白皮のロゼ
小岩井豊
序章 ロゼ・ランベルティ
南の王都を代表する華族といえば、誰しもがまずランベルティ家の名を挙げるだろう。
事実、東地区の政治的実権は領主、アルデモ・ランベルティが握っていた。侯爵の爵位と共に選帝侯の諸侯にも名を連ね、王族その他領邦との親交も深い。また彼は国の軍事にも何枚か噛んでおり、ランベルティ侯爵が城へ招集されたなどと噂が上がれば、近々戦争でも始まるのではないかと民衆が騒ぎ出すほどであった。
そんなとき、侯爵は馬車の最後部に悠々と背を預けながら、不安げな顔をする民衆に無邪気な笑みを振りまくのである。「なんだ、単なる食事会がそんなに羨ましいか?」と。
「あまり期待するな。ここだけの話、あそこの鶏の丸焼きは少々大味でな。皇帝の手前食わんわけにもいかんが、奴ら、馳走のなんたるかをまるで分かっとらんようだ。香辛料とて、ただ使えばいいというものでもない。何事にも適量があるのだ。全く、この国のお先も知れたものよ」
彼は袖から鶏の骨を取り出しそこらの路上に放る。痩せた野犬が飛びつき、嬉しそうに骨をしゃぶった。
「野良犬と大差ないようだ、我が国の皇帝様は」
肩透かしを食らい、民衆はどっと笑い出す。
いつの時代も位の高い人間への陰口とは鬱憤を晴らす良い材料である。下層階級の民ほど不謹慎な冗談を好むのだということを侯爵は理解していた。民衆を軽視せず、彼らと目線の高さを合わせる懐の深さを演出する。また、周囲からも望み通りの印象を獲得しているようだった。彼は自身の立場を利用しながら、あわや虎穴となりかねぬ失言を駆使し平民の好感を買うのだった。
光の挿さぬ部屋の中で、少女はそのような光景を視ていた。
部屋の一辺には出窓が配されていたが、そこは鎧戸できつく閉ざされ、上からは厚い毛布が掛けられている。一条の光すら差す余地はなく、部屋は完全な闇に満ちている。彼女は椅子の上で膝を抱き、深く瞼を閉じている。
馬車に揺られる父――アルデモ・ランベルティは足を組みかえ、大口で酒瓶を傾ける。げっぷを一つ漏らすと上機嫌に鼻歌を唄い出す。
そんな映像に、少女は眼を凝らしている。
春昼の空の下、ランベルティ侯爵を乗せた馬車は東の大邸宅に到着した。
邸宅の壁は几帳面なまでに磨かれた乳白色である。対照的に、内苑では見事なまでのバラ庭園が広がっており、栄耀栄華を誇示するかのように隅々まで咲き誇っている。彼の妻、ブリージダ夫人は午後の憩いと称し、貴婦人仲間と優雅に紅茶を啜っていた。あのお花はこうで、あちらの造園はこう。自慢げに独演し、婦人らは愛想笑いで頷いている。
夫の帰りにブリージダ夫人は閑雅な笑みを送る。
「あなた、午後のご予定は?」
「ちと鷹狩りをな。今日こそは上手く行く気がするのだ」
「あら、またなの。昨日だって二日酔いで寝たきりでいらしたし、いい加減お仕事の方はよろしいのかしら?」
「お仕事? 僕にそんな物があるように見えるかい」侯爵は肩をすくめる。「平和と暇は同義だよ」
貴婦人らは気遣いを多分に含んだ笑みを漏らす。ランベルティ侯爵は使用人の一人を呼び、鷹狩りの支度を命じた。会釈し立ち去ろうとする使用人に、ふと思い立ち彼は声をかける。
「そういえば、ロゼの様子はどうかな」
はっとして、少女――ロゼ・ランベルティは眼を開ける。
自分の名が呼ばれたことに吃驚し、ほのかな期待が沸く。再び瞼を下ろして父へと視野を絞る。
使用人は一度口籠った。
「恐らく、お変わりはないかと……侍女の者に確認してまいります」
使用人の言葉に、侯爵は鷹揚に手で制す。
「いや、いいんだ。余計な手間であろう。どうせ変わりはない。だが、事はなるべく急がねばならんだろうな」
口髯を撫でながら彼は、鼻歌交じりに邸宅の扉をくぐっていった。
ロゼはため息を吐いて眼を開ける。視界が暗闇で包まれた。
冷たい床板に足裏を降ろす。弱い明かりを頼りに化粧台の上を探った。今朝、女中の一人に貰った葡萄を見つけ一粒口に入れる。仄暗い部屋には似つかわしくない清涼芳醇な香りが口の中に広がった。
少女は炎を見るともなく見つめ、椅子の下で足をぶらぶらと揺らした。
この角燈は呪石を使用した逸品らしい。二年前、寝室用にとこれを持ってきた父はこの品について自慢げに語っていた。この種の照明具は、理論上は半永久的に火を灯してくれる画期的な発明品なのだと。つい最近出回り出した高級品であると。恐らくは街商人からの受け売りなのだろうが、父はまるで自分の手柄のようにこの品の利便性について話していた。
