第41話 さやかの記憶が戻った

 寒い寒い冬が過ぎ、時々春の暖かい風を感じる季節になった。


 仕事中に燿とランチを楽しんだ。


「今年は営業事務に1人新入社員が入るみたいッスよ!」


 燿は嬉しそうに言った。

 何処からそんな情報を得るんだろう。さすがとしか言い様がない。


「神川先輩も日向も彼女有り!という事は~俺ッスね」


 なんでそうなるのか分からないが、期待する事は悪い事じゃない。


「営業は入るの?新入社員」


「3人入るっす」


「じゃ~厳しいな」


 そう言って笑うとなぜか燿も笑う。


「まぁね~ダメ元でいくっすよ!」


 去年のあの日、燿は男泣きをした。それから月日が流れ燿は立ち直っていた。だが其れも定かでは無い。あえて僕には見せない悲しみがあるのかも知れないと、楽しそうに語る燿を見つめながら思う。


「そう言えば……」


「何?」


「言っていいのかどうか…」


「そこまで言ってそれはないだろ」


「そうッスよね!なんか営業事務の皆はさやかちゃんの記憶喪失知ってるッスよ。何でも本人が皆に言ってるみたいッス」


 また凄い情報ぶっ込んで来たな~。


「そうなんだ」


「それで最近色々記憶が戻ってきたらしいッス。美怜言ってなかったすか?」


「いや、何も聞いてないな…」


「やっぱ言わない方が良かったッスかね~」


「もう聞いた後にそんな事言ったって仕方ないだろう」


 僕が笑うと燿は頭をかいて苦笑いした。


「だとしても、もう僕には関係無いことだよ」


「いやだけど、前は好きだったじゃないすか…嬉しくないすか?」


「今は美怜が居るし過去の人だよ。それに今は何とも思ってないよ。本人は記憶が戻って嬉しいのかも知れないけどね。まぁ良かったんじゃないかな」


「そうすよね!過去の人か…寂しいけど本当の事ッスもんね!」



 燿からその話を聞いた時は何とも思わなかった。だが考えてみると、僕と恋人だったという事を思い出す可能性は十分にある。

 もしそうなったら…昔なら大喜びしただろう。だが今は出来れば思い出して欲しくない。彼女には神川先輩が、僕には美怜がいるのだから…。



 だがその時は訪れようとしていた…。

 開花宣言があちこちで聞かれるようになった春の休日。美怜とガーデンの手入れをしていた時、突然さやかから電話がなった。


「はい」


「日向君に話があるの。大切な大切な話。だからお願いします。【虹色の丘】に来て欲しい」


【虹色の丘】……。その場所を言われた時、脳裏に浮かんだのはさやかに告白をした事。その場所を彼女がわざわざ言うなら…。思い出したんだ!


「もうそこに居るの?」


「居る…待ってるから」


 それで電話は切れた。呆然と立ち尽くす僕…。どうすれば、どうすればいい……。


「日向、どうしたの?」


 美怜には嘘はつけない、いや、つきたくなかった。


「さやかから電話で…」


「うん」


「今すぐ来て欲しいって…」


「うん、行っといでよ!」


「えっ」


 美怜は動揺も無く、知らん顔で花に水をあげている。


「う、うん…」


 顔を上げない彼女は本当はどう思っているのか分からない。だが、反対の立場なら僕は行くな!と言っただろう。

 彼女の言葉を待ったが、それきり何も言わない。


「言ってくる…」


 そう言い残して車に乗った。目指すはあの【虹色の丘】。


 駐車場に着くと、大きく深呼吸をした。さやかの言いたい事は分かっている。

 植物庭園にゆっくりと歩を進める。久しぶりの景色が余計に苦しめた。あのベンチにいるはずだ。もう1度深呼吸をして曲がり角を曲がった。

 やはりさやかはベンチに座っていた。


 急いで立ち上がる彼女。

 立ち止まる僕。

 少し時間が流れ庭園の花の香りが風に乗ってやって来る。


「日向君!なんで!なんで言ってくれなかったのよ!僕は恋人だって!」


 彼女は今にも流れてしまいそうなほど目にいっぱい涙をためて、そう叫んだ。さやかは気づいた、僕の彼女が戻って来た。以前はこの日をどれだけ待ち望んだ事だろう。


「僕はさやかが記憶喪失になるまで恋人だった。それでいい…もう済んだ事だよ」


 僕は少し冷めたようにそう言った。

 そうだ、僕のさやかはもう居ないんだ…。


「済んでなんかないよ!そんなの嫌だよ!」


 溢れんばかりの涙はピンク色の頬を滑るように流れた。泣いた顔も怒った顔も笑った顔もみんな大好きだった。僕は懐かしいものを見るようにさやかを見つめた。


「ねぇ、なんとか言ってよ!そうじゃないと私は…私は……」


 ついには子どものように泣きじゃくってしまった。


「今更だよ…今更なんだよ。もう時間は動きだしてしまってるんだよ…分かるだろ?さやか」


「私は……私は、日向君が好き。もしも恋人だって打ち明けてくれていたら」


「もうやめよ。僕は打ち明けるのを躊躇った。さやかはそれで幸せになった。それだけ…それだけの事だよ?」


 さやかの言葉を遮りそう言った。


「どうすれば元にもどれるの?大学の時のように…どうすればまた日向君の彼女になれるの?」


「気持ちが確かにすれ違ってしまったんだよ。もう後戻りは出来ないんだ。わかってくれないか?さやか……」


 彼女はこぼれ落ちる涙を拭うことなく、僕を見つめ続けた。


 手を伸ばせば彼女の涙を拭う事も、ずっと思っていた抱きしめてあげる事も出来るのに。僕はそうしなかった。少しずつ少しずつ色んな事を経験して、僕は心の中にいたさやかを追い出したのかも知れない。


 自己防衛なんだろうな。

 悲しみが大きくて耐えられなくなって、ただ誰かではなく自分自身を守ったに過ぎない。なんて弱いんだろう。なんて儚いんだろう。


 魂で結ばれた運命の人だと信じていた。

 馬鹿過ぎる。滑稽だよな、まったく……。


「さやか?幸せを逃がしちゃダメだよ?先輩と幸せになって下さい」


「日向君は?日向君はそれでいいの?」


「うん、僕の心配なら要らないよ。平気さ!僕も美怜ときっときっと幸せになるから!」


 木漏れ日がさやかを照らしていた。あの日あの時【虹色の丘】のさやかを見た時と同じだった。どこか懐かしいものを見た気がした。


「わかった、わかったよ…あなたをとても苦しめてごめんなさい。辛い日々を過ごさせてごめんなさい…それでも今までずっと黙って見守ってくれてありがとう」


 彼女はもう泣いていなかった。諦めたのか…。

 僕にはもう彼女の事が分からなくなっていた。



『次話で最終話です』

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