第5話 木枯らしの吹く頃②

 診察を済ませ2人でランチを食べに行く事にした。ちょうど駅前に新しくイタリアンの可愛いお店が出来ていた。中に入ると食欲をそそるガーリックとチーズの香りが漂っている。


 ランチ時で店の中はお客さんがいっぱいだが、ちょうど奥の外が見える2人がけテーブルが空いていたのでそこに座った。


「さやかは何にする?」


「何が好きだったのか覚えてませんが、カルボナーラが食べたいです」


 さやかは嬉しそうにそう言った。きっとパスタは久しぶりなんだろう。あの田舎には店もないだろうし、食卓にも出てきそうにない。


「じゃ僕も」


 注文をして待っている間に診察での事を聞いてみた。


「心因性記憶喪失というらしいです」


「それはどういうもの?」


「ショックで記憶喪失になったけど、日常生活には困らないそうです」


「いつか思い出せるんだろう?」


「ん~、それは分かりません。でも…」


 彼女はさっきの嬉しそうな表情から一転顔が曇っていった。


「ごめん、こんな話、嫌だよね」


「いえ、そうじゃなくて…ただ気にせず、前に進んでみましょうって先生に言われて…」


「気にせず?」


 気にせずってなんだろう。誰だって無くした記憶を取り戻したいんじゃないのか。思い出したいって思うんじゃないのか…。大学病院はダメだったのか?それとも主治医が…。


 いろいろ考えを巡らせていると、料理が運ばれて来た。


「美味しそう!」


 さやかが嬉しそうに言った声で我に返った。


「本当だネ!食べよ!」


 気にせず…とは、今のように楽しい事を優先する事なのかも知れない。本当に幸せそうに食べるさやかを見てそう思えてきた。彼女には無くしてしまった過去があっても未来があるんだ。その未来を明るく元気に過ごさせてあげることが、僕に課せられた事なのかも知れない。


「明後日から授業があるよ。どうする?」


 冬休みは終わるが、もう4年生はほとんど授業には来なくなっていた。


「私、卒業まで出来るだけ授業に出たいんです」


 彼女の目は新しい事にチャレンジするようにキラキラと輝いていた。


「たぶん卒業には響かないから就活しても良いと思うよ?」


「いえ、そうじゃなくて…。私、授業受けてみたいんです。忘れてしまった分学校生活がしたいんです」


 そうか、授業を受けていた自分も忘れているんだった。毎日通う事で何かしら思い出す事もあるだろう。僕も就活はないし彼女に付き合う事にした。もしかしたらもしかしたらだけど、付き合う前の2人に戻ればまた僕を好きになってくれるかも知れない。そんな淡い期待を抱いていた。


「じゃ、決まりだな!一緒に登校しよう」


「私は今までどうやって通学していましたか?」


「自転車だよ。ほらピンクのキーケースにも自転車の鍵があっただろ?」


 彼女はまたキーケースを引っ張り出して慎重に見ていた。


「これですね!」


 自分でみつけて得意げな顔が愛らしかった。その顔を見て嬉しくなり笑うと、また彼女も笑った。


「自分で自転車で行きます!」


「自転車…どれか分かるの?」


「えっと…分かりません!」


 そう言って彼女はまた笑った。少しづつではあるが、彼女は自分を取り戻しているような気がした。きっと幸せにしよう、そう思えた日だった。



 冬休みが終わり大学に行くと、僕が教えてあげた自転車を大切に駐輪場に止めているさやかを見つけた。


「さやか、おはよー!」


 さやかは自転車に鍵をかけると、振り返って手を振った。


「日向君おはようございます!」


「いい加減タメ口でいいんじゃない?」


 そう言って笑うと、さやかもまた笑った。


 2人で隣の席に座り楽しく授業を受ける日々。食堂でランチを食べ語り合う日々。本当に付き合う前の2人に戻っていた。彼女が傍に居ればそれだけで充分に思える。


 きっとまた僕を好きになってくれるに違いない。そしてまたあの【虹色の丘】で告白しよう。振り出しに戻ってしまった辛さより、また繰り返せる楽しみを噛み締めていた。




 ある夜、さやかから電話がなった。

 記憶を無くしてから初めての事だった。


「さやか!こんばんは!」


 嬉しくて元気よく挨拶してしまったが、電話の向こうの彼女は何かに怯えている。


「どうした?さやか!何かあったの?」


「……分からない、分からないの」


「何が?」


「何もかも分からないの!」


 彼女は悲痛な叫び声をあげた。


「さやか明日朝学校は休んで病院に行こう」


 いや、待て。両親が亡くなった時にも、僕は明日行くと言ってしまった。それで彼女は病気になってしまったじゃないか!


「さやか!待ってろ、直ぐに行くから」


 そう言って走って車に乗り込んだ。頼む、さやか、待っててくれよ…。



 インターフォンを鳴らすと直ぐに開けてくれた。寒いのかと思うほど震えている。部屋に入ると暖房はついていて温かかった。


「さやか?」


「怖いの」


「何が?」


「何もかもが怖いの!」


「大丈夫だよ。僕が傍にいるよ」


 抱きしめてあげたかったが、友達の僕には出来なかった。


 彼女はソファーの隅で小さくなり座った。僕も隣に座り背中をさすった。


「何か思い出した?」


 彼女はコクリと頷いた。


「なに?」


「……小さい時にブランコで遊んだ。お母さんが買い物に行こうって誘いに来て……」


「それで?」


「私はブランコで遊びたくてお母さんの手を振り払って……」


「うん」


「それだけ…それだけなの!買い物に行ったかどうかも分からないし、お母さんが傷ついたかも分からないし…それでもお母さんはもういないんでしょ?」


 さやかは耐えられず、自分の膝に顔を埋めた。


「大丈夫。さやかはずっとさやかだからね。きっと買い物に行って二人で楽しんだよ」


「本当にそう思う?」


「僕さ、大学1年からずっとずっーと、さやかを見て来たんだよ?さやかは人を傷つけるような人じゃ無いこと、僕が一番知っているよ」


「…うん」


「それにさやかは心底優しい人なんだ。お母さんを大切にしてお母さんからも愛されて過ごしていたに違いないよ?」


「…うん」


「だから何も恐がる事はないんだよ?またある日突然何かを思い出しても大丈夫!さやかはずっとさやかなんだから!」


 さやかはやっと顔を上げ僕を見つめた。


「…今は私の事、誰よりも知ってくれてるのは日向君だから……ね」


「そうだよ?さやかが自分がどんな人だったかなんて考え無くていい。僕が全部教えてあげるよ」


 そう言って微笑むと彼女もまた微笑んだ。

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