第22話 決別

「……あまり贅沢は言いたくないが、もっとましな侵入経路はなかったのか?」


 口元を覆った布越しですら我慢が難しい臭気に、マルヴィンが辟易とした声を上げる。

 ゴンドラの舳先に吊るされたガス灯が、墨を流したような水路の水面を橙色に照らし出している。竿を刺しているアグノラも無表情ながらもどこか不愉快げで、この空間では口を開くのも嫌だというように無言で小舟を進める。

 ガス灯が照らし出す水路は湿り気と腐臭に満ちており、そこかしこから繋がっている支流が汚水を垂れ流している。どこかから聞こえてくる蒸気機関の音が反響し、生物の体内のようで不気味なことこの上ない。


「なぁ、さっきから適当に曲がりくねっているようにしか感じないんだが、これ、本当に第十三収容区画に繋がってるのか?」

「レコードの内容が正しいなら、そのはずです。さっきから同じ場所をぐるぐる回っているような気もしますが、たぶんあっています。根拠はありませんが」

「実に頼りがいのある言葉だな、おい」


 現在、地上は警戒網が布かれており、そこから不死鳥騎士団施設にばれずに侵入することは不可能に近い。ロンドンにはラスティ小隊を含め、十名以上のドールが常駐しており、それらと真正面から戦うことは自殺行為だ。

 だからこそ、アグノラたちは地下水路から、クライドが捕らえられている第十三収容区画に忍びこむことにした。

 蒸気機関の駆動には大量の水が必要であり、同時に大量の排水も生まれる。蒸気機関の発達とともに、ロンドン地下には排水用の水路が縦横無尽に張り巡らされた。

 どれだけ優れた技術を持とうとも、蒸気機関を主動力とする以上、排水が生まれることは避けられない。それはロンドンの心臓部と言われる第十三収容区画も例外ではなく、水路のどこかと繋がっているはずだった。

 とはいえ、蜘蛛の巣のように張り巡らされた水路の中から、第十三収容区画に繋がるものを見つけるのは藁山の針に等しい。レコードの中身を見ていなければ、考え付かなかったルートだろう。それゆえに、不死鳥騎士団の裏もかけるはずだ。

 現に、長い時間、水路を彷徨っているが、ドールの姿も憲兵の姿も見当たらない。楽な道のりではないが、ルートさえわかっていれば確実だ。


「間違っても汚水に身体をつけないでくださいね。ドールならともかく、普通の人間であるあなたが入ったら、破傷風か感染症で死にますよ」

「……頼まれたって入る気はねえよ」


 正体不明の漂流物が次々と流れていくのを見ながら、マルヴィンはうんざりしたように言う。敵と会わなくても、長時間いれば気が狂いそうだ。

 臭いや暗さのせいもあるが、どこまで行っても同じような景色が心を削る。地下水路の複雑さはロンドン市民なら誰もが知るところであり、頼れるものがアグノラの記憶しかない状態では不安になるのも仕方のないことだった。

 ふと、アグノラが竿を動かす手を止めて、周囲を見渡し始めた。


「おい、どうした? まだ目的地に着いてないだろ?」

「……いえ、もう着いてるはずなんですが、どこかでルートを間違えたかもしれません」

「はぁ!? こんなところで立ち往生なんざ冗談じゃないぞ!?」

「その点はご心配なく。近くまで来ていることは間違いありません」


 そこかしこから吐き出される排水が水面を打ち、水しぶきを上げる音。それらが地下水路内を反響する中、アグノラの耳は別の音を捉えた。


「なんで、そんなことが断言できるんだ」

「それは――」


 突然響き渡る怪獣のごとき蒸機駆動音。枝分かれする水路の一つから、水上を猛然と疾駆する鉄塊が飛び出してきた。


「待ち伏せされていたからです!」

HeehhHaahhヒーハー!!」


 先端が鋭利な刃物に改造されている水上蒸機駆動機バイクを操りながら、赤毛のドール――フラビカが突進してくる。

 アグノラはマルヴィンを片手で掴むと、水路脇にある整備用通路に飛び移る。背後で、水上蒸機駆動機の衝突を受けた小舟が、真っ二つに砕け散って汚水の川に沈んだ。

 追撃に備えて蒸機剣を抜いたが、フラビカはすぐに方向転換して、別の水路へと消えてしまった。水路で船を失ってしまったアグノラたちはまな板の上の鯉。ヒットアンドアウェイでじっくりと仕掛けてくる腹積もりのようだ。


