第15話 軍団

 卵と肉が腐ったような臭いが漂う毒沼の平原。僅かに頭の出ている幹の残骸が、かつてここが森の中であったことを示している。

 蒸気文明発達の代償。蒸気と鋼鉄で守られた『シティ』の住人が便利で煌びやかな生活を送る一方で、このような人が住むには適していない土地が数多く存在していた。ここには獣ですらめったに近づかない。

 そんな生き物の気配がない場所で、一匹のトカゲが沼から腐った木の上へと上がってきた。トカゲは真っ白いアルビノで、頭が二つある突然変異種だ。この土地に適合した生物であっても、毒性から完璧に逃れることはできない。大抵はこのトカゲのように、何らかの変異を持って生まれてくることがほとんどだ。

 ここを住処にするトカゲであっても、沼の毒素は辛いようで、木の上で身体を休めている。だが、突然沼の中から伸びてきた手が、トカゲを掴んで捕まえる。

 沼の中から現れたのは全裸の少女。下半身が失われており、腸が腹から零れ落ちて長く伸びている。上半身も片腕しか残っていなかったが、彼女は明らかに動いており、捕らえたトカゲを生のまま口に放り込むと力強く噛み砕いた。


「……タンパク質が足りませんわ。嫌なところに落ちてしまったものですわね」


 それはアグノラの攻撃を受けて、飛空艇から落とされたレナだった。

 彼女がトカゲを飲みこむと、体内の粘菌ギアがそれを分解し、レナの血肉へと変える。粘菌は肉体の損傷を修復してくれるが、無から有を作り出せるわけではない。失った肉体の分は、相応の栄養を摂取する必要がある。

 だが、不幸中の幸いで、時計クロックは破壊されていないので、ドールである彼女の命に別条はない。再生に時間がかかるだけだ。レナはより多くの栄養を取るため、もっとたくさんの生物がいる場所を目指して片腕だけで移動を開始する。


「(とはいえ、傷が癒えたとしても、クライドさまを確保することはもう叶いませんわね)」


 こうしている間にも、飛空艇はロンドン・シティに向かっているだろう。『シティ』の中に入られてしまうと、奪還は極めて困難になってしまう。

 外敵から街を守るため、『シティ』は要塞化されている。鋼と蒸気機関で幾何学的に囲まれた街並みは、街というより一個の機械だ。レナとて、容易に潜入することはできない。

 加えて、不死鳥騎士団の各支部には、四人一組三チームフォーマンセル・スリーチームのドールが配属されている。その中でもロンドン支部は、敵味方双方から怪物と恐れられるドールが一体いる。自信家のレナであっても、あれと戦うことだけはごめんだ。

 大変業腹だが、クライドは諦めるしかない。彼を連れ戻すと豪語しておきながら手ぶらで帰るなど恥だが、レナは絶望していない。失敗は別の成果で打ち消せばいいのだ。

 当面、どうやって『闇に蠢く者どもナイアーラトテップ』と連絡を取るかが課題だったが、それを考えながら這い進むレナの鼻先に、綺麗に磨かれた靴先が現れた。

 ぞわりと背筋が粟立つ感覚を覚えながら、レナは上を仰ぎ見る。禿頭眼鏡に紳士服。沼地の中央に立っているにも関わらず、服にも靴にも泥跡一つついていない。驚き目を見張る少女に対して、時計男チクタクマンは笑顔で慇懃無礼に一礼して見せた。


「やぁ、レナくん。こんなところで出会うなんて、奇遇だねぇ。君も夜の散歩かい? だが、いくらお転婆だからと言って、泥まみれになるのはいかがなものかな?」

「……相変わらず、減らず口を」


 皮肉を言われていることを理解し、レナは歯を噛みしめる。

 だが、彼女の胸中を占めるのは、嫌いな男の前で虫のように這いずっている屈辱よりも、武器も持っていない現状に対する心細さの方が上だった。この不気味で得体の知れない男を前で無防備であることは、裸で虎の前に放り込まれることと同義だ。


「クライドさまの回収は失敗に終わりました。……私はアグノラさんを甘く見過ぎていました。えぇ、自らの過失を認めましょう。あの子は私が思うほど弱くありませんでしたわ」


 内心の恐怖を押し隠し、レナは任務の失敗を告げる。時計男チクタクマンは作り物めいた笑顔を顔に張り付けたまま、小首を傾げた。


「おや、意外だ。私はてっきり、彼女に対して悪態の一つでも吐くかと思ったんだが」

「予想外の事態が続いたとはいえ、アグノラさんは私を退けたのですのよ? 例え偶然であったとしても、私が無能な人に負けるわけがないでしょう」


 プライドの塊のようなレナらしい論理に、時計男は作り笑いではなく、くつくつと心の底から楽しげな笑い声を上げる。


「あぁ、君は本当に冷徹で自己中心的だ。君にとって、自分以外の存在はすべて取るに足りないものなんだろう。だが、自分以外をフラットに見ているからこそ、公平に平等に評価を下すことができる。見たところ、クライドくんにも随分気に入られたようだ」

「……なんのことですの?」

「おやおや、気付いていないのかい? 君はさっきから、クライドくんのことをで呼んでいるってことに。君は、彼に正体を教えてもらったのだろう? それこそが、彼に気に入られたという証拠さ」


