一話 爪

 男は暗黒の中に居た。

 混じり気なき闇のせいで自分がいつ目を覚ましたのか、そもそも本当に覚醒しているのかどうかも亮然としない。確かに目を見開いているはずなのに、眼界は濃い涅色くりいろに満ちている。


 自分はどうやら椅子に坐っているようだと、半覚醒のままに男は悟る。

 ただ坐っているのではない。胸のあたりで何重にも荒縄を巻きつけられ、背中を椅子の背面にきつく押し付けられているようだった。縄に両手を伸ばそうとしたが、これもぴくりとも動かない。両手はいやに幅広に造られた肘掛けの上にあり、指先の辺りで何らかの拘束具を嵌め込まれているらしい。冷たく硬質で、金属製のようである。十指は淡く開かれた状態で固定されていた。

 椅子ごと立ち上がってやろうかと試みるも徒労であった。両足も、錠のようなもので椅子の足に繋がれている。

 また、視界が暗いのは自分が目隠しをされている為なのだと気づいた。


 ここでようやく、男の意識ははっきりとうつつに返る。

 そして真っ先に脳裏に浮かんだのは「俺は一体、どこでたがえた?」という自問であった。


 当然と言うようにここへやってきた経緯が思い出せない。だが記憶の片鱗にあるのは、ランベルティ家の離れ――使用人の共同宿泊所の一室で口にした、南瓜の煮出し汁であった。あれを飲む以前の記憶は明瞭なのに、その後はやけに朧げな気がした。


 ――盛られたな。


 そんな確信を得ると共に、心中では開き直りじみた冷静さが構築される。男は元来臆病な性分ではあったが、厳しい環境に身を置いたが故の強固な自制心を身につけていた。状況さえ整理出来てしまえば、男は鷹揚ようようと順序立てて物事を推測することが出来た。


 一番に考えられるのは、この拘束は公的使役によるものではないということだ。王都裁定所の使いであれば、容疑者を捕縛するのにわざわざ服薬など用いない。たとえ冤罪人であれ潔白が証明されるまでは直接、好き放題に尻を蹴って牢獄へと連行するのが奴らの常態である。猛虎を背に携えながら姑息な手段を取る者はいない。

 とすれば、この状況は何者かの私怨により、あるいは個の利益を目当てに仕立てられた舞台であると考えた方が自然だろう。


 私怨、と男は思う。

 自分の身の周りで起きた出来事で最有力を挙げるなら、半年前、鷹狩りの最中で滑落死したランベルティ侯爵の一件であろう。


 男は全身のあちこちをよじってみる。この行為は拘束の綿密性を量るためのものだったが、残念ながらその辺りに抜け目はないようだった。胴体に巻かれた荒縄は執拗なまでに椅子の背面に固定されているし、いくら指を蠢かせてみたって金属具の螺子は緩む気配すらない。

 試しに大声で叫んでみても良かったが、無駄だと思い断念した。声を出されて困るような環境であれば猿轡でも噛まされているだろうし、水にありつけるかも分からぬ状況で無益に喉を潰そうなど是非もない。


 次に男は、周囲の気配に意識を集中してみた。

 そもそも自分は今、どこに居るのだろう。

 辺りは耳鳴りを覚えるほどの無音である。両耳の感覚に身を委ねる。木々のさざめき、戸の開閉音、虫の砂擦り音、何でも良い。

 彼をこのような状況に追い込んだ『捕縛者』が現れない限り、男に出来るのは一つでも多くの情報を得ることであった。状況は最悪といって差し支えない。これから我が身に起こるであろう惨事には心から目を背けたい思いだが、そのような最悪の状況だからこそ最善の行動が要求されていた。

 何でも良いのだ、と男は歯噛みする。

 男が覚醒して、既に四刻ほどが経過していた。


 何故だ。何故、なにも来ない?


 冷静さを維持し続けた男に突如として浮上した小さな不安の種は、という歯痒さを燃料に徐々に肥大し、やがて明確な恐怖を心根に植え付けていた。

 やがて耳に届いた僅かな衣擦れ音に、男は全身を跳ね上げる。

 音は男のすぐ背後からだった。


 ――誰かが居る。俺の、すぐ背後に。


 いつから?

