孤独のトリップ

山原倫

第1話

 冷え切った滝水はヨツヤの頭を芯から冷ましてくれる。濡れた前髪を搔き上げ、滝から頭を離した。

 滝といってもそれほど大きなものではない。岩間から静かに湧き水が染み出し、小さな沢へと流れ落ちている。ヨツヤは深く空気を吸い込んだ。森の緑によって浄化された空気は、滝水で明晰になった頭を一層落ち着かせてくれた。さらなる鎮静を求めて、ヨツヤは瞑目し、森の声声に耳をそばだてる。

 流水の音色、鳥の歌声、草木の騒めき。それらがヨツヤの脳髄にこびり付いた染みを洗い流してくれる。しかし、一度付いた染みはなかなか落ちてはくれない。眼球に嵌め込まれたレンズを、身体に刻印された入れ墨を落とし切ることは、もはや不可能に近い。記憶は既にヨツヤの一部分となっているのだから。




 遠い昔の記憶。それはヨツヤにとっての感覚的な認識に過ぎない。実際のところはそう遠い過去の話ではない。一般的な時間感覚で語れば、世界の終わりでさえつい最近のことなのだ。

 だがよく言われるように、新しい経験をすればするほど体感としての時間は長く感じられるものだ。事実、ヨツヤもその例には漏れなかった。

 ヨツヤは、林立する樹木の中を一人歩いていた。雄々しく立派に突き立った樹木たちは、どれも女の脚のように真っ直ぐに、空に向かって伸びていた。枝葉は遥か上空に生い茂り、太陽の恵みを我先にと奪い合っている。

 そのため地表には陽光がほとんど届かず、じめじめとしてある種の生物には住みよい環境となっている。朝食を腹に詰め込んだ後のヨツヤは、食べられるものはないかと目を皿にして森の中を探していた。

 最初に見つけたのは食料ではなかった。しかし、それを視界に捉えたヨツヤは、本当にそれが自分の思っているものかを確認するために、足を速めた。肉薄して疑義が払拭され、思い通りのものだと確信ができると、ヨツヤは喜ぶより先に足を止めた。

 この慎重さこそ、ヨツヤを今まで生かしてきたもののひとつだった。ヨツヤは腰に取り付けてあるナイフを手に取ると、ゆっくりと音もなく近づいていった。




 軋む音を立てて、まるで風に吹かれでもしたようにひっそりと扉が動く。右手にナイフを持ち、警戒心を保ちながら、ヨツヤはその小屋に足を踏み入れた。

 人の姿はない。こぢんまりとした部屋には、最低限の家具だけが揃えられていた。テーブル、椅子、ベッド。この部屋には似つかわしくないガスコンロ。天井にぶら下がった電球に灯りはついていない。ヨツヤは、ひとまず現状の危機はないと判断し、安堵する。

 微かな床の軋み。

 瞬時に背後へ振り向き、ナイフを構える。

「おい、止してくれ。少ない残りもん同士だろう? せめて仲良くしようぜ、兄ちゃん」

 男は空いている左手を宙に上げ、無理に笑顔を作って見せた。ヨツヤは男をまじまじと観察した。顔には年季の入った皺がいくつか見受けられ、髪は短く、少し白髪が混じっている。しかし決して年老いているようには見えず、筋肉質な身体や人懐っこそうな顔立ちには、若者には負けないエネルギーを秘めていることを感じさせる。

 ヨツヤは、それでもナイフを下ろさなかった。

「オレはここで安穏に暮らしているだけだ! 危害は加えない!」

 ヨツヤはそれを聞き、僅かに逡巡した後、慎重にナイフを下ろした。男は安心したように、今度は本心から破顔した。男は右手に持っていた鹿の死骸を床に横たえると、ヨツヤに座るよう促した。雌鹿の交接器からは白濁した粘液が垂れていた。