 指摘を受けて、レナはしまったという顔で口元を押さえる。どうやらアグノラと同じで無意識の言動であったようだ。

 それを隠していたことに対して、時計男は腹を立てるどころか、むしろ嬉しそうな顔で何度も噛みしめるように頷いてみせた。


「なるほどなるほど。それは重畳。では、クライドくんが持っているについても何か聞かされているかな?」

「レコード?」


 記録レコード? いや、円盤レコードか? レナには何のことかわからなかったが、聡明な彼女はここまで手に入れた情報から推論を組み上げていく。直後、一つの結論に至り、稲妻に打たれたように身を震わせる。


 ――記憶処理が施されたドールたち。

 ――彼が手に入るなら、ドール百体を引き換えにしても構わない。

 ――『闇に蠢く者ども《ナイアーラトテップ》』を信用するな。


 ……

 レナはぎりりと歯を食いしばり、時計男を睨みつける。ドール百体分の価値? 適当なことを言ってくれたものだ。自分の推論が当たっているとすれば、クライドの価値は

 しかし、熟練の兵士すら震え上がらせるレナの睨みも、時計男にはどこ吹く風だ。やはりこいつは好きになれないと改めて確認し、少女は吐き捨てるように言う。


「残念だけど、聞いたこともありませんわ。そして、クライドさまは今ごろロンドンに到着している頃合いでしょう。レコードなるものが何であれ、もう手出しはできませんわ」


 元不死鳥騎士団ドールとして、絶対の自信を持って断言する。

 時計男がいかに得体の知れない力を持っていようと、要塞化されたロンドンシティの、その中でも特に厳重な不死鳥騎士団フェニックスロンドン支部グレーウィングに連れて行かれたクライドを奪還することなど不可能だ。

 だが、そんなレナに対して、時計男は芝居がかった仕草で、大袈裟に残念そうに首を振る。行動の一つ一つが人の神経を逆撫でする男だ。


「あぁ、確かに残念だよ。まさか、レナくんともあろうものが、そんな弱気になるなんて! 自信満々に輝いていた君はどこへ行ったんだい?」

「自信と無謀はまったく別の意味ですのよ? あなたはわかっていませんわ。ブレインに統括されているシティに、秘密裏に潜入するなんて――」

「誰が秘密裏に潜入するなんて言ったんだい?」


 タイミングを合わせたように、大きな地響きと蒸気機関音が鼓膜を震わせる。

 地べたに這いつくばって視点が低くなっていたレナは直前まで気付けなかったが、いつの間にか見上げる位置に8つの鬼火が浮いていた。蒸気を撒き散らしながら見下ろしてくるそれが、何か巨大な怪物の瞳だと気付くのに時間は要さなかった。

 怪物の背後から、ガス灯を灯した蒸気トラックが複数台、沼地の泥を撥ねながら近づいてくる。トラックも十分大きいはずだが、怪物はそれすらも二回り以上上回っていた。

 トラックは時計男とレナの傍で止まると、中から鳥の嘴のような仮面を被った、対毒装備の集団が降りてきた。毒沼で活動するための装備だろう。みな、蒸気機関銃を装備しており、列車を襲った連中とは比べ物にならない錬度の高さを伺えた。

 さらにその後ろからは、大型蒸気機関砲を搭載した多脚戦車や装甲車などが続く。『シティ』でもそうそうお目にかかれない大部隊に、レナは目を見開いて呆然となる。

 小柄な鳥仮面の兵士が一人近づいてきて、時計男に敬礼を取る。他がカラスを思わせる形状なのに対し、その兵士だけはツバメに酷似している。加えて、燕尾服に近いデザインの。おそらく部隊長と思われるその人物が口を開く。


「チクタクおじさん。準備完了、全部隊集結しましたさぁ」

「御苦労さま、スワローくん。時間に正確なのは良いことだ」


 ツバメ頭の声は高く、若い。仮面の下を見るまでもなく、ドールだ。虎の子のドールを投入していることから、レナは彼らの本気具合を察する。

 こいつら、正面から不死鳥騎士団に喧嘩を売りに行く気だ!


「えぇっと、この子はどうするのさぁ?」


 レナを放置したまま、トラックに乗り込もうとする時計男に対し、スワローは少し困った声で聞く。そこで忘れていたという様子で、時計男が振り返る。


「あぁ、そうだった。彼女――えぇと、名前は何だっけ? とにかく、は例の玩具に活用してくれ。無能でも、多少は役に立つだろう」


 その発言内容に呆然となるレナを、スワローが片腕で持ち上げた。


「ちょっ、何をする気ですのっ!? 離しなさい!」

「ごめんねぇ。私もおじさんを怒らせたくないのさぁ」


 抵抗の声は時計男にも届いたはずだが、なおも抵抗し、彼はまるで彼女はもう存在しないかのように、ゆったりとトラックの座席に身を沈ませる。


「圧倒的な技術力を持つ『シティ』は、幾度かテロリズムに遭ったことはあっても、外壁を破られたことのない乙女レディだ。諸君、今こそ不敗神話に終止符を打ち、力づくで蹂躙されたが、どんな悲鳴を上げるか聞いてみようじゃないか」

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