第4話 お兄ちゃんな僕。
「ヒロトくぅ~ん??きみぃ~、さっきなぁんとおっしゃいましたかぁ~??」
眉毛をひくつかせながら、ニヤニヤとヒロトに詰め寄るナオト。
「兄ちゃんが喋れなくなりますように、って言った」
「そんなことは言ってないし言わないでください!!」
ヒロトの攻撃を受けつつも、このときのナオトはいつものようにめげはしなかった。
これはナオトの心の中が、幸福感と満足感に包まれていたからである。
「ヒロトくんさっきぃ~、『ただいま』っておっしゃいましたよねぇ?」
そう、ナオトはヒロトが『ただいま』と言って自分の家に入ってきたことが、たまらなく嬉しかったのである。
「それがなに」
一般的には、自分の家や血縁関係の無い者の家に上がる際に使われる言葉は、『おじゃまします』だろう。ヒロトにとって笹川家は、自分の家でもなければ、もちろん竹下家との血縁関係もない。だがしかし、この幼稚園児は『ただいま』と言ったのだ。
ヒロトが笹川家に預けられ始めたころには、家に入る際には必ず『おじゃまします』と言って上がり込んでいた。初めは誰しもがこの光景になんの違和感も感じなかったのだが、ナオトはヒロトと一緒に時間を過ごしていくうちにこの『おじゃまします』という言葉に何とも言えない違和感を感じていたのである。
「いやいや~、わからないのならいいのですよぉ~~??」
ヒロトの眉毛がぴくっと反応した。
次の瞬間、分厚く硬い鈍器が、ナオトを襲撃した。辞書だ。
「ゴチン!!」
いつもの辞書投擲ならばナオトの顔か、胴体に向かっていただろう。しかし今回の辞書の行く先はナオトの頭だ。さらにはぴったり角が命中している。いくらナオトの頭に頭蓋骨が仕込まれていても、これはかなりの危険球である。なぜ今回に限ってそのような特別危険球になったかを簡潔に述べるとするならば、ヒロトの眉毛をぴくっとさせるほどイラつかせたからである。
「いたいよぉ....ヒロトくぅん.....ふふふ」
そう言いながらふらふらしているナオトの目にはほんのちょっぴりの涙と、その頭からはしっかりと血の大河を流している。
そんな状態であるにもかかわらずナオトは笑っているのだ。
「スライムの次はゾンビなの......」
ヒロトの顔が完全に『引くわー』の顔をしている。今日は実によく表情筋が働く日である。
ナオトが顔の血をぐいっとぬぐい、ヒロトに向かって話し出す。
「いやぁ、ね?ヒロトがさっき『ただいま』って言ってくれたでしょう。俺はあれがすごくうれしかったんだよ。いままで『おじゃまします』って言って入ってきてたお前がさ、『ただいま』なんて言ってくれたんだ。いつも俺のことめんどくさそうに扱うし、辞書だって投げてくるし、無表情で不愛想なお前がさ、『ただいま』って言って帰ってきてくれたんだよ」
「俺はそれがすごく嬉しいんだ」
こんなことをなんの恥ずかしげもなくつらつらと言ってのけるナオトだが、その視線の先にいるヒロトを見る目は、しみじみと、愛おしいものを見るようなそんな目で、そんなナオトの声色は疑う余地もないほどに『お兄ちゃん』だった。
ヒロトはナオトの方から顔をそむけた。そんなことをすればいつも無表情な顔の変化がより確実に見えなくなる。しかしナオトには見えていた。赤く染まった、まだ小さな幼稚園児の耳が。
「うるさい...」
ヒロトはそう言って、あちら側を向いている。ナオトもそんなヒロトに向かって優しく微笑んだ。
「おかえり、ヒロト」
ヒロトが初めて『ただいま』と言ったこの日に、ナオトも始めて『お兄ちゃん』らしいことが言えたのだ。
ヒロトが心を開いてくれた喜び、いつも無表情で活力のない幼稚園児のかすかに垣間見えた幼稚園児らしさ。いまのナオトにとって、これほど幸福で満たされるものはないだろう。今日はなんとも、実にめでたい日であった。
「ドスッ」
あれ?
「なん....だと.....?]
そうこぼしたナオトの腹には、辞書がきれいに突き刺さっている。
「まってヒロトまってなにこれ!?」
「うるさい....うるさい....うるさいうるさい....」
ヒロトは耳をさらに赤くさせたままこちらに辞書を投げつけてくる。驚いたことにその顔はまだこちらを向いていない。それにしてはこの精度、なんという幼稚園児だ。
「わかったヒロト、ごめんな!!もうこんなこと言わないから!!」
そう言いながら辞書から身を守りつつ、ヒロトに言葉を投げかけた『お兄ちゃん』は、満面の笑みを浮かべていた。
やはりヒロトも、ちゃんと幼稚園児なのである。
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