第71話 今はもういない兄へ

 僕には兄がいた。

 六つ年上の兄はとても素晴らしい人だった。

 だったというのは今はいないからだ。

 ある日突然その存在が消えた。


 兄はとても穏やかな人で、僕や妹が我儘を言っても癇癪を起しても、その全てを受け止めてくれた。

 自分ではわからない感情の起伏も、兄と話すことで受け入れることが出来た。

 小さな遊びも年下だからと手を抜くこともなかった。

 友達の兄さんたちは年下の弟が勝てるようにと手心を加えていたそうだ。

 でも兄は勝負は真剣にやらなければと決して甘い面を見せなかった、

 そしてその後でどこが悪かったか、ここではどう動けばよかったかと教えてくれるのだ。

 僕と妹にとって、仕事や社交でかまってくれない両親よりも、兄こそが世界の全てだった。

 兄が十才になった時、貴族の子弟の義務として騎士養成学校に入学した。

 養成学校は全寮制で、兄に会えるのは週末の一日だけだった。

 もう一日は兄は婚約者の子爵令嬢と会っていたからだ。


「とても元気一杯の明るくて楽しいお嬢さんだよ」


 兄はそう言っていたけれど、僕も妹も彼女が好きじゃなかった。

 兄がいる時といない時では僕たちへの態度が違ったからだ。

 あの頃はわからなかったけれど、子爵家の三女がかなり格下の騎士爵の嫡男に嫁ぐのを不満に思っていたんじゃないだろうか。

 でなければ婚約者の弟妹にあの態度はない。

 なんで兄があの猫を三百匹も飼っている婚約者に気づかないかと言えば、それは兄の性善説そのままの性格だったからだと思う。

 まっすぐで、人の心の裏を見ることのない、決して人を疑わない兄は、あの女の本性に気づかなかったのだ。


 兄が養成学校を卒業する日が来た。

 彼はとても優秀で学校からは今年の主席卒業生だと知らせが来た。

 優秀な生徒が配属される第一騎士団も夢ではないだろうと。

 当然両親も晴れがましい気持ちで卒業式に出かけて行った。

 だが、その日兄は帰って来なかった。


 何があったのだろう。

 父は言った。

 お前に兄はいない。

 今後はお前が長男だと。

 母は泣いていた。


 秋、僕は騎士養成学校に入学した。

 同級となる子たちの中に、僕を見てニヤニヤする者が数名いた。

 上級生は僕を憐れむような目で見た。

 そして入学式の後、僕は学校長に呼ばれた。

 そこで告げられたのは父に言われたのと同じこと。

 同級生に兄の事を言われたら、自分に兄はいないと突っぱねろと。

 この件に関して何も聞くな。

 何も言うな。

 これは貴族社会の中で決して触れてはいけないことだと。


 学校長の言うように兄についてからからかう者、見下す者、実力行使に出る者が一定数いた。

 だがそんな時は必ず上級生が助けに入ってくれた。

 数人に暴力を振るわれた時は、加害者は騎士にあるまじき行為をしたと放校になった。

 それまでに何度も指導を受けていたから、さすがにもう更生する余地がないと判断されたらしい。 

 まだたった十才なのに、彼らは騎士として奉職する伝手を失ってしまった。


 それからの学生生活、色々と兄関係の、特に元婚約者の話で滅入ることだらけだった。

 兄の親友と結婚はいい。

 だが婚約解消前からの付き合いとか出産とか、裏切り行為ばかりだ。

 だからあちらの評判はダダ下がりで、逆に潔く兄を勘当して仕事に打ち込んだ父の評判はうなぎ登りになっている。

 だが、兄が今なにをしているのかがまるでわからない。

 配属された騎士団に問い合わせてもなしのつぶてだ。

 養成学校の卒業生名簿には兄の名はない。

 その年の主席卒業生には該当者なしと書かれている。

 兄の存在が消されてしまっていた。


 そしてある年、我が家は騎士爵から子爵へと陞爵しょうしゃくした。

 それも下位の従三位ではなく格上の正三位だ。

 騎士の中でも古参と言われ、馬鹿がつくくらい代々真面目に仕えていたことがやっと評価されたのだという。

 寄り親には近衛騎士団の団長が名乗りを上げてくれた。

 新参者の子爵の後ろ盾が公爵家。

 異例中の異例と言える。

 あれよあれよという間に爵位に相応しい屋敷が用意され、公爵家から執事や侍女が派遣されてきた。

 平民とほぼ変わらない生活が、お貴族様へと変貌してしまう。

 家事一切を取り上げられた母は一時期鬱になりかけたし、女学校に通う妹は貴族の礼儀を覚えるために個人授業が増えるし、僕はと言うと若い女性から声をかけられることが増えた。

