第十六報 降霜
結婚したマキシムは新居にローズと移り住んだ。屋敷から奴が居なくなって少々寂しくなったことは絶対内緒だ。
秋はあっという間に終わり、王都に長い冬が訪れようとしていたその頃、マキシムは再び西端の国境付近に派遣されることになった。
普通既婚者は送られないのだが、今回ばかりは人手不足でどうしようもなかったらしい。今までも遠征の度にブツブツ文句を言っていたマキシムである。
「俺ももう結婚したんだから王都に落ち着きてぇんだよ……とほほ」
新婚ほやほやだというのに彼には同情を禁じ得ない。
「兄上、俺の留守の間ローズが仕事し過ぎないように見張っておいてください。あいつはただでさえ息抜きが必要なのに、俺が居ないと本宮に寝泊まりしそうな勢いですから」
「分かっているよ」
「あくまでも先輩として、義理の兄としてですよ」
「あったり前だ!」
確かにローズは新人文官として仕事に燃えている。しかしそれと同時に彼女も一部の同僚たちとの人間関係で苦労しているということを俺は少し耳にしていたのである。
父親は天下の副宰相、その上無駄に女に人気のあるマキシムと結婚したとあらば、やっかむ馬鹿共の気持ちも分からないでもない。しかしだからと言ってローズに嫌がらせをしてもいい訳はない。
マキシムがそのことを知っているのかどうか、ローズは彼には絶対秘密にしておきたいようなので、俺にはそれを弟に告げる権利はない。
マキシムは辞令が出されてたった一週間で西端の街ペンクールに発って行った。新婚の妻を一人残してさぞかし後ろ髪を引かれる思いだったことだろう。
案の定、ローズはマキシムがいない間何かに取り憑かれたように仕事に打ち込んでいたようだった。
王都も雪に覆われて、年末が差し迫ったある日、俺はソンルグレ副宰相のお宅に夕食に呼ばれた。
ローズはもう落ち着いたのだから当て馬君たちも必要ない筈だ。今度は妹マルゲリットに若い文官をあてがおうとしているのだろうか。俺はもう勘弁してほしかった。
「やあ、ティエリー良く来てくれたね」
「お招きありがとうございます」
どうやら招かれたのは俺一人のようだった。夕食の席には家族全員、副宰相夫妻とローズの兄ナタニエルと妹のマルゲリットが居た。俺は夫妻の向かいに座り、俺の隣はナタニエルでマルゲリットは母親の隣である。
マルゲリットは母親似で華やかな見た目の美人である。同じ金髪でもカトリーヌは艶があると言うのが相応しいが、マルゲリットは清楚系だ。
紹介された時から思っていたのだが、姉のローズよりもずっと人目を引く容貌なのに何となく気配がないというか、存在感がないというか、そんな感じだ。と言って内気なわけでも全然喋らない訳でもないのだ。まあそんなことはどうでもいい。とにかく第二の当て馬作戦でもないようだった。
「マキシムさんもお留守で寂しいでしょうに、ローズも我が家にもっと顔を出せばいいのにね。全然来ないのですよ」
「結婚したからには実家に入り浸るのにも遠慮があるのでしょう。あいつはそういうところは頑固ですからね」
「マキシムが遠征に行ってからやっぱり元気がなくなったみたいで心配なのだけどね、僕がローズの職場に様子を見に行くわけにもいかないし……」
ローズは父親が大物すぎるから、職場でも最初は同僚達がどう接していいか分からなかったようだ。ローズだってコネで就職したわけでもないし、努力家で謙虚な姿勢で仕事に臨んでいるからだんだん周りとも打ち解けてきてはいる。
とにかく、食事は和やかな雰囲気のまま何気ない世間話をしただけで終わった。食事の後、ナタニエルとマルゲリットは自室にひきとり、俺は副宰相と奥方と三人で居間に移動した。
俺は奥方に蒸留酒を勧められ、遠慮なくいただいた。夫妻はお茶を飲んでいる。
今夜は俺一人がどうして呼ばれたのか未だに謎だった。こうして世間話をするだけのためではないだろう。
「副宰相、お仕事の方は順調ですか?」
「うん。それでも少々人手が足りなくてね、結構忙しくしているよ」
「特に年末は残業が増えるのもしょうがないですわね。私もそうですわ」
「それでね、クリストフさんの下にもう一人配属しようと思っているのだよ」
昔副宰相はそのクリストフ・サヴァンさんと連名で奥方の元夫を告発したのは俺も知っている。クリストフさんは確か副宰相の後を継いで補佐官に就任していた。
「そこまで人手が足りていないのですか?」
「どう、ティエリー、宰相室で僕たちと一緒に仕事をしてみる気はあるかな?」
「え、私ですか?」
まさか俺にそんな打診が来るとは思ってもいなかった。文官で上を目指す者なら誰もが憧れる宰相室勤務である。
「うん。他でもない君だよ。先に本人の希望を聞いておこうと思ったからね」
「はい、願ってもない異動です。是非私にやらせて下さい」
そう答えた瞬間に、宰相室に移るともうカトリーヌに毎日会えなくなるという考えがよぎった。かと言って、こんな機会を逃すのも非常に惜しい。
俺の目の前の夫妻はお互い何か楽しそうに目配せをし合っている。そこで俺は思い出した。ローズの結婚式で夫妻は俺に確かこう言った。
『君が異動して彼女と毎日仕事で顔を合わせなくなったら告白もし易いのじゃないかな?』
『まあそれは名案ね、アントワーヌ』
その時はからかわれているだけと思った俺だが、副宰相はこの類の冗談を言う人間ではないのだ。
「君から良い返事をもらえて僕も嬉しいよ。正式な辞令を出して君をすぐにでも引き抜くとしよう」
俺の表情を読んだのか、夫妻は益々楽しそうな笑顔になっている。
「ティエリーさん、おめでとうございます。私も応援しています。頑張って下さいね」
「健闘を祈るよ」
全く、ウィンクまでされてしまい、副宰相には敵わないな、と改めて思い知らされた。
俺は高揚感でいっぱいだった。この気持ちの高ぶりは宰相室で仕事が出来る期待よりも、近くカトリーヌにちゃんと求愛する決意によるものである。
***ひとこと***
リュックの弟、クリストフさんもアントワーヌ君の片腕として順調に出世しております。
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