第二報 みぞれ
ティエリーは押さえつけていたジョゼに一発蹴りを入れ、ジョゼは地面にのびてしまいました。
ガタガタと震えている私にティエリーが手を差し伸べて立たせてくれました。荷物も拾ってくれます。
「大丈夫? あそこで別れず、君を宿舎まで送っていけば良かったかなと思って追いかけてみればこんなことになっていて……」
「あ、ありがとうございました、ガニョンさん」
「怪我はない? 医療塔に行く?」
「いえ、大丈夫です」
ジョゼに殴られた頬はまだ痛かったのですが、大したことはありません。
学生時代、私はジョゼに目をつけられていました。王都に屋敷のない我がクロトー男爵家です。私が居候していた家でおじさんとおばさんの留守を狙っては襲われていたのです。
何とか貞操は守り抜いたものの、学院在学中はその家で耐えるしかありませんでした。ですから就職が決まるとすぐに王宮の宿舎に入れてもらえる手続きをしたのです。
「可哀そうに……宿舎まで送っていくよ。歩ける?」
「はい……」
私は一番見られたくない人にこんなみっともない場面を見られてしまいました。ティエリーは私のことをあんな下衆と知り合いの身持ちの悪い女だと決めつけたことでしょう。
彼に女として見てもらえないだけでなく、軽蔑されるまでになってしまいました。仕事には関係ないと自分に言い聞かせます。彼はきっと私の存在なんてそこまで重要視していないでしょう……悔しくて惨めで最低な気分で部屋に戻りました。
明日も仕事です。泣きはらした目で出勤するわけにはいきません。目の周りと、ジョゼにぶたれた頬を冷やしました。明日の朝は目立たなくなっているようにと願いました。その夜はろくに眠れませんでした。
翌朝鏡に映った私の頬は少し腫れて、唇も少し切れていますが、それほど目立たないので誰も気づかないでしょう。目も腫れていません。あんな人間のために流す涙は私にはもう残っていません。
「私は大丈夫、大丈夫……」
昨晩から
普段の私は始業の二十分前くらいには席に着いて仕事が始められるようにしています。他の同僚が来る前に、少し早めに出勤するティエリーと二人きりの時間が持てるからなのです。
そうは言っても朝の挨拶を交わすだけで、後は私がこっそりと彼が書類に目を通したり新聞を読んだりする姿を見て幸せに浸っているのです。いつもは楽しめていたその二人だけの空間も苦痛でしかなく、今朝はぎりぎりの時間に出勤しました。
執務室に入る前に大きく深呼吸をしました。昨日あんなところを見られただけで、ティエリーの後輩として仕事をする分には何も問題はないわ、と言い聞かせました。
彼は私のことをもう純潔なんてとっくの昔に散らしている
「皆さんお早うございます」
何事もなかったかのように、軽く微笑んで執務室に入りました。ティエリーは席に居ませんでした。その朝は会議でもあったのか、彼は昼前に執務室にやってきました。そして彼は自席に着くなり何故か私を呼びました。
「クロトーさん、ちょっと」
「は、はいっ……」
驚いて椅子から飛び上がりそうになりました。
「先日のこの書類についてなのだけど……」
慌てて席を立ち、ティエリーの机に向かいます。
「クロトーさん、今日は無理して出勤しなくてもよかったのに……」
彼の席は皆と少し離れているので、小声で話していると周りにはまず聞こえません。本音を言うと昨日のことを蒸し返して欲しくありませんでした。
「そんな、休むだなんてとんでもないですわ。ご心配をおかけして申し訳ありません」
「でも……頬も腫れているじゃないか、もしかしてあいつに殴られたの? 今からでも医療塔に行く?」
上手く化粧で隠したつもりでしたが、そんなに目立つのでしょうか。
「……こんなこと、何でもありませんから……」
学生の頃、あの親戚の家に居候していた時に比べると今の環境は天国です。
「そう……私に出来ることがあったら何でもいいから言って。遠慮しなくていいから」
『出来ること何でもですか? 一度でいいから抱いて下さい、恋人になって下さい、結婚して下さい、なんて無理難題言いますよ……そんなこと軽々しく口にするものではありませんわ』
そんな趣味の悪い軽口が叩ける気分ではありません。私は力なく微笑んで頭を下げました。
「ありがとうございます。そのお気持ちだけで充分です」
次の朝から私は普段通りの時間に出勤するようにしました。いきなりティエリーを避けるような、あからさまな態度は取りたくありませんでした。
私に出来るのは、何事もなかったように仕事に励むことだけです。
事件から数日経った日の朝、ティエリーから小さな紙切れを受け取りました。
『渡すものがあるから昼休みに私に声を掛けて下さい』
私が先日提出した書類の直しでしょうか。でもそれなら昼休みまで待つ必要はありません。そしてお昼になり、他には誰も居なくなった執務室で彼からそれを渡されたのです。紐の着いた銀色の小さな笛でした。
「もしも君の身に危険が迫るようなら、この笛を吹きなさい」
私の掌に収まるその小さな笛の様式には見覚えがありました。
「この笛は……もしかして魔法がかかっていますか?」
学院では文科で学んでいた私も、魔術理論などの魔術科の科目も取っていたのです。他にも物語などで読んで見知っていました。
「うん。笛の音で人の気を引けるし、魔法で君の身が守られる筈だよ。でも私としてはこの笛の出番がないことを願うばかりだ」
「こんな貴重な魔法具、私が持っていて宜しいのですか?」
「もちろんだよ、君の安全のためだ。私も心配だしね」
ティエリーはこの笛をどこで入手したのでしょうか。魔法具など大金を積んだからと言って簡単に購入できるものではありません。王国に数名しか存在しない高級魔術師が魔力を込める魔法具は大量生産できないのです。
「ここを
私は美しい細工のなされたその笛を愛でて、首にかけてドレスの中にしまいました。
「ウグッ……」
ティエリーが何かにむせたのでしょうか、
「どうかされましたか?」
「いや、何でもないよ……」
この笛は初めてティエリーから贈られたものとして、その魔力が失せたとしてもずっと私の宝物です。彼が私のことを気遣ってくれているというその証拠品を、ドレスの上からぎゅっと握りしめるのがその時から私の癖になりました。
「それから、あのけしからん男は配属替えになったそうだ。王宮ではもう働いていないから顔を合わせることはないよ」
先週の出来事なのにもう異動とは驚きました。ティエリーが私を助けてくれた時、ジョゼに名前を言わせていましたがそれが今回の異動と関係があるのでしょうか。とにかく私は王宮内でもう彼の姿に
「まあ、そうだったのですか……」
***ひとこと***
ティエリーさんはカトリーヌの為に色々と手を回してくれているようですね!
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