 その頃になると兄のことはすっかり忘れられていて、あの元婚約者夫婦の醜聞だけが残った。

 そして僕は兄と同じように主席卒業生になった。

 配属先は特に優秀でなければ入団できない第一騎士団だった。

 両親は泣いて喜んだが、僕は兄がどこかでこの知らせを聞いてくれたらと願った。

 


 それから一年が経った。

 妹も女学校を卒業して貴族女性のみの儀式、『成人の儀』に参加することになった。

 必要なドレスなどは寄り親の公爵家からお祝いとして贈られてきた。

 儀式の後に開かれる『春の大夜会』。

 そこで僕たち家族はとんでもない事実を知る事になった。


 まず皇太子殿下のご婚約が発表された。

 お相手は国内全ての女性の中から選ばれたご令嬢だ。

 ご婚約者様もそうだが殿下が公の席に出るのも初めて。

 夜会の参加者は興味津々でご一家が近くを通られるのを待っている。

 陛下方は今年の成人令嬢に主に声をかけられる。

 高位の方々から順番に回られるのだが、通り過ぎられた後になぜかざわざわと囁きあう声がする。


 あれはどちらのご子息でしょう。

 ご一緒されている美しいご令嬢は ?

 

 そんな声が音楽に混じって聞こえてくる。

 そしてご一家がいよいよ僕たち低位貴族の集まる場所に来られた。

 栗色の髪の皇太子殿下と可愛らしいご婚約者様。

 だが、その後ろを歩く男性を見て、僕たちは目を見張った。


「お兄様、あの方は・・・」

「ライ、兄さん・・・」


 養成学校の規則通りにギリギリまで刈りあげていた髪は、長く伸ばされて一つに結ばれている。 

 もっさりとした顔立ちだったのに今はスッキリと洗練されてどこの高位貴族、いや、皇族と言っても過言ではない存在感と気品に溢れている。

 まるで別人。

 でも、僕たちにはわかる。

 あの優しい青い目も穏やかな表情も、行方知れずになった兄に間違いない。


「これは大使。ひさしぶりだな」

「今年も素晴らしい夜会にお招きいただき感謝申し上げます。皇太子殿下のご婚約、おめでとうございます」


 陛下がどちらかの大使からの挨拶を受けている。

 そして皇太子殿下を紹介されていた。

 

「それともう一人、第二皇子のライオネルも見知りおいて欲しい。皇太子が婚約しないのでいつまでも表に出せずにいたが、これからは側近として働いてもらうつもりだ」

「さようでございましたか。お二人の皇子殿下にご婚約者様方。陛下の御代は安泰でございますな」


 第二皇子。

 兄はいつの間にか皇族になっていた。

 兄と同じ金色の髪の美しいご令嬢と二人、幸せそうに僕たちの前を通り過ぎていく。

 頭を下げる僕たちにはその表情は見えない。

 ただ、元気でいてくれた、今はそれだけでいい。

 僕と妹は手を繋いでその後ろ姿を見送った。



 夜会から戻った僕たちは家族の居間に集まった。

 両親はやはりあの第二皇子がライオネル兄さんだと気付いたそうだ。

 そして父が兄を勘当した理由も。


「あの騎士団に配属されるということは、なにかしら大切なお役目をいただくということだ。それを我が家の家格が邪魔をしてはならない。恨まれてもそれだけは譲れなかった」


 父はあの騎士団がただの老人を集めただけのお飾りではないと知っていた。

 だから涙を呑んで兄を切り捨てた。

 いや、自分たちから身を引いたのだ。


「まさかあんな古いしきたりがまだ生きているとは思わなかった。切れ者と噂の皇太子殿下の一人があれだとはなあ」

 

 寄り親からと思われた妹のドレス、あれは兄が用意してくれたものだった。

 また爵位をいただいたときの屋敷の購入なども兄の仕事だった。

 そして執事を通じてもう関わることはないと伝えてきたという。


 我が家の歴史から一人が消えた。

 貴族譜にも記録が残されない。

 第二皇子ライオネル殿下はもうすぐ侯爵家に婿入りする。

 低位貴族の我が子爵家と侯爵家筆頭では、もう巡り合うことはないだろう。


 兄さん。

 ライ兄さん。

 僕たちはこれからも騎士の家柄として帝国に尽くしていくよ。

 父さんやご先祖がしてきた通り、愚直にまっすぐといただいたお役目を全うする。

 だけど、時々でいい。

 僕たちのことを思い出して欲しい。

 僕たちも優しかった兄さんを決して忘れない。

 

 最後に、兄さん。

 結婚おめでとう。

 義姉上とお幸せに。


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これにて完結とさせていただきます。

数ある作品の中から選んでいただきありがとうございました。

少しでも楽しんでいただけましたら幸いです。

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