第26話 凶刃

 刃が少しずつクライドへと近づいていく。アグノラは歯を食いしばって抵抗するも、手先が震える程度でほとんど意味を為さない。

 憎い愛しい嬉しい悲しい殺したい救いたい切り刻みたい抱きしめたい。

 相反する衝動が少女の中でごたまぜになり、自分が自分じゃない気分だ。剣を通して、刃が肉に埋まって行く感触を味わう。ゆっくりと、だが確実に進んでいく刃の先が、やがて固いものに触れて止まる。そこから、微かな振動が伝わってくるのを感じた。

 ――それは時計が命を刻む音Tick Tack Tick Tack憎くて愛しい男の鼓動Tick Tack Tick Tack


「バカが。憎くて殺すのに、ガキみたいに泣く奴がいるか」


 クライドが抑揚のない声で言う。あと少し刃が進めば命が失われるという状況でありながら、彼は命乞いをしなかった。命を投げ出すようなことも言わなかった。アグノラを責めも庇いもせず、ただ彼女の頬を伝う滴を気遣う。

 きっとそういうことを口にすれば、彼を殺さざる得ない私が傷つくとわかっていたからだろう。そんな彼の優しさが無性に嬉しくて腹が立った。


「貴方のことが憎い。私の大切な人の命を奪った貴方を殺せることが嬉しい。貴方を切り刻み、これ以上ない苦しみを与えて殺したい」

「それはきっと、おまえの脳に刻まれた少女の想いだ」

「クライド様のことが愛しい。私の大切な人であるクライド様の命を奪うことになるのが悲しい。クライド様を救い出し、思い切り抱きしめたい」

「それはきっと、おまえの時計に刻まれたアビゲイルの想いだ」

「私はどちらの私でいればいいのですか? ……命令してください。あなたが望むのなら、私はそのとおりの女になって見せます」

「その答えを、僕は持ち合わせていない。おまえはアビゲイルでも、おまえの素体となった少女でもないし、まして誰かの操り人形でもない。アグノラという一人の人間だ」


 不死鳥騎士団に操られ、自らを殺そうとする人外の少女に対し、それでも君は人間だと少年は告げる。最後の最後まで、彼はアグノラに何かを強要することなく、彼女自身の想いを大切にした。


「おまえの魂に刻まれた想いに従え。迷って立ち止まることがあっても、誰かに批判されることになっても、自分の道は自分で選ぶしかないんだ」


 優しくも厳しい言葉に、アグノラは胸を締め付けられる思いだった。だが、現実は彼の言葉より冷たく、彼女の気持ちとは関係なく、アレックスによる強制命令が働く。


「いやっ! お願い、止めて!」


 少女の悲痛な叫びも虚しく、身体は言うことを聞いてくれない。しかし、彼女の願いは別の形で天へと聞き届けられた。

 蒸機剣の刃がクライドの心臓を刺し貫くかと思われた瞬間、鋼鉄でできた壁面に無数の線が走り、サイコロステーキのようにバラバラになって弾け飛んだ。爆発したような衝撃に、近くにいたアグノラの小さな体は吹き飛び、クライドとの間に距離ができる。

 何事かと室内にいる者たちが注目する中、破壊された鉄管から蒸気が溢れ、壁に空いた穴を白く染める。高温の蒸気が噴き出していることに意も解さず、白煙の向こう側に八つの鬼火が揺らめいた。

 金属製の節足、蜘蛛や蟹を思わせる独特のフォルムをした蒸気兵器。この場に来るはずのない鋼鉄の怪物を見て、アグノラは驚きの声を上げる。


「メタルクラブ!? そんな、それじゃラスティたちは!?」


 問うてはいるが、答えはわかりきっている。ただ、統率のとれたラスティ小隊が敗北したという事実が信じられなかった。


『ふむ、次世代型の陸戦兵器と聞いていたが、聞きしに勝る戦闘力だ。ドールに変わる戦力としては十分期待が持てそうだ』


 驚愕するアグノラとは対照的に、アレックスは冷静に対象を評する。階差機関が駆動し、目の前の脅威に対する分析を開始していた。だが、当然ながら、それを悠長に待っていてくれるような相手ではない。

 メタルクラブが、その巨体に見合わぬ素早さでアレックスに向かって走る。機体が変形し、その名にふさわしい大鋏を出現させてアレックスへと突き出す。

 鋏がアレックスの身体に届くかに思われた瞬間、機竜の巨大な前脚がそれを受け止める。メタルクラブも巨体ではあるが、アレックスの方が二回りは大きい。そのまま前脚を薙ぎ払うように振るうと、メタルクラブは部屋の端まで弾き飛ばされた。

 部屋の壁に叩きつけられるかと思われたメタルクラブは、何もない空中で急速に速度を落としたかと思うと、膝の屈伸も活かして軽やかに着地を決める。

 機械とは思えない見事な運動能力であったが、それを見越していたように、着地地点の壁や天井から無数のアームが生えてくる。丸鋸やドリルで武装された機械の腕は、それぞれが蛇のような素早い動きでメタルクラブへと襲いかかった。バラバラに分解され、細かになった部品がぶつかり合い、激しい金属音と共に床へと折り重なり落ちていく。