「久し振りの人間だ。歓迎するよ」

 男は、水を入れた手鍋をガスコンロで火にかけながら言った。

「さっきはすみません」

「いやいや、若いのになかなか肝の座った兄ちゃんだ。オレの名はミフネ、よろしくな」

 ミフネと名乗った男は、ヨツヤに向かって手を差し出した。

「僕はヨツヤと言います。よろしく」

 そう言って、ヨツヤはミフネの手を握り返す。

「あんたも、現れなかったのか?」

 向かいの椅子に腰を下ろしながら、ミフネは尋ねた。

「ええ、まあ」

「お互い難儀なこったな。オレも妻と娘とは離れ離れになっちまった」

「ここに、住んでいらっしゃるんですか」

「ああ。もう長いことな。昔は町の方に住んでいたんだが、食いもんが尽きちまって。今はこうして自給自足で生活してんのさ」

 ミフネは湯が沸いたことに気がつくと、火を止め、ポットに移し替える。しばらくすると、ヨツヤの前にコーヒーが湯気を燻らせて運ばれてきた。

「ありがとうございます。コーヒーなんて久し振りです」

「そうだろう」と、ミフネは自慢げに答える。

「ガスボンベが?」

「ああ。いつまで持つか知れたもんじゃないがな」

 言いながら、ミフネはコーヒーを啜る。

「兄ちゃん」と言いかけて、ミフネは言い直す。

「ヨツヤ君、あんたはどうやって生活してるんだ?」

「僕もミフネさんと同じです。あちこち廻りながら、その日暮らしの生活を」

 何事か思案するように、ミフネはマグカップを両手で包んで持つ。

「……お節介かもしれねぇが、よければここで暮らさないか? 喋り相手もいねぇし、ここで出会った縁だ。どうだ?」

「ミフネさんがよければ、是非」

 ミフネは少し驚いたように固まる。

「風呂はドラム缶だが、いいか?」

「お風呂に入れるだけでも大満足ですよ」

「……ベッドはひとつしかないが、いいのか?」

「構いません」

 ミフネは一気に緊張を解いて吹き出した。

「ははっ、面白い奴だよ、あんた」




 食欲をそそる芳しい香りが、部屋中に隙間なく充満していた。鹿肉の燻製や、レタスと水菜と人参で作られたサラダなどが食卓を鮮やかに彩っている。

「今日は大盤振る舞いだ」

 ミフネはそう言いながら、グラスに酒を注いでいる。

「いいんですか? こんなに」

「いいんだ、今日はちょうど一頭仕留められたしな」

 二人は互いにグラスを軽くぶつけ合い、夕食に手を付け始める。暫くぶりの肉と酒に、ヨツヤは舌を鳴らした。

「燻製にすると保存が利くんだよ。酒にもよく合うだろう?」

「ええ、おいしいです」

 ミフネは胸を張り、自慢げに頷いた。

「この野菜は?」

「裏の畑で作ってる。素人にも育てられる簡単なものばかりだがな」

 言ってミフネは薄く笑う。ミフネは、幾分躊躇うように間を取る。決心して、ミフネは切り出した。

「訊きたかったんだが、君の今までの人生はどんなものだったんだ? 人並みの人生を送っていて、君のような人間にはなりようもない気がするんだが」

 言い終わってから、慌てて取り繕うように付言する。

「気を悪くしないでくれよ。若くしてのその度胸や寛大さはどこから来るのかと気になっただけだ」

 幾ばくかの沈黙を置いて、ヨツヤは口を開いた。

「そうですね、普通人があまり経験しないことの一つか二つは経験しているかもしれません。例えば僕が小学生の頃、目の前で強盗に母を殺されたことなんかもその一つです」

 あまりにあっけらかんと言ってのけるので、ミフネは暫し呆然としていた。しかしすぐに気を取り直して、言葉を継いだ。

「すまない……。辛いことを言わせてしまって」

「いえいえ。全然。自然の条理ですからね」

 ヨツヤは鹿肉を一切れ口へ運び、うまそうにモグモグと咀嚼する。




 玉子を焼くいい匂いが鼻腔をくすぐった。

 混濁した意識は次第に冴えてくる。起き掛けに太陽の光が眩しい。

「お目覚めか? お姫様」

 ヨツヤが見ると、ミフネがガスコンロの上でフライパンを操っていた。未だはっきりしない頭で、ミフネをぼうっと眺めている。

「もう朝飯ができるぞ。とっとと服を着ろ」

 言われてヨツヤは、不承不承といった程でもそもそと裸のまま起き上がり、近くにあった服を手に取った。ミフネの服だった。




 玉子にはサイコロ状にカットされたじゃがいもとベーコンが入っており、ちょうどホットケーキくらいの大きさに丸く焼かれている。そこにケチャップをかけて、ピザの塩梅で切り分ける。

