第13話:「香火」の由来

 小学校に入る頃には、親から愛されていないことはなんとなく気づいていた。


 虐待やネグレクトがあったわけではない。食事は一日三食与えられていた。靴のサイズがきつくなったと母親に話せば週末はデパートに買い物に行くし、習い事を始めたいと父親に相談したら翌週にはジュニア英語教室に通うことになっていた。おかげで衣食住に困ることなく、わたしは肉体的には健康に育っていった。


 ただ、それだけのこと。


 買い物以外に家族で遠出をしたことはない。好きな食べ物を訊かれたことがない。嫌いな食べ物を訊かれたことがない。誕生日プレゼントをもらったことがない。お小遣いをもらったことがない。幼稚園で描いた似顔絵を受け取ってくれたことがない。家事を手伝わせてくれたことがない。わたしから身体に触れたことがない。笑顔を向けてくれたことがない。


 愛情を注がれたことがない。


 適性サイズの靴を履かなければ足が変形してしまうし、英語は小さいうちに習っておけば好成績をとりやすくなる。実に理にかなっている。


 休日は、一日の大半を外で過ごすか、テレビをぼーっと眺めていた。


 質問には返答してくれる。教育のためだから。

 雑談には応じてくれない。時間の無駄だから。


 決定的だったのは、小学二年の授業参観だ。


 科目は国語で、作文を発表するというベタな内容だった。


 テーマは『自分の名前の意味』。


 課題が提示されたのは、発表の一週間前。あらかじめ両親に由来を尋ねておき、授業参観までの国語の時間で執筆するというスケジュールになっていた。当日はクラス三十人、一人一分以内で読み上げる。文量は作文用紙一枚以内。


 それを先生から告げられた日の夕食後、早速わたしは母親に尋ねた。

 すると彼女は「お父さんに訊きなさい」とだけ言った。

 父親は百貨店の幹部で平日・土日を問わずいつも忙しそうだった。授業参観日までに休みがなかったため、わたしは眠気に必死に抗って父親の帰りを待った。日付が変わる直前に帰宅した父親に、母親と同じ問いをすると、「辞書に載っているから自分で調べなさい。そこに載っていることがすべだ」と答えられた。そう言われるであろうことは予想がついていたので、一言「わかりました」と伝えてその日はすぐに寝た。


 翌日、辞書で「香火」の意味を知ったわたしは、部屋で声を殺して泣いた。


 そして授業参観当日。クラスのみんながソワソワして後ろを振り返ったり、『どの人が誰々さんのお母さんか』クイズをしたりする中、作文の朗読会が開始される。


 わたしの順番は、まさかのトップバッター。席順でも五十音順でもない。おそらく先生は、ふだん教科書の朗読が一番上手なわたしを基準点とすることで、「みんなもこれくらい、感情を込めて大きな声で読み上げるのよ」と暗に伝えたかったのだろう。あるいは保護者に向けて「あなたたちのお子さんは私がこんな立派に教えていますよ」とアピールしたかったのかもしれない。


 ゆっくり立ち上がり、震える手で作文用紙を目線の高さまで掲げる。


 香火とは何なのか、どのような意味があるのか。


「香火は、『仏壇でたく焼香の火』という意味です」


 ざわ、と教室がどよめいた。


 両親は何を望んでいるのか。意味を知って、わたしはどのような大人になりたいと思ったのか。一度も噛むことなく流麗に読み上げた。途中で何度か涙がこみ上げてきたが、ここで泣いては後で母親に叱られると思い、無理やり心の奥底に押し込んだ。


 発表後、教室が重苦しい空気に包まれた。誰もが拍手をするべきなのか迷っているようだった。こうなることはわかっていたが、わたしにも自分の悲哀を知ってほしい、不満を吐き出したいという気持ちがあったのかもしれない。


 振り返ると、母親はもう教室にはいなかった。


 この日を境にわたしと両親の溝が決定的になったのは言うまでもない。会話は一週間に一度でもすれば良い方で、わたしが中学生になった頃にはほとんどチャットでのやり取りになっていた。それでも高校まで通わせてくれたのは、世間体に他ならない。