 決まっている。。男は覚醒直後から身の危険を察知し、神経質に周囲の状況を窺ってきた。たった今どこからかやってきて彼の背後に回ったなど、それこそ神か精霊の仕業であろう。

 男は乾いた喉を鳴らす。呼応するかのようにまた後ろで衣擦れがした。


「……ジョット・コルツァーニ」


 暫定『捕縛者』が口を開いた。声は年若い女のもののようである。鈴音のような邪気なき声質で捕縛者は、男――ジョットの名を確かめるように呼んだ。


「話したいこと、やるべきことは数え切れないけれど、まずは手始めに、そうね……」


 捕縛者はジョットの前方に回り込む。足音から察するに彼女は裸足のようだった。発声の位置からして背丈は成人女性の平均並みであろう……と、さして意味のない考察を頭中に並べ立てながら彼は沈黙する。


 かちゃりと、捕縛者の手元で金属音がした。

 しばしの無音ののち、捕縛者がジョットの右手に触れた。彼の心中を象徴するかのような、ひどく冷え込んだ手指である。捕縛者の手は選定するかのように一つずつ彼の指を握っていく。やがて親指を包むようにすると、彼女はくすりと笑声を漏らした。

 ジョットは身を震わせる。右手の親指に、彼女の手より冷たく固い物体が当てがわれたからだった。

 先程聞こえた金属音の正体であろう。金属の先端は鋭利に尖っており、親指の爪と肉の狭間に緩く差し込まれている。ジョットは細い釘を想像した。そしてそれは、近からずも遠からずと言った所だろう。


 直後、「ぞっ」という音がして釘が爪の奥深くまで入り込んだ。一連の所作に迷いはなかった。待たされるよりはましだと思うジョットだったがその激痛は耐え難く、肺の奥から捩じるような悲鳴が漏れた。

 悲鳴を上げ終わる前に、今度は爪が上方へと跳ね上がった。全身に稲妻が走り、自分でも聞いたことがないような嬌声が出る。そのまま爪先を摘ままれ一気に引き抜かれると、彼は更に大きな悲鳴を上げた。さっきの嬌声が限界だと思っていたジョットは、鼓膜を破るような自分の雄叫びに自分で驚く。


「単刀直入に質問するわ」

 捕縛者の足元で落下音がする。親指の爪が落ちた音だろう。

「お父様を殺したのは、ジョット……貴方なの?」


 ジョットは親指の痛みに耐えながら頭を巡らす。

 お父様。殺した。

 大体の状況が読めてきた。読めた上で、彼は黙していた。小娘が心を殺し卑劣な拷問官の真似事を通すには爪一枚で十分だろう。

 そのような些少の希望を抱きつつ、ジョットは彼女の次の言を待っていた。だが直後、余計な希望は抱かぬことだと彼は自身を戒めた。彼女は、ジョットが無言を貫くつもりだと知るや否や、さっそく次の爪に釘を当てがい出したのだった。


「あんた、ロゼ嬢だろ」

 釘の動きが一瞬止まる。その反応は、捕縛者が自分をロゼだと認めているようなものだった。

「ずっと邸宅の一室に引きこもって、何人かの侍女と家族以外には姿も見せなかった……あの、ランベルティ卿の次女だろう」


「質問の答えになっていないようだけど」

 ロゼはもう一度釘を差し込む。


「質問に答えなきゃどうする?」ジョットは遮るように声を上げた。「答えるまで俺を痛めつけるのか? まあそれもいいだろう。だが一つ断言出来るのは、どんな苦痛を受けようが俺は絶対に口を割らん、という事だ。俺が今ここで無実を訴えようが聞き入れちゃくれないんだろう。どうせ死ぬなら答える必要はない。俺が犯人であろうが、なかろうがな」


「それはそれで構わないけれど……答えないことで、貴方にとって何か良いことでもあるの?」ロゼは純粋な疑問を口にする。


「ないさ。どうせ死ぬなら一緒だって、俺はそれが言いたかったんだ」


 釘が深く突き立つ。左手の親指で、今度は爪を貫き肉まで届いた。苦痛に声を上げるも、ジョットは脂汗を垂らしながら言葉を繋げた。


「死ぬ前に一度あんたの顔が見てみたいな、ロゼ嬢。侍女が言うところに寄れば、あんた、女神・ヘレネーもかくやというほどの麗姿らしいじゃないか。うらぶれた術師の死際の願いだ。冥途の土産に、是非顔を拝ませてくれないか」


 しばしの間ロゼは口を閉ざしていた。何を迷うことがあるのか、しかし彼女なりに思う所があるのだろう。ジョットは音を立てぬように唾を呑む。

 やがて、彼の後頭部に手が触れた。きつく結われた結び目が解かれ、目隠し布がジョットの膝元に落ちた。

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