呪石、という言葉にロゼは引っ掛かりを覚える。きっとそれは呪術師が開発した呪道具なのだろう。『呪』という字を頭に入れることすら憚られるほど、少女は呪術に関わる全てを嫌っていた。
また、父が日頃から自分の気持ちを考えてくれていないことが手に取るように分かった。
ロゼは指先で、角燈の硝子面をはじく。
呪術を避け生きてきたロゼは、しかし不思議なことにこの角燈の炎だけは嫌いになれなかった。むしろこの真っ暗な空間において突如として入り込んだ仄かな碧の灯(ともしび)は、少女の永い閉鎖環境に一筋の希望をもたらしたように思えた。炎を眺めていると、幾らか自身の将来に希望を見い出すことが出来た。
希望、言い換えれば建設性。長年、暗い妄想に取りつかれていた少女に宿った僅かなそれは、自己の人生に大きな指針と目標をもたらすきっかけとなった。
自分はいずれこの国を出て、まだ見ぬ理想の世界を生きていくことだろう。
あとはどうやって、この病状を克服していくか――課題があるとすればそれだけだった。
ロゼは角燈の炎を消し、また遠くの光景に眼を向ける。
父が鷹狩りに出かけると言っていたから、それを眺めて時間を潰そうと思った。場所はいつもの老砂丘陵だろう。あそこは野兎の生息地で、父が飼っている大鷹の好物であった。
彼は鷹狩りに出かけるとき必ずお抱えの呪術師二名と魔術師一名を連れていく。話霊の術師、心像の術師、獣憑きの魔師の三名だ。老砂丘陵では低中級霊獣の出没も確認されているため、術師たちは父の身辺警護を任されていた。
ランベルティ侯爵一行は丘陵を目指す。
馬の腹を蹴り、何事か談笑を交えながら。
平和と暇は同義だと、父が婦人たちへ放った言葉をロゼは後々になって思い返す。その偽りの平和が、まさに今日破られたのだなと。
鷹狩りの最中、アルデモ・ランベルティは深い谷底に滑落し、四十一年の生涯に幕を降ろした。この件に関しては少々複雑な事情を孕んでいそうではあったが、ともかく少女はその一部始終を目撃していた。彼女が持つ特殊な『眼』により、細部までを鮮明に。
「お嬢様、お着替えの時間です」
侍女が部屋の戸を叩いたのは、父の死を目撃した直後であった。どくどくと鳴り出した心音を隠すように返事の声を強め、角燈を点けた。
ロゼの青ざめた顔を見て侍女は首を傾げる。なんでもないわ、と返し少女は首筋に浮いた玉の汗をそっと拭う。侍女の為すがままに着替えを委ねる。
「ああ、何度見てもお労しい……」
背後から侍女の嘆きを聞く。振り返れば彼女はロゼの裸の背中を見つめ、前掛けで口元を覆っていた。姿見に背を映し、首を捻って自身の肢体の様を顧みる。もはや見慣れたもので、少女にはこれといった感慨は浮かばない。が、先程の滑落死を目の当たりにして、また違う印象を抱き始めているのも事実であった。
「本当に痛ましい限りです。出来ることならその禍根の印、今すぐこの手で抹消してさしあげたい」
「抹消……」ロゼは独り言のように呟めく。
侍女は慌てて両手を振った。
「すみません。能無き使用人が過ぎたことを申しました。出来もしないことをぶつぶつと……どうぞお許しくださいまし」
「ううん。いいの」ロゼは頭を振る。「それより、父のお抱えの術師さんはなんという名だったかしら……ほら、短い顎髯を生やした、二十代半ばごろの」
「ええと……」
侍女は顎に指を当て記憶を探る。
「たしか、ジョットとかいう名の呪術師だったと思います。他者の心像を操る……だとか何とか。私にはよく分かりませんけど。それにしてもお嬢様、その者にお会いしたことございましたか?」
ジョット、とロゼは頭に刻み付ける。
「いえ、何となく父から聞き及んでいたものだから……」
侍女が部屋を去った後、ロゼは暗い部屋で考えた。
間もなくして父の急逝の
この閉鎖空間で角燈の炎を眺めながら、幾度となく巡らせた将来への展望。理想を実現することに二の足を踏み、機を逃し続けた今になって、見かねた何者かが少女の背中を押してくれているような、そんな気がしてならなかった。
碧の炎を見つめながら、ロゼは静かに計画を練り始めた。
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