第九報 春茜


― 王国歴1049年冬-1050年春


― サンレオナール王宮




 年の瀬も押し迫ったある朝、カトリーヌに遠慮がちに聞かれた。


「ガニョンさん、あの、色々お世話になったお礼を何かしたいのですが、何がよろしいでしょうか?」


 お、お礼だと? 俺はゴクリと唾をのみ込んだ。欲しいものはもちろん色々あるぞ。


『まず君にパフパフして欲しい、生でなくてもドレスの上からでもいいから! そして熱烈なベロチューがしたい。未だにまとわりついているあのモルターニュの唇の感触を君の唇で上書きしてくれ! いやもちろん君が俺に全てを捧げたいって言うのなら大歓迎に決まっている。そして二人手に手を取り合って婚姻許可証を……』


 俺の心の奥底からの声は、外面だけは寛容で面倒見のいいガニョン室長補佐の声によりかき消された。


「パ、いや、ベ、……別に何でもいい、と言うよりそんな気遣い無用だよ」


 それでも職場に、爽やかガニョン君の仮面に合わないような卑猥な言葉が出て来そうになって不自然にどもってしまった。


「そんなことおっしゃらずに、ガニョンさん。それでも私もあまり高価なものは手が出ませんけれども……」


 君自身が俺にとっては値千金なんだ、君が手に入るなら他には何も要らない、カトリーヌ。


「うん、だから気にしなくてもいいのだよ。君が安心して過ごせて、仕事の能率が上がることが重要なのだから」


 言うに事を欠いて何ぬかしてんだ、俺の口はよぉ! こんな言い方をしたら俺が仕事のことしか考えていない人間にとられるじゃねぇか……俺はしばらくまた落ち込みモードだ……




 カトリーヌからは年末の市で買ったというコーヒー豆を貰った。


「あの、本当にささやかなもので申し訳ありません。どういったものがお好きなのか分からないので、ほんの気持ちです。お口に合えばいいのですけれど……」


「その気持ちだけで本当に嬉しいよ。ありがとう」


 カトリーヌは俺のために何を買えばいいか迷いに迷って無難なコーヒーにしたに違いない。沈み切っていた気分も少しは上昇した。


 そのコーヒー豆の袋は俺の部屋に大切に保管し、休みの日などに厨房に行き、自分で挽いて淹れるのが習慣になった。最初は使用人に大慌てで止められたものだった。


「若旦那さま、何をなさっているのですか! コーヒーなら私たちがお淹れしますから、どうぞ居間でもお部屋でもお寛ぎになっていて下さい!」


「仕事の邪魔をして済まないが、これだけは誰にも触らせられない。豆の挽き方から教えてくれ」


 カトリーヌのことを想いながらコーヒーを一人飲んでそれが密かな楽しみだなんて、根暗なムッツリだとでも何とでも言うがいい。


 あまりに俺がこのコーヒー豆に執着しているのを見た使用人の一人はコーヒーかすの再利用法まで教えてくれた。


「若旦那様、コーヒーをお淹れになった後の粉は消臭剤として使えるのですよ。乾燥させて布の小袋に入れてお部屋にお持ちしましょうか」


「そうなのか? 色々と物知りなのだな。是非頼む」


「ため〇てガッ〇ン系の知恵なら私詳しいですよ!」


「???」


「いえ、まあ、消臭剤として役目を終えたら肥料として土に混ぜて使えるのですよ」


 その使用人はそこまで教えてくれたのだった。


 自分の部屋で一人、コーヒーの淹れかすの袋に頬ずりしながらカトリーヌのことを考えている俺を非リア充の変態とでも何とでも呼ぶがいい。





 年が明ける前に再びソンルグレ補佐官から連絡が来た。毎月の定例議会で提案した王宮内の灯りの設置が議会の承認を得て、予算も下りることになったそうだった。


 ただの口約束でなく、本当に実行してくれたのである。しかも雪解け後すぐに工事を始められるように口添えもしてくれた。議事録の簡単な写しまで俺に送られてきたのである。


 彼は口先だけでなく有言実行の人だ。ただ、敵に回すと非常に怖い。




 そしてサンレオナール王都は再び春を迎えた。そんなある日、同僚のエリックが愛しのカトリーヌにちょっかいを出しているのが耳に入ってきた。


「カトリーヌちゃんは今度の舞踏会に行くの?」


 夏の初めに王宮で王太子殿下の生誕祝いが開かれるのだった。俺は彼女を誘いたくてしょうがないが、どう言い出せばいいのか分からずに悶々としていた。


 エロックのヤローはこんな軽いノリで会話を始めている。しかも馴れ馴れしく彼女をカトリーヌちゃんなどと呼ぶのだ。耳に障ってしょうがない。


「いいえ、私は行きませんわ」


「第二王子殿下がそろそろ花嫁探しモードに入っているって噂だよ、カトリーヌちゃんも十分可愛いのだから名乗りを上げたら?」


 王子だろうが国王だろうが、俺のカトリーヌはやらーん!


「いえ、そんなとんでもないです」


「じゃあ俺がカトリーヌちゃんをエスコートしてあげようか?」


 何だと? 何でそんな、昼食を一緒に食べに行こうよ、みたいに気軽に誘えるんだ?


「……えっと、私にはもったいなすぎるお話ですわ」


 カトリーヌ、賢明な判断だ。俺は安心で一気に脱力した。


「あっそう、残念だなぁ……」


 エロックの野郎、全然残念そうに聞こえねぇし。俺はカトリーヌに断られたら落ち込んで一週間は寝込みそうだ。それよりまず、誘いの言葉も掛けられずにいる情けない男なのだ。




 その頃からソンルグレ補佐官から彼の屋敷に招待されることが多くなった。こんなことは今までなかった。俺だけではなくて他の若手文官も同時に呼ばれている。


 仕事の後に彼の屋敷にお邪魔して、雑談や議論を交わして夕食をいただくだけだ。俺には補佐官が何か企んでいるような気がしていた。深読みのし過ぎではない。彼は意味もない行動はとらない人だということは良く分かっている。


 俺が初めて訪れた時には家族全員を紹介された。そして何回か屋敷にお邪魔するうちに彼の思惑が何となく読めてきた。俺が思うに、補佐官はどうも長女のローズに若い文官を当てがおうとしているようなのだ。


 彼女は父親の後を追って今秋王宮に高級文官として就職が決まっている。補佐官の家族の中でもローズだけはそれ以降、俺や他の文官達が顔を出す度に父親に促されて同席していた。


 俺も最初は弟の想い人候補という意味で興味を持ち、ローズと良く話すようになっていた。やはり父親に似たのだろう、彼女は特に自分からひけらかすことはないが、勤勉で知識も豊富だった。




***ひとこと***

さて、アントワーヌ君が動きましたね! この後ティエリーさんは彼の駒として……

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