「いつもこんなに豪華なの?」

 玉子を口に運びながら、ヨツヤは尋ねた。

「まさか」とミフネは失笑する。

「卵なんてどれだけ貴重か。こんな食事は今朝だけだ。昼からはずっと質素になるぞ」ミフネは意地悪く笑った。




 太陽は高く昇り、陽光が木々のわずかな間隙から射し込んでいる。微風で洗濯物がなびく。それは、昨日ヨツヤが着ていた服だった。

 そのヨツヤは、両手に斧をしっかと握って振りかぶっていた。狙いを定めて、一気に振り下ろす。長閑に静まり返った森の中、気持ちのいい音が鳴り響いた。薪がさらに二つの小さな木片に割れる。次は別の薪を置き、また同じように振りかぶる。

 そのパターン化された一連の動作を、彼は暫時しげしげと見つめていた。見惚れるように、或いは妬むように。見られていることにヨツヤは気がついていたが、そのことをおくびにも出さなかった。

 彼は、やっと口を開いた。


────レン


ヨツヤは手を止めた。


────レン、一緒に行こう。


ヨツヤは再び薪を手に取り、振りかぶる。

「いい加減しつこいぞ、ナナオ」

薪の割れる音が響き渡る。


────……ここに留まることに、何の価値があるんだ。こんな、終わりを待つだけの世界に。


また別の薪を取る。


────肉体の喪失が怖いのか。


────そんな牢獄、棄ててしまっていいんだよ。何も死ぬわけじゃないんだから。


薪が二つに割れる。


────……どうして棄ててしまわないんだ。


────…………。


────あの男のせいか。


────あの男がいるから


 斧はびゅんと風を切り、近くの樹木に勢いよく突き立った。

「俺に構うな。帰れ」

 ヨツヤは何もない中空を鷹のように睨め付けた。


────…………ぼ、くは……。


────………………。


────……わかった。


────ただぼくは、いつでも君を


「帰れ」

もう一度、強い語調で言う。

ヨツヤはまだ同じ中空を睨んでいる。


────……うん。


────帰るよ。


────…………じゃあね。


「どうした?」

いつのまにか背後にミフネが立っていた。ヨツヤが睨んでいた場所には、代わりに斧が突き刺さっている。

「……いいや、手が滑っちゃって」

ヨツヤは斧の刺さった樹木の方へ歩いていった。




 ヨツヤの前に置かれた昼食は、今朝より随分と質素なものになっていた。もし、とミフネがいきなり切り出した。

「天上の使者が現れたら、ぜひとも連れて行ってもらいたいもんだ」

 脈絡のなさにヨツヤは少し戸惑う。それを察してか、ミフネは付け足した。

「てっきり、使者と話していたのかと思った」

「そんな訳ないよ。僕だって……」

「そりゃあそうだよな。オレやお前みたいに、運悪く乗り損ねた奴らはみんなそう思ってるだろうよ」

「怖くは、ないの」

「少しはそう感じることもあるが、地上の生活とは比べるべくもない」

「地上の生活とは?」

 ヨツヤは皮肉っぽくその言葉を強調した。

「過敏なんだよ。お前も一緒に来ればいい話だろう?」

「じゃ、奥さんと娘さんに挨拶しないとね」

 ミフネは苦笑した。

「駄目な父親だな、オレも」




 この世界に、あらゆる妨げとなり得るものはもう何一つ残っていなかった。秩序も、道徳も、共同体も、その機能を失いつつあった。だが、それこそ最初期では、人々は抑圧からの解放を存分に味わっていたようだが、いずれはまた跳ね返りがやって来るだろう。

