第5話 4月29日
私は凛さんが住むアパートの目の前にいた。6部屋ほどしかない小さなアパートの201号室が凛さんの住む部屋だった。アパートの敷地に入る門が錆びついていて、その建物の古さを表していた。あたりは少し暗くなり始めている。年季の入ったアパートは紫色の日差しを背負って怪しい輝きを放っていた。私は、ものすごくお洒落なリノベーションマンションとか古民家っぽい住居とか、そういうところに住む凛さんを想像していたから、なんとなく安心して胸をなでおろした。私の住むアパートとそう変わらない。錆びついた門を通り、やけに真っ白な階段(おそらく塗りなおしたのだろうが、なぜ門は塗りなおさないのだろう)をのぼった。201号室の前につき、チャイムを鳴らすと、まるで扉のそばで待機していたかのようにすぐに凛さんが扉を開けた。
「どうぞどうぞ」
「ドア開けるの早くないですか」
「玄関で待機してましたぁ」
やはり待っていたらしい。小さな玄関で靴を脱ぎ、部屋を見渡した。凛さんの部屋は物がほとんど無かった。二人掛けのソファが一つ、ベッドが一つ、机が一つ。それだけ。教科書とか小説とかは床にそのまま積み上げられていた。
「凛さんの部屋ってめちゃくちゃ物少ないですね」
「服とか化粧品とかもろもろ全部押し入れに突っ込んでるよ」
「家具とか、テレビとか…。っていうか家電も冷蔵庫しかないんですね、ミニマ リストかなんかですか?」
「必要性を感じなくて揃えてないだけよ、まぁ飲みましょうや」
凛さんがベッドに座って、私がソファに腰かけて、間にはチューハイやらおつまみやらが乗った机があって、二人きりの飲み会が始まった。私はそこで凛さんが法学部であること、テニスサークルとオカルト研究会に入っていること(相変わらずアンバランスな選択だ)、実家が新潟にあることを知った。
「ミノリちゃんは?私ミノリちゃんのことも知りたい」
「私なんて語るに及ばぬ人間ですよ。サークルも入ってませんし、実家も隣県で すし。文学部で、特に学びたいことがあるわけでもないですし」
「そうなんだ。サークルに入ってないのは何か理由があるの?」
「特に理由があるわけではないんです。何か、何かやりたい、何者かになりたいとは思っているんですけど、何をしたいのかもわからなくて結局サークルに入るタイミングを逃してしまいました。大学を選ぶときもそうだったんです。何かやりたいような気はするのに、何をやりたいのかなんてわからなくて」
凛さんは、そっか、とだけ言ってスルメを齧った。しばらくお互いに無言が続いて、私は話すことがない自分の境遇を恥じた。
「ミノリちゃんは、」
「はい?」
「ミノリちゃんはすごくいろいろ考えているんだと思う。考えすぎっていうか」
「ただぼんやりしてるだけな気もするんですけど……」
「うーん、うまく言えないけどさ。何かやりたい、何をやりたいんだろう、って考えてるうちは見つからないと思うんだよね。大事なのは何をやりたいかよりも、自分が何をできるかだと私は思う。でも何ができるかって、何もやらないうちには分からないから。とにかく何かやってみなくちゃって思うんだ」
「それってもしかして説教ですか?」
分かったようなことをいう凛さんに何だか腹が立って、私は思わず皮肉っぽく返してしまった。凛さんは気を悪くした様子もなく、ケラケラ笑って答えた。
「ううん、ちょっと長く生きてるお姉さんからのアドバイス」
私もつられて笑った。凛さんは自分の飲みかけのチューハイを私に手渡し、ベッドに寝っ転がった。
「凛さん、寝ないでくださいよ」
「寝ない寝ない」
凛さんは目を閉じてゆっくりと呼吸した。凛さんの胸が息を吸うたびに膨らむのを眺めた。私の齧るスルメは頬の内側にちょっと引っかかっては歯の上に舞い戻る。
「あのね」
「はい?」
「でも、私は何ができるんだろうって思うんだ。バカみたいに髪を赤く染めて、なんだかよくわからないことをして、ただ他人と同じ自分が嫌なだけでさ。変な話、他人とか社会に何の役に立っているんだろうって、たまに思うよ」
「凛さんでもそんな風に思うんですね」
「思うにきまってるでしょ~!」
凛さんは跳ね起きて膨れて見せた。赤い髪は寝転がったせいでぐしゃぐしゃになっている。
「でも私は凛さんがいてくれてよかったって思ってますよ。凛さんがいなくちゃ多分こんな風に平成だけの友達なんてきっと出来なかったと思いますし。何より凛さんと話すのは楽しいです」
「うれしいこと言ってくれるね。私も、こんなバカみたいなことに乗っかってくれるバカみたいなミノリがいてくれて本当によかったと思ってるよ」
「思うんですけど、凛さんってちょいちょい失礼ですよね」
凛さんは一人で発作を起こしたみたいに笑いだした。ははははは、あっははははははは、ははっ……。やだもう、凛さんめちゃくちゃ酔ってるじゃん。私もおかしくなって笑った。あははははは、ははははっ……。笑いすぎて涙が出て、少し滲んだ視界の端で、赤い髪の毛が揺れるのが見えた。
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