼは冷たい床板で涎を垂らしながら眠っていた。顔の右側を固い板に当て続けていたせいで頬骨がちりりと痛む。目を覚ましたのは、女中が寝室の戸を叩いたからである。ロゼは眠気眼を擦りながら返事をする。

 お目覚めの時間ですお嬢様、と戸を開けた女中は、ロゼの顔を見るなり身を硬直させる。腰を抜かしたようにその場にへたると、邸宅中に響くような悲鳴を上げた。

 女中の挙動が今一つ飲み込めず、ロゼは寝床際に掛けられた鏡を横目に見た。そこには顔の右側があったが、異様なまでに白めいた肌艶に違和を覚える。また、その奥に見え隠れする異変にも。

 恐る恐ると正面を向くと、そこには顔の左半分が焼け爛れた自分の姿があった。

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