第一話(昭和六十四年)

 昭和最後の日は、朝から薄曇りの土曜日だった。昼下がり、大通りに面した電器屋の店先で老若男女が足を止めていた。早朝の昭和天皇崩御から新しい元号が発表されようとしている今でも、街は、いや日本中がどこか落ち着かない雰囲気の只中にあった。


「新しい元号は『平成』であります」


 固唾を呑む静寂の後に、一斉にどよめきが起こった。みなが新しい元号を実際に口にしてみて、その語感を確かめていた。やがて、口々に感想を述べながら、三三五五行くべきところへと去っていく。誰もいなくなった最新のブラウン管テレビの前で、俺は記者たちが右往左往する様子をじっと見つめていた。


「時代が変わったな」

 後ろで声がした。驚いて振り返ると、見覚えのある顔がチュッパチャプスをなめながら、俺が見つめていたのと同じブラウン管を見つめていた。ふと、その視線が落ちる。

「それ、チェス盤だろ?」

「わかるのか?」

「わかるよ。やろうぜ」

 そう言うと、返事も聞かずに歩き出した。


 それまで令子れいこと話したことはただの一度もなかった。それが気づけば公園のベンチに向かいあって跨り、間に置かれたチェス盤とにらめっこしていた。

「変わったのは時代じゃない。ただの元号だ」

 俺は白のポーンを前に進めながらそう言った。

「同じようなもんだろ?」

 令子はそう言うと、くわえていたチュッパチャプスの棒を放り投げ、新しいのをポケットから取り出した。俺に話しかけた時にくわえていたのを入れて、三本目だった。その前に何本地べたに放り投げたかは知らない。

「俺にもくれよ」

 試しに言ってみた。令子はしばらく両のポケットを探ったあと、「悪い、ねぇわ」と言った。


 逢魔が時になり、駒が黒か白かも判別がつかなくなってきたころ、令子はおもむろに立ち上がり、そのまま何も告げずにいなくなった。二ゲーム目の中盤だった。俺は彼女が帰ったのだと思い、そのままいつものように一人二役で駒を進めた。


 あたりが完全に闇に沈んだころ、不意に盤上を明かりが照らした。

「おい、なんで勝手に動かしてんだよ?」

 令子が右手に懐中電灯、左手にビールの中瓶を握っていた。彼女は再びベンチに跨ると、流れるような動作で黒と白の駒を次々と動かした。あっという間に、彼女が立ち去った時とまったく同じ場所にすべての駒が配置された。

「全部覚えてるのか?」

「当たり前だろ」

 令子はポケットから栓抜きを取り出すと、ビールの栓を抜いた。そのままラッパ飲みし、瓶をぐいっと突き出した。それを受け取り、同じようにビールを口に含んだ。飲酒をしたのは、それが初めてだった。


 五ゲーム目が終わった時、懐中電灯よりも遥かに明るい光が俺たちを照らした。車体を震わせるようなエンジン音が闇夜に響く。その光を背に人影がこちらに向かって歩いてきていた。逆光のせいで間近に来てもその表情は読み取れない。ただ、大柄な男だということはわかった。

 突然、爆ぜるような音とともに令子がベンチから転げ落ちた。その人物が彼女の頬を強かに打ちつけたのだと気づいたのは、ややあってからだった。男は続けざまに空になったビール瓶を拾い上げると、何の躊躇もなく足元の地面に投げつけた。俺はとっさに顔を腕で隠し、背けた。飛び散った破片が、白のキングを弾き飛ばした。

「帰るぞ」

 男は感情のこもらない声を残し、ついさっき来た道を戻っていった。令子はゆっくりと立ち上がると、背中を丸めて男の後をついていく。


「お前、強いな」

 立ち去ったと思っていた令子が、光の中でこちらを振り向いていた。五ゲームを終えて、三勝二敗。実力はほとんど五分だった。

「これからもやろうぜ、試合。ずっと。死ぬまで」

 俺がその意味を知ることになるのは、もう少し後のことだった。




 昭和六十四年一月七日。十七歳の冬の話だ。

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