第2話 幽霊の日記
うたた寝をしていた優が目覚めたのは図書室だった。
この日は勇が欠席していて、1人だとソフトクリームを食べる気が起きない優は図書室で書籍のデータを眺めていた。
タブレットの端には17:32と表示されている。優は数度瞬きをして背中を伸ばし、タブレットを元の位置に戻した。帰宅しようと鞄を手に取り、優はそこで雨が降っていることに気が付いた。
折り畳み傘が教室にあったっけなあ、とぼんやりとした表情のまま優は図書室を出た。
室内競技の部活動の掛け声が遠い所で響いていた。教室の中には誰もいない。皆帰宅したか部活動に勤しんでいるか、或いはどこかで遊んでいるのかだ。
机の横にかけてある傘をとった時斜め前の机の横に何か落ちているのを見て、優はそれを手に取った。今時珍しい紙の手帳で、優は思わずそれを開いていた。
2月6日 晴 今日は──。
優は書き出しを見て即座に手帳を閉じた。他人の日記を見ることには抵抗があった。しかし同時にこの時代に紙の手帳に綴る人がどんな人物かも気になっていた。
複数人に見られて恥ずかしい思いをするよりは僕がここで持ち主を特定して机に入れてあげる方が結果的に良いに違いない。
誰も気に留めない言い訳をして、結局優は日記を開いた。
一番新しく書かれたページを見て、優は思わず息を呑んだ。
私なんかいてもいなくても何も変わらない。死んでも誰も困らない。
未練とかはあるし死んだら幽霊になったりするんだろうけど、もう幽霊みたいなものだし。
太田さんに嫌がらせされてた時の方が平気だったな。
いてもいなくても変わらないよりはずっと良かった。
最期くらい、誰かの心に残りたい。
どうやって死ねば誰かがわたしのことを覚えていてくれるかなって考えて、キリもいいし7月31日に死ぬことにした。
優は勢いよく日記を閉じて、元の場所に戻した。
太田さんに嫌がらせを受けていた、現在いてもいなくても変わらない人物。真っ直ぐな長髪に優しげな瞳、左目の下に涙ぼくろのクラスメイトが思い浮かんだ。
クラスメイトが自殺を考えていることを意図せず知ってしまったがそれをどう処理すればいいのか分からずに、優は早足に教室から出た。
エントランスに向かう途中に駆け足で廊下を走る生徒とすれ違った。
真っ直ぐな長髪、優しげな瞳、左目の下に涙ぼくろ。日記の持ち主に違いないクラスメイト、茂木真琴だ。誰にも見られるわけにいかない日記を探しに来たのだろうと、優は彼女の背中を見送った。声をかける勇気はなかった。
帰り道、優が傘をさしてオートウォークに乗って流されていると、反対側から流れてきた老婦人が優に気付いて挨拶をした。優もそれに会釈をして、しかし婦人の引き留める声に気付いてオートウォークを降りた。
「どうかしましたか」
「ううん、大したことじゃないんだけどね。この間いた彼女さんは今日はいないのかしら?」
「彼女? 僕には彼女はいないですけど」
「あら? じゃあ3日前に一緒にいた子は?」
優が3日前に婦人に会った時に一緒にいたのは勇だ。到底女性には見えないはずの勇が何故恋人に見えたのか不思議だったが、優は婦人の顔を覆う皺を見てはっとした。
医療の発展と共に平均寿命は伸び続け、今や日本の平均寿命は男女とも100歳を超え、女性に至っては109.5歳だ。
認知症や記憶障害の対策も進んではいるものの深刻な社会問題であり、婦人は100歳に差しかかろうとしている。
「ついにか……」
「あら、どうかしたの?」
「あ、いえ。何でもないです。3日前に一緒にいたのはクラスメイトです」
「あらまあそうなの、私てっきり優くんに彼女ができたのかしらって思っちゃって」
「はは、残念ながら」
彼女と言われて、優は真琴のことを思い返した。
優は真琴に恋をしていた。今となってはそれが恋か怪しいが、以前は恋をしているつもりだった。
入学してから数日後に真琴を目にした時、優は美しい真琴に目を奪われた。遠目に真琴を見るだけで胸は高鳴り頬に熱が集まった。
所謂一目惚れというやつで、ろくに会話したこともないのに真琴のことが好きだったのだ。
異変が起きたのは2年生の時だった。太田小百合が真琴に嫌がらせをするようになった。優には理由は分からなかったが、些細なことがきっかけだったと聞いている。