「……二度目の警告だ。武器を捨てて降伏しろ。アグノラ」


 整備用通路の奥から、機械腕のドール――ラスティが姿を現す。その背後には、両手に一つずつ棺桶を持つセルマもいる。


「……よくここから来るとわかりましたね」


 蒸機剣を構え、機械腕の少女と対峙する。相手もまた、拳闘の構えを取り、両者の間に緊張した空気が流れた。


「ピクシーの直感だ。おまえも知ってるだろうが、あいつはいろいろな意味で鼻が利く」

「そのピクシーの姿が見えませんが?」

「紅茶がまずくなるから、ここには来たくないそうだ」

「なるほど」


 この状況で嘘をつく理由もないので、本当のことなのだろう。ピクシーの性格を考えれば、そのていどの気まぐれはいつものことだ。さもありなんとアグノラは頷く。


「……いやいやいや、納得するなよ! 感覚麻痺してないか、おまえら!?」

「ピクシーですから」

「ピクシーだからな」


 ドールたちの間ではその一言で十分だった。妖精なんて所詮幻想、いると思っている方がバカなんですとでも言うように、ピクシーの存在をなかったものとして扱う。一人納得のいかないマルヴィンは「俺がおかしいのか?」と不満げに呟いた。

 ただ、このあたりはドール同士の気心というものもある。

 ドールはみな、ブライトン支部のロドニー博士の手によって作られ、同じ場所で戦闘訓練を受けた姉妹のようなもの。その後、不死鳥騎士団の各支部にばらけたが、支部が違ってもほぼ全員が顔見知りだ。

 特にブライトン支部とロンドン支部は地理的に近い位置にあることもあり、合同で任務につくなどの交流も深い。それぞれの性格もよく把握していた。


「まぁ、実のところ、おまえと戦いたくないというのが本音だろう。やりたくないことはのらりくらりとかわす奴だからな。……本音を言うなら、私とて戦いたくはない」


 拳闘の構えを崩さないまま、弱音を吐くラスティ。

 ついこの間まで味方同士だった者との敵対。互いに思うところがないわけではない。そのことに迷いが生じるのはアグノラだけではなく、ラスティも同じということだ。


「ラスティ……」

「だが、私はピクシーほど器用じゃない。小隊を預かっている責任もある。誰かが汚れ役をやらねばならないなら、私は仲間を討つこともためらわない」


 まだ話し合いの余地があるかもしれない。そう思って言葉を紡ごうとしたアグノラを、ラスティは初動で否定する。自分は決して、自分の意思を曲げるつもりはないと。


「アグノラ、おまえはどうだ? おまえがこの先に行くつもりなら、それは我々と敵対するということだ。この場を乗り切ったとしても、いつかかつての仲間を殺さなければいけないこともあるだろう。おまえにはその覚悟はあるのか?」

「…………」


 クライドを助けに行くということはそういうことだと、ラスティは改めて突きつけてくる。自分自身で答えは出したつもりだったが、実際に敵対することとなった彼女を前にすると、決意が揺らぐ。


「(ラスティ、あなたは優しい人ですね……)」


 ラスティは答えを急かすわけでもなく、アグノラの返答を待っている。仲間を討つことをためらわないというなら、この問答は何だというのか。

 きっとこれが最後の説得の機会だとわかっているのだろう。ここで決別すれば、もうお互いに殺し合う以外の選択肢は残されていない。だから、不器用で口下手な彼女なりに、必死にアグノラを説得しようとしている。

 迷いは、ある。

 不死鳥騎士団での思い出は、辛いことも多かったが、楽しいことだってたくさんあった。今の世界において、不死鳥騎士団が必要な存在であるということも理解している。自分の行動が本当に正しいことなのか否か……きっとこれからも何度も悩むだろう。

 だけど――


「ごめんなさい、ラスティ。私は貴方たちの元へは戻れません」


 かつて、ある人に、一番大切なものを守るために、二番目を切り捨てることは悪いことかと問うたことがある。

 自分が正しいことをしているのかどうか、自分でもわからず、迷い続けている。だけど、その人は迷うことが悪いことだとは言わなかった。だから、私は迷い続けよう。答えを出すことができず、自信を持つことができなくても、それでも前に進み続けよう。

 彼女は真剣に問うた。だから私も、真剣に悩み続けよう。


「バカモノ、謝るんじゃない」


 アグノラの答えに、ラスティは心底残念そうに目を閉じる。だが、すぐに目を見開いて、アグノラを見つめ直し叱責した。


「付き合いの長い我々ではなく、新しく出会った男の元へと行くのだ。ならば、それがおまえにとって一番の道だと胸を張って行け。そうでなければ、許さん」


 姉妹に送る最期の言葉。ここからは敵同士だという決意を込めて送る。


「長話が過ぎたな。そろそろ殺し合おうか、我らの愛しき敵よ」

「えぇ。さようなら、私の愛しい姉妹」


 蒸機剣の撃鉄が上がる。杭打ち機に蒸気弾が送り込まれる。水上駆動機の蒸気機関が高らかな音を上げる。棺桶の隙間から熱い蒸気が排出される。最初に動いたのは誰だったか。その場にいた4体のドールは、それぞれの武器を手に敵へと肉薄し――




 ――瞬間、地下水路の天井が轟音と共に崩れ落ちた。

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