第09話 団欒のひと時
扉を開けると、ガチャ、と思いの外大きな音が立った。
その音を聞いてたら、
何かを訴えたいのは判るが、何も言わないから分からない。無言で軽く首を傾げる。と、絢香はただ玄関の棚を指差した。指先を視線で辿っていくと、そこにはデジタル表示の置き時計が現在の時間を指し示している。
(……そうか、チビッ子達はもう寝てる時間か!)
合点がいった。午後八時過ぎだというのを、すっかり忘れていた。まずい事をしたな、と耳を澄ませる。起き上がってくる物音がしないことから、幸いにも皆ぐっすり寝てくれているみたいだった。
背後の玄関扉をゆっくりと閉じて、出来るだけ静かに鍵を閉める。そうすると、にっこりと笑みが返ってきた。
「おかえり、
「……ただいま」
互いに小声で話す。靴を脱いで揃えると、絢香の方へと足を運んだ。家の中は、外よりも少し冷んやりとしていて過ごしやすい。それと共に、少しスパイシーな香りが漂っている。今日の晩御飯はカレーか。
なんて思っていると、絢香がにやにやとした笑みを浮かべながら、じろじろと僕を見ているのに気づく。
「なんだよ」
「なんだよ、じゃなーい。……あの後、どうなったのよ?」
あの後。最後に絢香を見たのは、『
はぁ、とこれ見よがしに溜息を吐く。
「……どうもなってねーよ。僕を何だと思ってるんだよ」
「えぇー、
ニマニマとした顔のまま絢香はそう言う。どうせ、あれやこれやと良からぬ想像をしているんだろう。全く、親しき仲にも何とやらと言ってやりたい。
「それにしては遅かったねー? 帰り道、大丈夫だった?」
「残念なことに何もなかったし、大丈夫だったよ。……
「なにそれ、羨ましい!」
少し声量を出した絢香にここぞとばかりに口に人差し指を立て返してやると、むっと拗ねたような顔をした。
段々と、カレーのいい匂いが濃くなる。それにつられて、急に空腹を感じはじめた。ダイニングに入ると、
「ただいま帰りました。早苗先生」
「おかえりなさい、七海ちゃん」
視線が合うと、にっこりと笑顔を先生は浮かべた。黒い長髪を今は三つ編みにして背中で纏めている。なんだか見慣れた顔には安心感があった。
「なーなーみー! もっと詳しく話を聞かせなさいよっ」
「今日の晩御飯はカレーよ。……って、もう分かっているかしら」
「玄関まで香りが漂ってましたからね」
「ねぇ、絶対聞こえてるでしょ……!? ちょっと……」
にこにこ、と微笑のまま会話は続けば続くほど、絢香の元から抑えている声のヴォリュームが更に段々と小さくなっていく。はははは、ちょっとした意趣返しだ。
「あ。そうだ、絢香ちゃん」
「何でしょう……っ!」
「悪いんだけど、七海ちゃんの晩御飯の準備お願いできるかしら?」
「うっ……はい、わかりましたよー……」
絢香の喜色満面といった声音が、一転覇気の無いものになる。荷物をコートハンガーにかけながら横目で見ると、若干項垂れるような仕草をしてから、への字口になりながらも用意をはじめた。
色々なことが立て続けに起こったからか、変わらないこの家の空気感が懐かしい。にやっと口角が上がる。
