第3話 宮木勇

「そういえば優、そろそろ学習旅行の時期じゃないか。任意参加とか言ってたけど行くのか?」

「行かないよ、別に。そもそも進学する気もないし」

「けどやっぱり大卒じゃないと将来困るんじゃないかしら」

「さっきの番組で言ってたみたいに、そもそも働く必要がないみたいだからなあ。働き口も相当少ないようだし。僕らが若い頃は働くためにみんな大学に行ってたもんだが」

「時代の変化って早いわねえ」

「僕からしてみれば労働のために大学に行くって方が分からないんだけど」


現代において、大学とは知的好奇心の旺盛な物好きが通う場所だ。しかし学問のデータならどこでも販売しているため、実験や実演が必要な学問にのみ必要とされる場所だ。浩一や彩子が学生だった頃のように、興味のある分野がなくてもとりあえず通うというものではなかった。

翌日、優が教室で備品のタブレットを開くと、学習旅行の参加確認が届いていた。優は迷わず不参加を選択し送信した。


「はよ」

「おはよう、昨日は風邪でも引いてたの?」

「まあな、もう治った。学習旅行、行くのか」

「行かないよ。どうしてわざわざ田舎に行って勉強するんだか」

「まあそうだよなあ。一応恒例行事として肝試しはやってるらしいけど、そんな子ども騙しを楽しみに行くやつもいないしな」


だよね、と投げやりな相槌を打ち、優はタブレットを机に伏せた。

1限目は古文だ。進学も就職も必要ない学生たちには、日常生活で必要とされにくい教科は不人気だ。優が周りを見れば、授業をサボろうと席を外す生徒たちの姿があった。


「俺らもサボるか」

「そうだね、受けてもどうせ寝ちゃうし」


約10年前に教師という制度がなくなった高校では、モニターの準備をする自動人形と画面の中の人物こそが教師だ。

席を外したところで注意する者もおらず、授業のデータは数時間後にダウンロードできるようになるため、真面目に出席する生徒の方が珍しい。

1限目を堂々とサボった2人が向かったのは中庭だ。

優がフルーツジュースを投げて寄越せば、勇はそれを片手で受け取った。


「肝試しってあれでしょ、なんかこう暗い場所でわーってやってギャーってやつ」

「そうそれ。お化けの振りをして脅かすやつ」

「お化けねえ。勇ってそういう、お化けとか幽霊とかっていると思う?」


優の質問に、勇は腕を組んで考える素振りをした。優は真剣な答えを求めたわけではなかったが、真面目に考えているのを遮ることもないだろうと勇が口を開くのを待った。


「幽霊はいないな」


悩む素振りを見せていたにも関わらず、勇は断言した。優は思わず目を瞬かせた。


「何でそう思うの?」

「幽霊っていないから幽霊だと思うんだよ。いるならそれは幽霊って呼ばれてるだけの何かだと思うんだ」

「つまり目に見えないものを総称して言ってたりするってことかな」

「俺は目に見えるのに幽霊って言われてる奴を知ってる」

「え? 誰?」


優は級友の姿を何人か思い浮かべた。肋骨が浮き出ている痩せ細った斎藤、貧血気味でいつも顔が白い田中、存在感のない佐々木……。優が知っている中で幽霊だと呼ばれそうなのは3人だけだ。


「茂木真琴」


優は顔を強張らせた。

太田小百合の影響で真琴の名を口にする者すらいなかったために、真琴の名を他人の口から聞いたのは久しぶりだった。


「あれ、正式名称は集団無視だけど、太田いわく幽霊ごっこらしいぜ」

「……へえ」


雑談から真琴の名前が出てくるとは思わず、優は目眩を覚えた。あくまでも平静を装おうと炭酸飲料を口に含んで、舌の上で泡が弾ける感覚に集中しようとした。


「幽霊が見えるって言うやつもいるけどさ、自分の脳みそが処理できないからって現実すら見えてないやつもいるんだから世の中って不思議だよな」

「ええと、例えば?」

「そうだな……」


勇が再び考え込むのを見て、優は聞き返したことを後悔した。一刻も早くこの話題を終わらせたかったのだ。しかし別の話題を振ろうと優が口を開くより先に、勇が優を見据えて答えた。


「お前が茂木真琴の日記を見なかったことにしようとしてるのも、そういうことなのかもな」


優がはっと目を開くと、そこは教室だった。スクリーンの中では授業のまとめをしていて、意味を考えたことのない古文に赤線が引かれている。

自分は結局授業を受けて居眠りをしてしまったのだと気付いて、隣で船を漕いでいる勇を揺り起した。


「勇、もう終わりだよ」

「へ? ああ……結局寝てたわ」

「だよね、僕も」


勇が大きな欠伸をして目を擦った。次の授業は倫理学だ。サボるか、と当然のように口にした勇に、優もそうだねと返した。


「あ、優。これ、サンキュな」

「え?」


勇の手にはフルーツジュースがあった。居眠りから醒める前に投げて寄越した橙色のラベルと同じものだった。優が鞄の中を確認すると、フルーツジュースと一緒に買った飲みかけの炭酸飲料があった。


