第08話 紅い月照らす
「……ほんと、ですね」
宵闇がそこまでやってきている中、月は
ほとんど今まで一枚
肉眼で、加えて空の下で直に見るのはやっぱり、全く感覚が違う。紅く輝く月は、見ているだけで心がそわそわするような、不思議な感覚をもたらす。
「……怖いかい?」
心配そうな顔を向けて、
そりゃあ、小さい頃から言い聞かせられて、実際に目に見て体感していた逸話だ。ちょっと、ほんの少し、まあ気圧されるような気分だけれど。
「何言ってるんですか」
にっ、と笑みを形作った。
「もう、子どもじゃないんですよ?」
自分が持たざるものの
ふっとまた、人の好さそうな笑みを
「そう、だね。それじゃあ行こうか」
「はい。最短ルートで向かいます」
少し早足に、僕達は歩き始めた。僕が帰り道を先導しつつ、大通り、家路に着く人達の雑踏に紛れる。
車のヘッドライトとテールランプが、次から次へと尾を引きながら通り過ぎていった。人通りも多く、大通りならではの喧騒が辺りに立ち込めている。お店が多く立ち並んでいることもあってか、月明かりが気にならないぐらい道は明るかった。
(……大丈夫。
一つ、しっかりと呼吸をした。陽が落ちたことで昼間に比べれば幾分かは涼しいが、蒸し暑い空気が肌にじっとりと巻き付いてくるようだった。歩き始めたことで、余計に暑さを感じる。
「そういえば、ナナミ君の家はどの辺りに有るのかな?」
隣に並んだ
「
「ほう、そうなのかい」
そう、御影タワーからもだが、探偵事務所から家までもまあまあ距離がある。さて、どうやって帰ろうか。細かい道を使ってでも、早く家に着くべきだろう。
「でも、メリットもありますよ? 高校にはまだ近い方なんで、朝早起きしなくて良いんですもん」
「それは良いね。私は朝早く起きるのが苦手なんだよ……」
横断歩道を渡りながら、珍しく困ったような顔を見せる
「……なんだよー。大人が早起きが苦手でもいいじゃないか」
「いえ? なんでもできそうな
「それは勿論あるとも! 完全無欠な人間なんてものは存在しないのだからね」
「確かにそですね……あ」
丁度差し掛かった十字路で、
「こっちです。近道を使います」
「分かったよ」
たった少し、大通りから外れただけで、点々とした電柱の蛍光灯が道を照らすだけの住宅街に変わる。おまけに此処は車の通りも少なく、先程までの喧騒が嘘のような静けさだった。
「御影市は、本当に場所によって雰囲気が違うみたいだね」
全く以てその通りだと思う。御影タワーにしても、大通りにしても、今居る住宅街にしてもだが、その場所その場所の雰囲気っていうか……なんだろう。空気感が、全く違うのだ。まあ理由はハッキリしているけれど。
「計画都市ですからね……。最初の最初から商業地区とか住宅街とかの区画整理が、キッチリなされていたってことなんでしょう」
確か、出来たのは僕が生まれる少し前だったと
「ふむ。本来の目的を達成するという点においては大成功、という訳か」
顎に手を遣りながら、
歩くスピードが落ちないように意識しつつ
「――ナナミ君、走るよ」
「えっ!? ちょっ……!?」
思いっきり片腕を取られて引っ張られる。よく分からないが、とりあえず促されるまま腕がもげないように走る。
そこで、気が付く。
辺りを漂う魔力が、不自然な紅色を呈していることに。
(これは……!)