それはさておき、とりあえず洗面所に向かわねば。手洗いうがい、これ大事。手を洗い、口に水を含んで天井を仰ぐ。
「あばばばばばばば……」
風邪予防などの体調管理の面も勿論あるが、こうやって僕や絢香のような年長者がやっていないと子ども達――主に
ぺっ、と一度吐き出して、もう一回。
「あばばばばばばば……」
ぺっ、と口から吐き出す。此れで良し。
タオルで手と口元を拭って洗面所から戻ると、丁度食卓に絢香がカレーの大皿を置いてくれた所だった。
「有難う、絢香」
「どーいたしましてぇー……」
じっとりとした視線を向けてきているが、知ったことじゃない。カレーを目の前に椅子に座ると、カレー独特のスパイシーな香りでとうとう腹の音が空腹を訴えかけてきた。
まだ湯気の立つ熱々のカレールーに、艶のある白米。ざく切りになった人参、ジャガイモ、玉葱に茄子、蓮根とおまけで牛肉、な野菜多めのカレーが家の定番だ。野菜嫌いでもカレーなら渋々食べる、という子どもの心理を突く仕様。まだ食べてないけど言える、
いざ尋常に、両手を合わせて。
「では、いただきます!」
「はぁい、どうぞ」
大き目のスプーンで、ご飯とカレーを半々の割合で掬う。加えて、一番好きなジャガイモを乗せればハズレなしの黄金比。ぱくっと一口。もぐもぐと
「美味い〜……!!」
「七海、ほんとカレー好きだよね」
お子様ね、とでも言いたげな絢香だが、相手にするものか。カレー好きで何が悪い。しかも甘口しか食べれなくて何が悪い。
美味しいものは正義なのだ。
「七海ちゃんはいつも美味しそうに食べてくれるから、作り
そう言いながら、早苗先生は冷蔵庫にラップをかけたサラダボウルを仕舞っている。そっか、キッチンで明日の朝ごはんの仕込みをしていたのか。
にしても、美味しそうに食べている、か。
「そうですかね?」
食事している自分の顔は見たことがないから分からない。そんな事よりもカレーは甘口といえど、香辛料が効いているからちょっとスパイシー。そんな所に病みつきになって、また一口、カレーを口に運ぶ。
「確かに、アンタはいつも幸せそうな顔して食べてる」
「ふーん、そうなんだ」
真向かいに座った絢香が、そう言った。よくわからないけど褒められたんだろう。多分。逆に食事を
また一口。しまった、ご飯の量がちょっと量が多い。頬張るようにして口に入れてもぐもぐとして飲み込もうとした所で。
「そういえば、またアルバイトを始めたと聞いたわ」
「ぬむっ!?」
「七海ちゃん!?」
「おおお、お茶お茶、お茶飲もう七海!!」
飲み込み損ねたカレーの香辛料が、喉でピリピリしている。苦しい、息がしづらい。胸のあたりをどんどんと叩いていると、慌てながら絢香にお茶の入ったコップを差しだされる。ひったくるようにして受け取って、中身をゆっくりと絶え間なく流し込んで飲み干す。
少しずつ詰まったものを嚥下して、ようやく息を吹き返した。
「た、助かったぁ……」
「絢香ちゃん、ナイスフォローね」
「いえーい、褒められちゃった」
一息ついて、絢香がお茶を迷わず差し出してくれたことに感謝する。感謝する、感謝するが、それとこれとは別の話。
(話が伝わるの、早くないか?)
