第17話 美怜

 5月に入ると汗ばむ日もあった。社用車をいただき僕は1人で車を走らせていた。窓を開けていると、どこからかジャスミンのいい香りが漂うこの季節。


 さやかと潮干狩りに行ったっけな…。日焼けするからと帽子やUVカットのパーカーで、一心不乱に砂を掻き分け大きい貝だと必ず嬉しそうに見せに来た。


 そんな昔ばなし思い出して何になる。さやかの脳裏にも無くなってしまったんだ。でもまだ、心の中には確かに彼女はいた。僕に向かって笑いかける彼女が…。


 考えるのはもうよそう。さっ、仕事だ!仕事に打ち込めば暗い気持ちも吹き飛んでしまうだろう。


 今日から2件の会社で注文をいただく。自分で自分に課せたノルマだった。いやコレも神川先輩を意識しての事かも知れない。トップに立てば当然さやかも注目してくれるはず。


 なんて単細胞でどれだけ好きなんだよ。自分で自分が嫌になる位、情けない。こんな僕を好きになるわけないな。


 諦めムードが自分の中で構築された頃、以前神川先輩と行った会社【DMR株式会社】に着いた。必ず次行けば注文を貰えると神川先輩は言っていたが、果たしてどうだろうか…。


 受け付けの人に名刺を差し出し、以前話した平林さんをお願いした。平林さんは足早に僕の所まで来てくれた。


「森さん、来てくださったんですか!」


「遅くなり申し訳ありません。その後プリンターの調子はいかがですか?」


「いやー、買った会社に文句を言ったら代替を持って来ましたよ。壊れないものの色が悪い最低のやつです!全くけしからん!」


 温厚そうな平林さんが怒っていた。そりゃあ、高いお金を払ってるんだもんな…。


「それで、おたくの…えっと」


「篠山です」


「失礼、これからは篠山事務用品さんに全てお任せしたいと思っているんですよ」


「それは嬉しいお話ですね」


「今まだ時間がありますか?注文書を作成したいのですが…」


「大丈夫ですよ、お待ちしています」


 こうして神川先輩が言っていた通り注文をいただく事が出来、尚且つお得意様になった。だが、これも神川先輩の手柄だった…。



 その後会社を探しながら、ゆっくりと車を走らせた。小さいが1件の会社を見つけ駐車場に止めた。


「失礼します。篠山事務用品と申します。」


 中から女の人が慌てて飛び出して来た。


「はいはーい」


 僕は名刺を渡した。


「事務用品の会社?」


 パンフレットも渡すと、念入りに見ていた。


「今はFAXなんて使わないのかしらね~皆パソコンばっかりで、私はパソコン使えないしねぇ」


「そんな事ありませんよ。FAXを使われてる会社は多いです。もちろんパソコンも使われますが…」


「あら、メンテナンスもあるのね!これって使い方に困ったときも利用出来るの?それとも故障だけ?」


「いえ、お買い求め頂いた時にヘルプ用と故障用の電話番号をお渡ししていますので、どちらもご利用は可能です」


「あら、凄いのね。とーさん!」


「なんだ?お前会社では社長と呼べ、あれお客さん?」


 社長にもう一度名刺を渡し説明をした。


「この間電気の量販店にパソコンを見に行ったんですよ。経理に使いたくてね!しかし何がどう違うのかさっぱりですわ」


 そう言って社長は笑った。


 使用目的と予算を聞いて、これならというものを2台選び説明した。社長はとても気にいってくれ注文を依頼してくれた。


「ちょっとパンフレットを見て必要なものを書き出しておきますよ」


「ありがとうございます。出来ましたら名刺を頂けると有難いのですが…」


「あっ、これは失敬」


 社長は名刺をくれた。松崎さんということがわかった。


 その後も新規開拓をして回り、当たりは上上だった。多分次から注文が頂けるだろう。気がつけば夕方になり、お昼も食べるのを忘れていた。初めての1人営業はこうして終わった。



 腹が減って仕方がない。帰りに食堂に寄った。サバ煮込み定食。こういう家庭的な物が時々食べたくなる。そう言うとさやかは良く肉じゃがを作ってくれたっけな…。


 いかんいかん、仕事中は夢中で忘れられたのに…。すると美怜から電話が鳴った。


「はい」


「日向…家に行ってもいい?」


「えっ?僕の?なんで?」


「話しがあるの…この間の償いをしてくれてもいいじゃない」


「それはいいけど…話って?」


「それは家に行ってから言う…」


 う~ん、どうしたものか…。


「家知ってるの?」


「だいたい?」


「今食堂で夕飯なんだ。後30分したら瀬川駅で待ってるよ」


「了解、ありがとう」


 食べながら色々思っていた。彼女は確かに僕を好きなんだろう。だが、僕はまださやかの事が……。このまま2人はすれ違って行くんだろうか。今さやかに洗いざらい話したら、困惑してしまうだろう。それは望んでいない。


 瀬川駅に行くと美怜はもう来ていた。今日の営業の話をしながら、美怜を乗せて僕のマンションに向かった。


「大きなマンションだねぇー」


 8階建ての5階が僕の住む部屋だった。


「男1人だから散らかっているけど、どうぞ」


「お邪魔します」


「何か飲む?コーヒー、コーラ、ジンジャエール、ん~ビールもあるけど…」


「じゃ、コーラ」


 グラスに氷を入れコーラを注いだ。美怜はソファーに座って興味深く部屋を見ていた。グラスをテーブルに置いて隣に座った。


 さやかもよく来て居たな…。どうしても思い出してしまう。とにかく今日は美怜に集中しよう。


「で、話って?」


 美怜はグラスを回しながらゆっくりと話し出した。


「うちさ、仕事初日から日向が気になってたんだよね…」


「うん…」


「で、何度か何処かに出かけたり会社で話したりしているうちに……」


 美怜はそこで言葉を切り、ため息を漏らしながらグラスをテーブルに置いた。


「家にまで押しかけて何やってんだろうって自分でも思うよ…、思うんだけど……」


 その時着信音が鳴った。


「ごめん」


 さやかだった。何があったんだろう。だがこうしてまだ電話をかけてきてくれる事が嬉しかった。


「どうしたの?」


「あのね、今彩乃ちゃんがウチに来てるの。家出して来たらしいの…。」


「家出?!」


 あの彩乃さんならやりかねないだろう。


「それでね、どうしても日向君の所に行きたいって…、でも私は日向君の家知らないし……どうしたらいいのか分からなくって」


 さやかの声は悲痛な叫びのようだった。大人しいさやかにとってあの勝気な彩乃さんには手こずるだろうな。


「わかった。今そっちに向かう」


 その言葉に美怜が反応した。


「誰?さやかちゃん?」


「そうなんだけど…ちょっと大変な事になって。今すぐ行かないといけないんだ」


「やっぱうちよりさやかちゃんが好きなんだね…」


「いや、そんなんじゃないよ。とりあえず今は急ぐから駅まで送るよ。話しの途中で悪いけど、この埋め合わせは必ずするから……」


「うちも行く」


「え?」


 なんでそうなるんだよ!美怜を訝しげに見つめてしまった。

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