第8話 伝家の宝刀 ! 満を持して

 アンナによるエリカへの礼儀作法の授業は続く。


「・・・ここまで物覚えが悪いって、エリカ、あなた前世でなにかやらかした ?」

「ひどい。あたしは清廉潔白な専業主婦だったわ。後ろめたいことなんて・・・二か月に一回アメ横の立ち飲みで昼呑みしてたくらいよ。それだって自分のお小遣い貯めていってたんだし」

「・・・主婦として十分犯罪よっ !」

「毎週数千円のランチでママ友会やってる人たちよりはマシでしょっ ! お猪口ちょこ二杯とおつまみ二品に文句言われる筋合いはないわよっ !」


 エリカの教育は遅々として進まない。

 それもこれも、前世は専業主婦で社会の荒波に揉まれていなかったツケである。

 もしPTAの役員にでもなっていたら違ったかもしれないが、数人の子持ちであるにも関わらず、抜群のくじ運の良さで一度も役員くじを引いたことがなかったのだ。

 さらに町内会の役員もくじ引きだったお陰で務めたことはない。

 その代わり年末の商店街のガラガラでは、ティッシュペーパーを大量に取得していたが。

 加えて前世でのエリカは夫婦ともに成人後すぐに両親が鬼籍に入り、なおかつ親戚がおらず、そういった経験を積むことができなかった。

 それはもちろんエリカのせいではないけれど。

 さらにエリカの趣味は読書や映像鑑賞、ゲームと人と付き合う必要がないものばかりだった。

 夫が高額所得者でパートに出る必要がなかったことも災いしている。

 完璧な引きこもり主婦だったのだ。

 自慢できるのはプロの主婦業のみ。


「社会経験不足なのは自覚しているわ。だから、末っ子が高校卒業したら派遣の家事代行サービスで働くはずだったのよ。もう登録も研修も済んでたし。まさか卒業式翌日に脳の血管やられて死ぬなんて思ってもみなかったわよ」

「卒業式の翌日なんて、あなたのお子さんも不幸よね。幸せから急転直下だもの。って、エリカ。こうなったら、わたくしの祖母の奥の手を使いたいのだけれど、よろしいかしら ?」

「おばあさんの奥の手って、何よ」


 孫の手の逆か、と自分の覚えの悪さを棚に上げて不貞腐れるエリカだったが、アンナの持ち出したソレを見た途端顔色を変えた。


「な、な、な、なんでそんなものがここ異世界にあるのよっ !」

「大陸渡りの逸品よ。裁縫道具としてはもう使い道はないけれど、我が家の躾道具として代々伝わってるの。さあ、エリカ。気持ちも新たにお稽古を始めましょうか」


 アンナは手の中のそれをパシンっと鳴らす。


「勘弁して、アンナ。それだけは嫌、怖い !」

「怖くなければ役にたたないでしょう ? これ以上の物はないのよ。さあ、言葉遣いから行くわよ。リピートアフターミー。ごきげんよう」

「ご、ぎげんよー」

「濁音多いっ、語尾を伸ばさない !」


 部屋の中にビシバシと音が響く。


 アンナがもちだしたもの。

 それは、

 鯨尺くじらじゃくとは和裁に使われる物差しで、元々はクジラの髭で作られていたらしい。

 残念ながらアンナの家に伝わっているのは竹製だ。

 その分しなりがすばらしい。

 建築用の尺は30.3センチ。

 鯨尺くじらじゃくの単位は37.9センチ。

 同じ二尺でも鯨尺くじらじゃくの長さは1メートル近く。

 そこから繰り出されるピシっは、相手を恐怖させ従わせるのに十分だ。


「な、なんで今それなの ?」

「気にしちゃダメ。素直に従いましょうね」


 鯨尺くじらじゃく

 ただの物差しではない。

 だらけた時。

 姿勢が崩れた時。

 箸の持ち方が悪い時。

 おいたをした時。 

 鯨尺くじらじゃくが振り上げられる。

 某公共放送の朝のテレビドラマに登場した時、五十代以上の身に覚えのあるご婦人方が恐怖したという逸品。

 エリカも当然だが母からそれで躾けられた。

、戦中育ちの母は竹槍訓練の経験があった。

 鬼畜米英の勢いで問答無用で振り下ろされる鯨尺くじらじゃく

 あれが出てきたら、もう心を空にして従うしかないのだ。

 只々言う通りにしないと、ビシバシ攻撃は止まらない。


「ごきげんよう ! 痛っ !」

「『ご』は濁音、『げ』は鼻濁音。きちんと区別をつけないと下品になるわ」

「鼻濁音の出し方がわからないーっ !」

「鼻から抜くのよ。華麗に、優しく、響かせるのよっ !」


 ビシバシビシバシビシバシ 無限大

 


 結局のところエリカの礼儀作法がアンナの満足する最低限のラインに近づいたのは、それからさらに二週間たってからだった。

 

「もう・・・疲れた。皇太子妃なんて絶対になりたくない」

「よく頑張ったわね、エリカ。あなたの努力には頭が下がるわ」


 とは言ったものの、まだまだ先は長いのだ。

 ここで教育を止めるわけにはいかない。

 皇太子妃になるにせよ一般市民に戻るにせよ、この経験は決して彼女を裏切らない。

 さらに高みを目指さなくては。

 そう誓ったアンナの背には、なぜか鯨尺くじらじゃくが忍者のようにセットされている。

 ちゃんと袋を作って入れてきているあたり、用意周到である。


「・・・思い出したわ。前世のご近所のお兄さんたちが、小さい頃そうやって忍者ごっこしてた」

わたくしもよ。年の離れた兄さんたちが忍者部隊ごっこしてたわ。でも、この先何があるか分からないのよ。準備は必要だわ」


 秘密の地下通路。

 入口脇のスイッチを入れる。

 ボッボッボッと壁のランプ状の物に灯がともる。


「何度見てもきれいね。何の魔法かしら」


 トントンと数段の階段を下りたところで、二人を待っていたのはトロッコだった。


「油はしたし、木製部分は修理したし」

「後はこのレールが途中で断線していないかだけれど、こればかりは行って確認しないとね」


 アンナとエリカは目をあわせるとウンとうなずき合う。


「行きましょう、アンナ」

「ええ、エリカ」


 二人はトロッコに乗り込むと、力いっぱいペダルを踏んだ。



 屋敷裏の家庭菜園に侵入者がいた。


「手入れの行き届いた畑だなあ。そう思わないか、ライ」

「ファー、いいんですか、勝手にこんなところまで来て。まあ、確かによく世話をされていますね」

「畑の草むしりの依頼も随分こなしてきたからな。作物を見る目には自信があるぞ」


 お、雑草発見と抜こうとしたとき、背中にピシリと痛みが走った。


「おい、何するんだ、ライ・・・じゃない ?」


 そこには長い棒を構えた金髪縦ロールと、明るい栗色の髪の少女二人が立っていた。


「人の菜園で何をしてらっしゃるのかしら」

「いや、雑草を抜こうとしただけで・・・」

「それは小松菜の芽よ。雑草ではないわ。あなたたち、どなた ? 王宮の人ではないわね。エリカ、騎士様を呼んできて。不審者発見って」

「ちょ、ちょっと待ってくれ。俺たちは不審者かなんかじゃない」

「ここは、不審者は自分のことを不審者って言わないわ、って言うのがお約束よね、アンナ」


 ライは少女たちに詰め寄られている親友を、どーしよーかなーと頭を掻きながら眺めていた。


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お読みいただきありがとうございます。

次回は一週間以内の更新を目指します。

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