 後に残ったのは――無傷のメタルクラブ。その周囲には、原形がわからないほどに破壊されたアームの残骸が散らばっていた。

 戦闘の一部始終を見ていたアグノラだったが、メタルクラブの攻撃の瞬間を見ることができなかった。しかし、メタルクラブがアレックスに弾き飛ばされた時、キラリと光る糸を飛ばして、その勢いを殺したところだけは辛うじて目に捉えることができた。


『これは、カーディフ支部で開発中のはずの単分子鋼糸か。メタルクラブだけでなく、不死鳥騎士団から盗んださまざまな技術を使っていると見える』


 そう言うアレックスの左前脚はいつの間にか切断され、綺麗な斬り口からは血液のように蒸気が噴出していた。

 この世に存在するありとあらゆる物質は原子同士が結合することで構成されている。仮に原子同士の結合を切断できるほど細く、頑丈な刃物が存在するとすれば、物体の硬度に関わらず、あらゆる物を切断することが理論上可能になる。

 それを実現したのが、不死鳥騎士団カーディフ支部パープルウィングで開発された単分子鋼糸だ。メタルクラブの大鋏は見せかけのブラフ。目で捉えることすら難しい極細の糸を操り、防御不可能の斬撃を見舞うことこそが本命だ。

 メタルクラブが節足を大きく広げて、糸を飛ばす。ドールであるアグノラであっても、意識して観察してようやく捉えられる極細の糸。初見でなくても、回避は至難だろう。

 まして、巨体であるアレックスにはなおさら回避は不可能。かといって、単分子鋼糸の攻撃に対して防御は無意味。迫る無数の鋼糸がアレックスをバラバラに引き裂くかと思われた瞬間、機竜の口から白い閃光が放射された。

 機竜の口から迸るのは白い炎――ではない。熱で白く輝くタングステン融解液だ。一般的な炎は二千度程度だが、タングステンの融点は約三千四百度。金属の中で融点がもっとも高いタングステンの融解液は、極細の単分子鋼糸を容易く溶かす。

 鋼糸を焼き払った白い閃光は、そのままメタルクラブへと迫る。メタルクラブは素早くそれをかわしたが、閃光にかすった節足の一本が熱で変形していた。

 一射だけで、室内の温度が跳ね上がる。この場に人間がいれば、余波だけで焼け死んでいたかもしれない。ドールであるアグノラは、あまりの熱気に眼球を焼かれながらも、その身を包む粘菌ギアに守られて踏みとどまる。


「なんて、戦い……。これが不死鳥騎士団の守護竜ですか」


 室内であるが故、周辺被害を恐れて放射は短時間で終わったが、これが外での戦闘なら今ので決着がついていただろう。

 しかし、格上の相手であっても、メタルクラブに戦意喪失の様子は見られない。熱変形で動かなくなった節足を切り落とし、八つの瞳に炎を宿らせる。節足の切断面からは黒い粘菌が溢れだし、周囲の金属を取り込んで再生し始める。

 生物非生物の違いはあれど、その修復方法には見覚えがある。アグノラは息を飲んだ。


「あれは粘菌ギア? どうして……」

『当然、私がドールであるからに決まっているでしょう。おまぬけなアグノラさん』


 メタルクラブから機械音声が流れる。声は音声振動機が作り出した人工的なものであったが、アグノラは聞き覚えのある口調に目を見開く。


「その口調……まさか、レナ!?」

『なるほど、ドールの時計を部品として取り込み、人工知能の代わりとしているわけか。どおりで運動能力が高いわけだ』


 納得したようにアレックスが頷く。機械である彼に動揺という感情はないが、アグノラは変わり果てた元同僚の姿に驚きを隠せない。


「レナ、どういうことですか!? なぜ、あなたがそんな姿に……」

『アグノラさん、貴方のせいに決まっているでしょう』


 機械が生み出す声にやや怒りを込めて、メタルクラブ――レナが言う。


『私は貴方に敗れ、時計男チクタクマンに見限られた。だから、メタルクラブの実験体として、こんな醜い身体に変えられてしまったのですわ』


 怒りに声を震わせているが、アグノラはその声の中に隠しきれない恐怖があるのを感じた。あのプライドの高いレナが、恐れを抱いているなど信じらない。


『あの男は悪魔……決して逆らってはいけない存在。私はこの任務に成功して、元の身体を取り戻してみせる。邪魔をするなら、貴方にも容赦しませんわよ』


 直後、単分子鋼糸が生み出す無数の斬撃が、天井を引き裂いた。崩れ落ちてくる瓦礫を目くらましに、単分子鋼糸が縦横無尽に振るわれる。

 灰鉄の機竜による応射。しかし、金属すら溶かす高温と言えど、無数の瓦礫を一瞬で消し飛ばすことはできず、瓦礫の間を縫って迫る単分子鋼糸の斬撃に身体が刻まれていく。

 無差別攻撃による暴虐の嵐。それらは凄まじい奔流となって、アグノラにも迫った。


「アグノラ!」


 強い衝撃とともに、アグノラは誰かに突き飛ばされる。紙一重で単分子鋼糸の軌道から脱し、アグノラは無傷で済んだ。

 しかし――


「クライド、さま?」


 倒れたアグノラが目線を上げると、自分を守るようにして立つクライドの背中が見えた。その背中に、定規で書いたような線が走ったかと思うと、その線を境として二つに分かれた少年の身体が床に崩れ落ちた。

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