第二話(平成三十一年)
狭い会議室の壁に投影された映像の中央に官房長官が歩み出る。一礼をしたのちに何かを語り始めるが、よく聞こえない。
「おい、音上げろ」
隣の席の課長が、プロジェクターの横に座る人物に言った。あどけなさを残す入社三年目の男性社員が、慌ててパソコンの音量を上げる。
「新しい元号は『令和』であります」
控えめな歓声が上がる。俺は三十年前に街の電器屋で見たブラウン管の映像を思い出していた。また元号が変わる。この三十年間、俺は何をしてきたのだろう。平成の時代に何を成したのだろう。
胸ポケットの私用携帯が、ぶるっと震えた。
――Rxc1
手帳を開くと、二か所の小さなマスを几帳面に消しゴムの角で消した。消したマスの一つに、シャーペンで新たにアルファベットを書き加える。
「部長、最後に何かあれば」
入社三年目の彼の言葉に、俺は我に返った。息子に近い年代の彼の表情には、もうすぐ会議を終えられるという安堵の表情が見て取れる。
「実績は厳しいけど、令和も頑張ろう」
間の抜けた締めの言葉に、愛想笑いが漏れた。
家に帰ると、
「おかえりなさい」
「ただいま」
着替えと手洗いを済ますと、テーブルの上に用意された白米と鯖の煮つけを電子レンジに入れてスイッチを押した。待っている間に、仕事中ずっと考え、帰りの電車で確認した手を携帯に打ち込む。
――Bxh6
そのメッセージが初めて送られてきたのは、大学三年の夏のことだった。朝、目が覚めると、知らない番号からメッセージが届いていた。
――e4
たった二文字。挨拶もなければ、いかがわしい広告もなかった。不審に思いながらも、すぐにそんなことは忘れてしまっていた。
不意にその意味がわかったのは、受信してから十日も経ったあとだった。
「棋譜だ」
思わず声に出た。「e4」はポーンをe4に動かすことを意味する。すぐに、令子だと俺は思った。彼女とは高校を卒業して以来、一度も会っていなかった。チェスをしたのも、あの日が最初で最後だった。ベンチに跨り、ビールを飲み、令子が吹っ飛ばされた昭和最後の日。俺はすぐに返事を打った。
――c5
FacebookやSNSで彼女の現況を探ったこともあった。さほど珍しいわけではない彼女の名前は多数ヒットしたが、反対に候補が多すぎてどれが彼女か特定することができなかった。結局、彼女が今どこで何をしているのかを知ることなく、四半世紀の歳月が流れた。その間にメッセージのやり取りで行ったゲームは、百二十七にのぼる。戦績は六十三勝五十六敗八分けだった。
ピピピッと電子レンジが音を立てている。加熱時間が終了した時に鳴る音ではなく、取り忘れを知らせる音だ。物思いに耽っていたらしい。それにしても、便利な世の中になったものだ。温めすぎた鯖を頬張りながら、缶ビールの栓を切った。
「
「盆暮れ正月に帰ってこないのに、ゴールデンウィークなんかに帰ってくるわけないじゃない」
昭子が、にべもなく言い捨てた。「ねぇ、それより休みのうちに家の片付けをしたいんだけど、あれ捨ててもいいかしら?」
「あれって?」
「寝室の押し入れに入ってるチェス盤」
「あれはダメだ」
「でも……」
「ダメだって言ってるだろ!」
思わず荒立った言葉と一緒に、鯖の身が飛び出た。
「だって、使わないじゃない」と昭子が囁くように言った。
「使わないんじゃない。使う相手がいないんだ」
返した言葉に返事が来ることはなかった。
平成三十一年四月一日。四十八歳になる春の話だ。
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