勿論、誰の仕業かだなんて問うまでもない。目の前をじぃ、と見つめる。
「何よ。ぜーんぶ、話したわよ? 悪く思わないでね!」
座り直して足を組んでいた絢香が、ひらひらと手を振りながらしたり顔で笑っていた。こんにゃろう、どうせ
ふう、と諦め交じり溜息が思わず漏れた。視線を先生に移す。
「や、報告が遅くなってすみません……。ちゃんと、僕の口から伝えるつもりではあったんですけど」
「ふふふ、分かってるわ。何やら変わったアルバイトなのよね?」
「……そですね」
微笑を浮かべる先生。視線は再度、幼馴染に自然と向かう。ああもう、腹立たしいほどに何処吹く風な顔をしやがって。
そんなことも話したんか、
駄目だ、気を落ち着かせよう。お茶に口を付けて、ゆっくりと味わって飲んでから、先生に返す。
「……でも為になりますし、面白い仕事ですよ。『
「あらあら、それは良かったわねぇ」
そう言うと、明日の仕込みは先程ので終わったみたいだった。先生は着けていたエプロンを外してテーブルの方まで来る。
「でも、七海ちゃん。告げ口みたいになってしまったけれど、絢香ちゃんを責めたらダメよ」
僕と絢香の間、所謂お誕生日席に座ると早苗先生はふふっと笑みをこぼした。カレーを味わいながら、次の言葉を待つ。美味いなカレー。人参の甘み、煮込まれた牛肉のほろほろとした触感が堪らない。
「またアルバイトを始めたんだって、本当に心配そうにしていたんだから……」
「ちょっ!? 早苗先生!?」
「へぇ、そうなんですか?」
がたんと立ち上がり焦る絢香にしぃー、という声が先生と重なる。それを聞いて、しまった、という顔をしてから、彼女は
「ええ、それはもう」
「……あーもー、私お風呂入ってきます!」
そう言ってすっと立ち上がると、引き留める間もなく絢香は洗面所の方へと逃げるように歩いて行ってしまった。その耳が赤くなっているのに気が付いてしまったのは僕の良くないところというか、何というか。
スプーンをおいて、コップを手に取る。お茶で口の中を一旦リフレッシュしてから僕は尋ねる。
「それで、どんな風に言ってたんです? アルバイトについて」
苦笑混じりながらも微笑ましそうな瞳で、早苗先生は此方を見た。
「『七海がまたアルバイト始めちゃった!
ご丁寧にモノマネ入りで言ってくれた。普段おっとりとしている先生と溌剌とした絢香は似ても似つかない気がするが、モノマネは意外と似てるな。
いや、そうじゃない。本人の手前、悪ノリをしているような調子でさっきは返したけど……よりによって幼馴染の如く一緒に育った彼女に心配を掛けさせるとは、不甲斐ない限りだ。
「心配そうだったわ。魔道具や生活のために働くのは大事なことだけれど、……他の人より、七海ちゃんは頑張り屋さんだから」
「そう、ですかね」
自分が必要とする分は、出来る限り自分で稼ぐ。僕としてはこれが普通の感覚だが、他にとってはそうでもないのだろうか。僕らの中にしか逸話が存在しないように、これもまた人によって、違うのだろうか。
「それは、悪いことではないわ。……けれど、もっと絢香ちゃんや私を、頼ってくれていいのよ?」
黙ったままでいると、早苗先生は優しく頭を撫でてくれた。髪を指で梳くように、丁寧に、何回も、何回も。なんだかちょっと
「心配をかけて、すみません……」
「もう。そこは有難う、でいいの」
「……はい。有難う、早苗先生」
にっこりと出来る限りの笑みを浮かべる。それに先生は満足そうな笑みで返してくれた。
冷めてしまう前に、残り半分。カレーでも何でも食べ物は美味しいうちに平らげるべきという信条を守るべく、スプーンを手に取る。
「明日も仕事なのかしら?」
「はい、十時ごろに伺う予定です」
「じゃあ、朝の間だけでも風太くんたちと遊んであげてもらえる?」
「勿論、そのつもりですよ!」
そこからは、早苗先生と他愛もない話をしながらカレーを食べて。ご馳走様、と言って手を合わせて。
「ふー、さっぱりー」
「絢香」
「何、どしたの?」
「有難う」
「……っ、無理は禁物だからね」
風呂上がりの絢香に御礼を言うと、そう少し照れたような顔で返された。自然と溢れた笑顔と一緒に分かった、と言って。今度は僕がお風呂に入って。
(一日、長かった……)
扇風機のスイッチを入れて、自室のベッドに潜る。もうすっかりお月様は高い所だ。
本当に、色々なことが起こった一日だった。だからだろうか、あんなにも寝ていたというのに横になった途端に瞼が重くなっていく。
(明日は、何が起こるだろうか……?)
ウィーンというモーター音が耳に心地よい。扇風機の風を受けながら、ゆっくりと、意識が、沈んで――。
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