1.冬地夜安と冬地朝日

季節は八月。真夏の炎天下、夕方でも構わずに騒ぎ立てる蝉の音。


「暑ィ....」


冬地夜安とうちやあん。二十三歳。彼は一児の父親である。

白いシャツ、黒いネクタイ。長袖のそれは腕の半分まで捲られている。

黒色の髪は直射日光を浴び、今にも溶けてしまいそうだ。


「あち!あち!」

「おー、あーたも暑いか。もうちょっと待ってくれな、家まですぐだからよ」

「あい!」


ベビーカーに座りながら笑う息子は、冬地朝日とうちあした。二歳。

毎朝出勤前に保育園に息子を送り出し、帰りは仕事を切り上げて急いで迎えに行く日々。

仕事と育児と家事全てを並行させる事は、正直楽なことではない。

けれど息子には夜安しかいないのだ。


──母親である、妻が亡くなってからは。


「ぱーぱぁ?」

「....悪い。早く、帰ろうな」


妻は数ヶ月前、通り魔に刺されて死んだ。

即死だった。

血の匂い、赤く染まった白い腕。外された結婚指輪──。

泣き叫ぶ朝日を抱き、周りに救急車を呼ぶ様にと叫び、ほとんど息をしていない妻の名前をひたすら呼び続けた。

通り魔は、未だに捕まっていない。


「....っ、う」

「ぱーぱぁ?」


蝉の鳴き声が響く。夜安の額からは汗がたらりと流れ落ちた。


(あの時から、俺とあーたは二人きりになった。)


犯人を見つけて殺してやりたい、一時期はそんなことも考えた。

けれど夜安は立派な父親として息子と二人で今を生きていくことを決めたのだ。

両親達からに援助を断ったのもそのためだった。

不審者注意。と書かれたポスターが視界に写る。

世間ではこのような事件が相次いでいた。

不審者は絶えずむしろ増え続けており、何故か親子連ればかりが狙われる。

妻のように通り魔に刺され重症を負った者も少なくない。

警察が動いても現状は変わらず─、不穏な空気は拭えていない。


「ぱーぱぁ!いこ!」

焦れを切らしたのか、朝日が夜安に訴えをかける。


「そうだな。悪い。また考えちまった」


けれど朝日のおかげで少しずつ前に進めているのも事実だ。

自分には朝日がいる。笑ってそばにいてくれる、大切な息子がいる。


「ぶーん!ぶーん!」


朝日が前を指差して笑えば母親譲りの茶色の髪が揺れた。

──今度こそ家族を守るんだ。絶対に失いたくない。

気持ちを切り替え再度、足並みを少しだけ早めるため一歩踏み出そうとした──、


その時だった。


「    コろコロ」


突然。

夜安よりも背の高い、フードを被った男がゆらりと二人の目の前に現れた。

家までの小道は、車二台分が通れる程の幅はある。

なのに二人の目の前に立ちはだかり、ゆらゆらと横に揺れながら小言を呟いているようだ。

酔っ払いか?このクソ暑い中手間かけさせんじゃ無えよ。と、彼は心の中で暴言を吐き、不審者を避けそのまま道を進もうと今度こそ足を踏み出そうとする──が、

しかしその瞬間、気付いてしまった。

目の前の男の手元には刃渡り二十センチ程の包丁。

太陽の光に反射したその刃先はキラリと輝いてこちらを見ていた。


「ッ!」


心臓が大きな音を立て、冷や汗が一気に湧いて出て来る。

夜安はすぐにベビーカーの向きを変えて走り出した。


「ぱーぱぁ?」

「悪いなあーた!ベルトはきちんと締めてっからよ!ちょっと走んぞ!」

「キャッ!キャッ!」


状況が読めない朝日はスピードを上げたベビーカーが面白いらしく、手を叩いて笑っている。


そうだ。お前はそれで良い。不安にさせたくない。

いつもなら猛ダッシュでベビーカーを押すことなんて絶対に行わないが、非常事態だ。

早く人通りのある場所に行き警察に通報しなければと夜安は考えた。

この道を五十メートル程進めば、曲がり角がある。更に少し歩けば大通りはすぐだ。

確認のため夜安は後ろを振り返る。男は黙って立ち尽くしたままこちらを眺めていた。

これなら追い付けないはず。夜安は角を曲がった。


「ハァッ、ハァッ!、っ、よし、これで、大丈夫だ」

息を整えながら少しずつスピードを落としていく。


「キャッ!キャッ!キャッ!」

すると朝日が目の前を指差して笑った。


不思議に思い、夜安は汗を拭いながら目の前に視点を戻す。


「んだよ何か変なモンでも....ッ!」


安堵したのもつかの間。

視線を移したその先には、後ろにいたはずのあの男が立っていた。


経験したことのない恐怖に、背筋が凍りついた。


「仕方ねえ!道を変えるぞ!」


焦りながらも夜安は急いで方向を変え逆の道をまた走る。。

何度も後ろを振り返ってもあの不審者はゆっくりと歩いて来ている。

到底追い付く筈なんか、無い。

夜安は動揺しながらもまた五十メートル程走り、住宅街の小道に入り込んだ。


「そこ!そこ!」

するとまた朝日が目の前を指差して何やら叫ぶ。


「!」


今度は二十メートル程先に、立っていた。

嫌な声が響いて、少しずつこちらに向かって歩いて来る。


「クソ!どういうカラクリだか知らねえが、先回りしか出来ねえんだろうが!」


この道はしばらく直線だ。走り切れば撒けるだろう。夜安は目の前の不審者を追い抜いた。

正直、真横を通る際不安にもなったが、猛スピードで過ぎ去ってしまえばこちらのものだ。

男に動く気配は無い。逃げ切れる!

そのまま全速力でベビーカーを押して走ろうとした─次の瞬間だった。


「    ころすよ」


背後から、奇妙な声が聞こえてきた。


急いで後ろを振り返れば、先程まで歩いていた筈の男がものすごいスピード走って来ている。

声が出なかった。

背後から、自分は追いかけられている。彼は瞬時にそう理解した。


「っ、逃げんぞ!」

「キャッ!キャァッ!」


全速力で走ってベビーカーを押す。脳内はパニック状態だった。

息子の名前を何度も呼んで、真っ直ぐ走り続ける。苦しい。息も切れ切れだ。

しかし、朝日は変わりなく嬉しそうに笑っている。


「っ、そういえば、なんで、周りにはさっきから人がいねえんだよッ!」


自分達とおかしな男三人のみが何処かに迷い込んでしまったのか。蝉の声も、恐怖だ。


「ころッごロこロこロぉッ!」

「クソ!近付いて来やがる!」


夜安は必死でベビーカーを押す。汗がダラダラと湧き出て来て、呼吸が乱れる。

全速力で走り続けた身体は限界を迎えようとしていた。

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