「なあ優、茂木真琴に声かけねえの」


勇が堂々と口にするものなので、優は慌てて周りを見渡した。教室内に太田小百合はおらず、優は安堵の溜息をついた。


「誰も俺らのことなんて気にしてねえよ」

「うん……。あのさ、勇」

「ん?」

「僕たちって、1限目受けたんだよね?」

「さあ?」


勇は目を細めて悪戯っ子のように笑い、マネーカードをポケットから取り出した。


「アイスでも食おうぜ。ジュース貰ったし今度は俺が奢るからさ」

「勇、あの……訊きたいんだけどそのジュースってーー」

「アイス買ってからなー」


売店に向かう勇の後ろを着いていった優は、もしや今は夢を見ているのかもしれないと考えた。

夢を見ていると自覚するということはこれは明晰夢だろうかと考えて、直後に冷たく硬いものが頬に触れた感覚にはっと目を開いた。


「何寝てんだよ、寝不足か?」

「え、あれ」


そこは中庭のベンチだった。

目の前にはアイスバーを持つ勇がいて、優は差し出されたそれを受け取った。手の甲を抓ると確かに痛みを感じたので、今度こそ現実だと確信した。


「ありがと」

「おー。……あ、やっべ売店にスマホ置いてきたっぽいわ。ちょっと行ってくる」


駆け足で売店に戻る勇の背中を見届けて、優はアイスバーの封を開けた。舐めながらしばらく待っていると、クラスメイトの女子生徒が2人中庭にやってきた。


「あ、駿河くんじゃん。サボってんの?」

「うん、まあ」

「へー、1人?」

「いや、勇もいるよ」

「勇?」


女子生徒2名は顔を見合わせた。初めて聞いたとでも言うように不思議そうな顔をしているので、優は宮木だよ、と付け足した。それでも彼女らはまだ不思議そうにしている。


「あー、あれだよね、よく駿河くんといるあのちょっと小柄な眼鏡の」

「え、眼鏡だっけ? 結構ゴツくなかった?」

「ごめんあんま分かんないや、別クラス?」

「え……ああ、うん。そうだったかな……」


勇は眼鏡をかけてはいない、優よりも若干背は高いがそこまで逞しいというわけでもない。何より優からしてみれば陽キャのパリピだ。クラスに勇のことを覚えていない者がいるなどと思っていなかった。

知らないと言っているのに食い下がるべきでもないだろうと優は彼女たちを見送ったが、内心では釈然としなかった。


「やー、やっぱ売店に忘れてたわ。超焦った」

「あったなら良かった、気を付けなよ」


勇にはやはり女子生徒たちが言っていた特徴は何一つ当てはまらない。優は心底不思議に思いはしたが、わざわざ本人に言うことでもないだろうとアイスバーを齧った。

昼前にアイスバーを食べて昼食も完食し、更に帰り道でもいつも通りソフトクリームを食べる。いつの時代でも男子高校生とはよく食べる生き物だ。優と勇は2人揃ってコーンの先まで平らげた。

勇と別れた優が帰宅しようとオートウォークに乗ると、いつも通り反対側から老婦人が買い物のために流れていた。


「あら優くん、今日は昨日より早いのね」

「昨日は学校に長居してたんで」


お勉強頑張ってるのね、と微笑まれたが実際は居眠りばかりだ、優は曖昧に微笑み返した。

婦人は努力と苦労が美徳の時代を生きていたのだ、学校と言えば勉学に励む場だった。


「あのね、実は優くんに謝らなくちゃいけないことがあってね」

「はい?」

「優くんが女の子といたからてっきり彼女さんができたのかと思って、お友達に話しちゃったのよ」

「え、じゃあ僕話のネタにされてるんですか」

「ごめんね? 綺麗な子だったし、ついそうなのかしらって」

「や、まあ大丈夫ですけど」


優は謝ると言った割に申し訳なさそうな表情を見せない婦人に苦笑し、悪くしたのは脳ではなく目だったのだろうかと考えた。


「あんな男らしい彼女は作ろうと思っても作れませんよ」

「男らしいなんて。長い髪も真っ直ぐで綺麗だったし、優しそうな子だったじゃない」

「え?」


優は何一つ勇に当てはまらない特徴を述べる婦人に既視感を覚えた。午前中に授業をサボった時に遭遇したクラスメイトの女子生徒だ。


「それに良いわよね、涙ぼくろって。なんだかセクシーだもの」


長い真っ直ぐな髪、優しそう、涙ぼくろ。

頭に思い浮かんだ姿に、優は愕然とした。

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