第十四報 月夜


「なるほどね。では折角君が舞踏会に来ているのだから……」


 俺はそこでカトリーヌの体を離し、彼女の前でうやうやしく頭を下げてダンスを申し込んだ。


「カトリーヌ・クロトー様、私と踊っていただけますか?」


 カトリーヌと踊る機会なんて今を逃したら次はもう無いに違いない。


「はい、喜んで」


 断られなかった。カトリーヌが俺と職場で気まずくなりたくなくて義理でそう言ったのだとしても、自然と頬が緩んでしまう。


 彼女の手を取り、大広間のダンスに加わった。彼女が俺を見上げて微笑んでいる。こんな至近距離に彼女の顔があり、しかも胸の谷間もチラチラと盗み見できる。俺はもうそれだけで幸せだった。


 曲はあっという間に終わってしまった。


「疲れていなければもう二、三曲一緒に踊りませんか?」


「ええ」


 こんなに魅力的な彼女をこの舞踏会の野獣の群れの中に放り出せるわけがない。もう少しだけの間、俺の腕の中に閉じ込めておきたい。曲のリズムも少しゆっくりになり、俺達の体はますます密着した。


 これが最初で最後の機会かもしれない。


 俺は明日からも戦えそうだった。




 至福の時はあっという間に過ぎるものだった。つまらん会議は永遠に続くように感じられるというのに。


 カトリーヌは俺と踊り終わったらすぐに叔父さんと叔母さんを探しにでも行くのかと思ったが、飲み物をもらってどこかに座ろうかと提案するとついてきた。彼女ともう少し一緒に居られる。


 俺達が南側バルコニーの前を通ったその時、そこに空いたテーブルと椅子があるのを見つけた。


「そこに座れるよ」


 カトリーヌと二人きりになれると思うと俺は有頂天で周りが見えていなかったのである。


「そ、そこはよろしくないですわ、ガニョンさん」


 彼女が何故か慌てて反対している。俺と二人でバルコニーに出るのが嫌なのだろうか……下心はない、とは言えない。もちろん大いにあるに決まっている。


「どうして? 何をそんなに焦っているの? おいでよ」


 カトリーヌがその細い腕で俺の身体を押し返そうとしている。何故彼女がそんなことをしているのか分からないが必死な様子が何とも可憐だ。そんな押し方では俺はびくともしないぞ。


「クロトーさん?」


 どうやら俺と二人でバルコニーに出るのが嫌なのではなくて、俺に外に出て欲しくないようだった。


「だって……あそこ……ローズさんと弟さんが……」


 ああ、なるほど納得した。


「もしかして私のこと、ローズという恋人を弟にとられた気の毒な男だと思っている?」


「そうではないのですか?」


「あーあ、君にそんな誤解をされるのだったら、こんな損な役回り引き受けるんじゃなかったよ、全く!」


「損な役回り?」


「うん。弟がね、ローズのことを愛しているのにいつまでもフラフラモタモタしているのが悪いんだよ。私は当て馬第一号ってわけだ」


「私はてっきりガニョンさんはローズさんとお付き合いされているものだとばかり……歌劇場でも目撃されて噂になっていて、それに何と言ってもお二人はお似合いですもの」


 ローズと一緒に歌劇を観に行ったことまで知られていたとは……当て馬作戦は弟の恋を大いに前進させた。が、俺の方はかなり後退していたのである。


「いや全然……別に私はローズに横恋慕もしていないし……君にそこまで勘違いされていただなんてちょっと落ち込むね……」


 カトリーヌは俺を憐れんでくれていたのだ。心配そうな顔だったのが笑顔に戻っていた。


「で、そこの角で弟はローズに不埒ふらちな行いを働いているわけか……どれどれ?」


「もうガニョンさんったら、口付けされているだけですわ!」


 カトリーヌにたしなめられた。


 君のその自然な微笑みなんだよ、俺がいつも見ていたいのは。




 その後、そろそろ宿舎に帰るというカトリーヌを送って行くことにした。


「ガニョンさん、私なら大丈夫ですから。この春に宿舎への通路に灯りが沢山設置されて夜中でも随分と安心して歩けるようになったのです」


「そんな、一人で帰る女性を放っておけるはずがないじゃないか」


「でも、ガニョンさんはまだここにお残りになりたいのではないですか?」


 カトリーヌ、君が帰ってしまったら俺は舞踏会なんて何の用もないのだよ。


 彼女を送って行くことは決定だ。そして彼女はまだ会場に残るという叔父さんと叔母さんに挨拶をして俺達二人は大広間を出た。


 会場を出た途端に彼女が俺の肘に添えていた手を離したので、思わずその手をしっかりと握った。よ、良くやったぞ、俺。このくらいならいいだろう。灯りがあるとは言っても夜道だからな。


 彼女は少々ためらっているようだが、俺の手は払いのけられなかった。誰かに見られて困ることでもあるのだろうか? 俺は全然困らない。


 西宮の宿舎なんて歩けばあっという間だった。もうすぐお別れの時間だった。あの規則の厳しい宿舎の扉は送り狼もストーカーも閉め出してしまうのだ。


 宿舎の少し手前で俺の歩みはゆっくりになりそして止まった。俺はカトリーヌと向かい合う。今までこんな長い間二人きりになったことはなかった。何か言わねば……


「ねえ、クロトーさん」


「はい」


「……つ、つき(付き合って下さい!)……今夜も月が綺麗ですね」


 月明かりと通路の松明たいまつに照らされたカトリーヌの顔を目前にして俺は大事な台詞が言えず、間抜けな言葉にしかならなかった。彼女は一瞬目を見開いた。


「ええ、夏の月は涼しさを感じられますね」


 言ってしまってから気付いた。弟の娯楽本か何かで読んだことがあった。月が綺麗と言うと『愛している』という意味にとる人間もいるそうだ。愛の言葉が直接的過ぎるかららしい。


 まどろっこしいことをする人種もいるもんだ、とその時は鼻で笑っていたものだが、今の自分はどうだ、愛しているとも付き合おうとも肝心なことが言えずにうじうじしている。


 カトリーヌは特に気付いた様子はなかった。俺はそんな言葉遊びはどうでもいいのだ。いつになったら俺はきちんと彼女に愛の言葉がささやけるのだろうか……




***ひとこと***

ティエリーさん……折角ローズとの熱愛疑惑が晴れたというのに……やっぱり貴方も意味分かって言ってたのじゃなーぁい! 肝心な決めるところで、全く!

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