 高校三年の始業式の日、一年ぶりに父親と肉声で言葉を交わした。


「親としての務めも来年の三月までだ。お前は高校を卒業したら、家を出て働きなさい」

「わたしは大学に通いたいです」

「ならば、学費は自分で捻出しなさい。奨学金を申請するなら、署名くらいはしてやる」

「……わかりました」


 わたしは最後の高校生活を、ほぼ勉強とアルバイトに費やした。受験に関しては学校の推薦があるので問題なかったが、学費や一人暮らしの資金を調達する必要があった。


 自分の人生は、大学時代から始まったといっても過言ではない。


 家を出たわたしは、ようやく人並みの日々を送ることができるようになった。木造築三十年、駅から徒歩三十分のボロアパートでの生活は、ちっとも辛くはなかった。バイト先ではまかないを食べられたし、食費を切り詰めるためにレシピを考えるのは楽しかった。サークルにも入って、先輩から教科書のお古を譲ってもらった。バイトが終わってからはその日の授業の復習を欠かさずすることで、大学の成績上位者五パーセントだけが該当となる返済不要の奨学金を得ることもできた。


 毎日が、充実していた。幸せとはこういうものを言うのかもしれないと思った。


 だから、この生活は長く続かないことも知っていた。


 二十歳の誕生日、わたしは傷害事件を起こし逮捕された。


☆ ☆ ☆


「こんなこと聞かされても、困るだけですよね」


 保護観察所での面接が終わり、保護司さんが運転する車の中で、わたしは生い立ちを語っていた。口が勝手に動いていたのだ。誰かとまともに会話をするのが久しぶりすぎて、つい口が滑ってしまった。実家にいた時は黙っている方が普通だったのに。


「勝手にしろ。自らを省みることは更生において重要なことだからな」


 バックミラーに映る保護司さんの眉間には皺がいくつも刻まれている。


「……大人になったその日に警察に捕まるなんて、わたしは親不孝者です」


 担当だった弁護士は、父親の知人だった。若者による障害事件を得意としており、今回は弁護料とは別に多額の「チップ」を受け取っているとのことだった。


 裁判の結果は、求刑通り懲役三年。減刑も執行猶予も認められなかった。


 相手が悪かった。被害者の家系は政治家、警察、検事、医者といったエリート一家らしく、裁判を迎えるにあたり様々な根回しがなされていたらしい。「たとえ黒を白に変えられるドラマのような敏腕弁護士だって、勝率ゼロパーセントだったよ」と後に担当弁護士は笑いながらこぼしていた。


 そういえば、と前置きして、わたしは保護司さんに尋ねる。


「ずっと気になってたんですけど、どうして担当の保護司さんが変更になったんですか?」

「理由については言えないな」

「……そうですか」

「ただ、これだけは言っておく。反省することは確かに大切だが、いつまでも過去に囚われていては次のステップには進めないぞ。お前はまだ若いんだから」


 そう語りかける保護司さんの顔は、やはり苦々しい。言いたくないことを言っているのなら、無理に優しくしないでほしい。


「これから向かうのは、新しい住まいと職場だ。お前には住み込みで働いてもらう」

「すみません、仕事の斡旋までしてもらって」

「構わん。これも私の任務だからな」


 保護司ってそんなことまでやってくれるの? それとも前の弁護士みたいに「チップ」を受け取っているのだろうか。任務って言葉もなんか引っかかるし。そもそも、出所前に保護司があらかじめ決まっていて、しかも迎えに来てくれること自体、通常のフローとは異なるはずだ。


 信号待ちで停車し、少しの沈黙が生まれる。

 目の前の人は、信用できるだろうか。

 このまま路地裏にでも連れ込まれるのではないか。

 あの日の経験から、どうしても他人を疑う気持ちが先行してしまう。


「ところで」


 保護司さんが、缶コーヒーを差し出してきた。


「飲まないか? これ」

「はい?」


 プルタブは既に開いている。飲みかけだ。


「コンビニのくじで当たったから飲んでみたのだが、やはりブラックは無理だ」

 だからさっきから、苦虫を噛み潰したような顔をしていたのか。

「……ふふっ」


 ここで嫌な顔をするでもなく素直に受け取ってしまったのは、人との触れ合いに飢えていたからだろうか。


「なんか、こういうの久しぶりです」

「刑務所でコーヒーは飲めないのか?」

「いえ、そういうことじゃなく」

「おかしなことを言う」


 保護司さんの口調は相変わらずぶっきらぼうだが、さっきまでとは違い、不思議と温かさを感じる。


「これでようやく買ったものが飲める」


 コンビニの袋をがさごそと探る表情は本当に嬉しそうで、年下かと思ってしまうような無邪気さだった。取り出したのは紙パックのカフェオレで、慣れた手つきでストローを突き刺す。ちゅうううう、と茶色の液体を吸い上げると、バックミラーに満面の笑みが映っていた。


 車がゆっくりと加速する。保護司さんの肩からこぼれる深青の髪は、信号よりも澄んだ色をしており、輝いていた。

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