 未成熟な世界を象徴するように、月は真っ暗な闇の唯一の光源としての役割を果たしていた。夜空に手をかざすと、指の間から月光が漏れて、ヨツヤの肢体を青白く照らした。

 仰向けに窓の外を眺めているヨツヤを、肩肘を立ててミフネが見つめている。そして、もう何度目かも知れない接吻を頰にする。

「違う人間に見える。最初会った時とは」

そうかな、とヨツヤが回頭する。

「人間らしくなった」

「初めは人間じゃなかった?」

 淡く笑みを浮かべる。

「超然としてる感じだったな」

「幻滅した?」

「お前のそういうところにはな」

 ヨツヤは笑みを崩さないままに、言った。

「生き方が変わった気はするよ」

 ひとつ呼吸を置く。

「増えたのかな」

 言葉を揉み消すようにほとんど間を置かず続ける。

「君はどうなの。変わったのかな、生き方とか。動機とか。いろいろ」

「さあな」

 ミフネは反対側へ寝返りをうつ。

「……娘さんと、奥さんのことは」

 ミフネの大きな背中は、コンクリートの壁のように二人の間に聳えて立っていた。

 月光は闇夜に映えて、窓をすり抜けてベッドの上に注いでいる。




 何度も何度も繰り返し迎えた朝。太陽はいつもの通りに煌々と輝いている。森の動物たちも自然のサイクルに従って、活動を始める。

 ヨツヤはやっと床から立ち上がることが出来た。ヨツヤが目覚めてから、もうかなりの時間が経過していた。しかし、部屋の中の時間は止まってしまっていた。もう随分以前から。

 肩の上下は徐々に治まりつつあった。ゆっくりと息を吐き出し、精神の平定を図ろうと努力する。少しずつ、少しずつ。最後にもう一度だけ、大きく息を吐いて、自分を鼓舞する。

 しゃがみ込み、ミフネの両脇に手を差し込む。ズルズルと床を引き摺る。苦難して、ミフネの身体を持ち上げて、ベッドに寝かせる。

 ミフネの身体に肩のあたりまで布団を掛けてやる。死に顔に表情はあまりない。強いて形容するなら、安堵に似た表情だったかもしれない。

 ミフネの残ったに、静かに覆い被さった。ヒヤリと温度が伝わって、無愛想で虚ろな死がそこに決然と横たわっていた。ヨツヤは初めて、暴力的なまでの死を感じた。そこにミフネはもういなかった。

 時間をかけて決意を固め、愚図つかないよう努力して、ヨツヤは踵を返す。扉の方へ足を進める。

 すると机上に、三つ折りにされた紙が几帳面に置かれていることに気がついた。足は知らず速まる。何が書いてあるのか、ヨツヤには大方見当がついていた。

 扉が古めかしく軋む音を立てた。




 それは諦めというよりは、受容とでも呼ぶべきものだった。

 滝水に濡れた髪はまるで凍りついたようで、水気を含んだ岩はじわじわとズボンを湿らす。水がひどく冷たい。ポケットに手を突っ込むと、紙が手に触れた。まだ読んでいない。ミフネの遺書、とでも言うべきなのだろうか。

“何も死ぬわけじゃない”

 旧友の声が蘇る。しかしヨツヤにとっては、現実感覚として死と限りなく同義だった。文字通り、現実の感覚として。今ではその感覚も時の彼方に希釈されつつあり、ヨツヤ自身は取り除こうとするよりもむしろ、己の一部分として受け入れるという考えに至れるほどには精神的な余裕が生まれつつもあった。

 ヨツヤはもう一度ポケットに手を入れた。




 枯れ枝が乾いた音を立てて折れる。足下には柔らかいスポンジのような腐葉土が敷き詰められている。積年の生命の歴史書が、ヨツヤの真下に積み重なり、一つの大いなる土台を成り立たせていた。書物の頭上をしっかと踏みしめて、ヨツヤは歩を進めている。天上の目は見ている。だがもう、声をかけない。

 ヨツヤは孤独な旅を続ける。

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