そして目に映る、黒い
「
辺りは普段の御影とは似ても似つかない、異様な雰囲気だった。紅い月の光、紅く発光する魔力、そして。
『紅い紅ーい月が昇ったら――』
「……これが、神秘を
『――魔物が、街にやってくる』
取り囲んでいる、黒い靄。これがきっと魔物なんだろう。
異様な光景を見ているというのに、不思議と怖さが其処には無くて。
「
「なんだい、我が弟子」
背中を合わせて、睨み合いつつ間合いを測りながら、申し訳なさそうに視線をちらりと此方へ寄越す。
「いきなり、人の腕を、引っ張らないでください……」
むしろ、腕を引っ張られたことの方が余っ程驚かされた。
荒い呼吸の僕とは対照的に、少し気が抜けたような表情になる
「や、それは……ごめん。見て分かるように緊急事態だったから……、ね? そうも言ってられないだろう?」
「まあ、そですね」
言いながら、予想外の行動で荒くなった呼吸を整えながら、鞄の中に手を突っ込んで手探りで包みを探す。
「……ナナミ君?」
「まさかこんなに早く使うことになるとは、ってとこですかね」
包みを掴むと、鞄から取り出してその中身を手に取る。『
短剣の鞘をぎゅっと持つと、武士が刀を取るように、その
「反魔力術式……魔道具か」
「学外での魔術の使用は禁じられてますけど、……魔道具は言われてないんで」
もし、魔物ならば子どもが大好物という話だ。未成年、という意味では子どもである僕が標的になるだろう。このまま、彼らは僕達を見詰めたままかと思った瞬間だった。
「カ……レ」
「!」
「カ、エレ」
今度は、それはしっかりとした音を成して。
「カエレ、カエレ」
「カエレカエレ!」
次第に、周りへと伝播する。
帰れ、だろうか。そうは言いつつも、簡単に家に帰してはくれないみたいだけど。そこで矢継ぎ早に
「ナナミ君、どれでもいい」
「……え?」
「一回、
「……はい!」
目の前の魔物へと身体を向けて、じり、と右足を後方に移動させる。一度深く息を吐いてから、唾を飲み込んだ。
「――行きます」
「カエレェェェエエエ!!」
魔物が絶叫とも言える咆哮したのを合図に、持ち前の脚力で大きく踏み込む。一気に魔物との距離を詰めて、懐に入り込む。
「はぁっ……!」
左から右へ、ただ、一閃。
確かに当たったが、物体を斬った感触がなく
「ウォアアアァ……!!」
反魔力術式の陣が発動したという、特有の感覚があった。魔力が見える今ならハッキリ知覚できる。陣がその近くの魔力を吸い取って霧散させ、斬られた所から魔物の形が崩れていく。つまり。
バックステップで距離をとって叫ぶ。
「
逸話に謳われる魔物は、実態の無い、神秘という
「ナナミ君、良くやった! そういう事ならば……!」
ふっと笑みを浮かべて、
「幾らでも、手の打ちようはあるという事だからね!」
まるで波のように広がる揺らぎが、魔物に当たったその瞬間。視界の中いっぱいに、辺り一面に色とりどりの
「――え?」
黒い靄のような魔物は、もう其処には居ない。ただ、ただ、無数の
「
訳が分からなくて、ただただ視線を向けた。
説明を視線で要求すると、得意げな笑みを受かべつつ口が開かれる。
「彼らの魔力と、この辺りに漂っていた魔力を、全て
「まあ確かに……そうですけど」
あっけらかんに魔力を変換したと一口に言ってのける
「この辺りの話も、これからの魔術講座で話していくよ。それより」
そこで、ふにゃっとしていた
「いつまた先程のように魔物らしきものに襲われるか分からない。急ごう」
「そ、ですね」
そう返すと、ダガーの刀身を丁寧に鞘へと戻した。忘れていた暑さが、存在を主張し始める。いつでも取り出せるように、とダガーをそのまま鞄へと仕舞って、また帰路を歩き出した。
しかし、その先にダガーの出番はなかった。
そこから僕が前、
「到、着、だ!」
「長い道のりだったね……」
見慣れた庭、家の灯り。ようやく我が家に辿り着いた。普通に歩いて帰るよりも、体感としてはずっと長い間歩いた気分だった。本当に、疲れた。
家の門の前で立ち止まり、
「此処まで送ってくださって有難うございます、
「弟子を守るのも大事なことだからね。それに、逸話の件もあったから……付いてきて良かったよ」
「ちょっ……!?」
にっこりと笑みを浮かべると、また頭をぐしゃぐしゃと撫でられる。や、本当に
抵抗して抜け出して、乱された髪を軽く整えながら尋ねる。
「ところで、
一応予定を聞いておかないとな、どうすればいいのか分かんないし。と思ったが、視線の先の
「え、急な話だったのに、明日も来れるのかい?」
「嗚呼、はい。……一日中空いているので」
急な話だったけれど、
「うーん、じゃあそうだな。
「勿論です。では、午前十時頃に伺います」
「うん、そうしてくれると助かる」
「それじゃあナナミ君、
「はい。お気をつけて、おやすみなさい」
そう挨拶を交わすと、先生は背を向けて来た道を戻って行く。その背が見えなくなるまで、そこに立ったまましみじみと思った。
(これは、
色んなことがあった一日だった、明日は何を教えてくれるんだろうか。期待が胸で膨らんで口の端が上がる。にやけた顔をしたまんま、家の扉を開けた。
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