小百合はスクールカーストの上位に君臨しており、彼女を止めるものはいなかった。むしろ真琴を貶めることで自身も上位に加わりたいと考える者もいて、日に日にいじめは加速していった。
しかし物を壊されても汚されても、真琴は気丈に振る舞っていた。
真琴が輝きを失ったのは冬休み明けからだった。2度目の長期休暇を挟んで、小百合は直接的ないじめに飽きたのだ。
そして小百合がとった行動は無視であった。だからといって全てが元通りになるということは勿論ない。真琴と関わりを持つと自分も標的にされるかもしれないという恐怖から、真琴に話し掛ける者は誰一人いなかった。結果的に、真琴は現在も集団無視を受けているのだ。
いてもいなくても変わらないよりはずっと良かった。真琴の角ばった字が頭から離れなくなり、優は酷く情けなくなった。
あの日記を読んでなお話し掛けられない自分が、真琴に恋をしているなど到底思えなかった。一目惚れで、真琴のことを詳しく知らないのに下心だけはあった。
「顔が良ければいける、ブスとはヤレねえわ」などと下品な猥談をしている、冷めた目で見ていたはずのクラスメイトと自分が、そう変わらない存在に思えた。
それでもクラスメイトと分かり合える気がしない自分を、最早何者と言えばいいのかも分からなかった。
「ただいま」
「おかえり、今日はちょっと遅かったのね」
「うん、図書室にいたから。何見てるの?」
「若者のいじめについての特集がやってたから。やっぱりいじめって、いつの時代もなくならないのよね」
浩一と彩子はリビングのソファに並んで腰掛けていた。スクリーンには傷付き涙する少女の再現VTRが映っている。その黒い長髪の女優が真琴と重なって見えて、優は画面から目を逸らした。
『年々いじめの件数が増えている理由に、労働からの解放が大きく関わっていると考えられます』
『けど学生でしょ? 労働とどう関係あるの?』
『現在ではAIやオートマトンが主流ですが、約30年前までは人が労働するのが一般的でした。学生とは本来、将来の労働に向けての過程ですからね。若者たちは目的を失ったわけです」
『俺らが昔働かなくていいってなった時、労働から解放されれば好きなことに挑戦できるって言われてたけどね』
『現在はベーシックインカムに加えてロボットの所有権や家賃収入などの権利収入が基本ですから、頑張っても頑張らなくても得られるものは変わらないわけですよ。社会人という生き物がなくなりつつある今、若者にとっていじめというのは単なる娯楽でなく、人より優位に立ち社会的地位を得られる方法でもあるんですね』
恋人を踏ん付けて満足すればいいんじゃないのかな、俺は踏まれて喜んじゃうけど。
コメディアンのオチの一言で失笑が起きて、番組は次の議題に移り変わった。
「人なんていつの時代も変わらないわな」
真剣な表情で見ていた浩一が、議題が変わった途端に呆れたように呟いた。彩子も頷いて、2人分の空になったカップと優のマグカップに紅茶を淹れた。
間も無く両親が帰宅して、夕飯の仕上げをしようと彩子は台所に立った。現代では出来合いの食事の配達サービスが普及していたが、駿河家では彩子が食事を作っていた。
「おばあちゃん、作るの面倒じゃないの? 配達サービスの方が楽だと思うんだけど。なんだっけ、ほら……アマノフードサービスとか」
「楽だろうけど、どうせやることもないじゃない。それに、浩一さんは私が作った方が美味しいって言ってくれるもの」
「彩子さんの小田巻蒸しと酢豚が僕は何より好きだからね」
「私は浩一さんの親子丼も好きよ」
「それじゃあ、明日は僕が作ろうかな」
優は2人のような将来は決して送れないだろうとふと考えた。
あと3ヶ月もしないうちに真琴は自ら命を断ち、自分は一時でも恋をしていた相手の自殺を知っていた上で引き留められず、それを心に小さな悪性腫瘍のように抱えて生きていくのだろうと安易に想像できた。
途端に浩一と彩子が、街中で通路を塞いでキスをする若いカップルを見た時のように恨めしくなり、優は紅茶を呷って首を振った。
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