第11話:正義を愛し、悪を憎む
頭が重い。まるで透明な重石を載せられているようだ。ちょっとでも動かすと、奥の方でずきずきと鈍痛が走る。額や腕に触れると熱いのに、いくら着こんでも悪寒が治まる気配はない。そのくせ汗がびっしりと浮かんで、パジャマにまとわりついて気持ち悪い。
体温計は三十九・八度を示している。これほどの高熱はずいぶん久しぶりだ。この歳になれば発熱くらいどうってことないと高をくくっていたが、いざその状況に陥ると想定していた以上にしんどい。食欲がないので、ここ三日はおかゆだけを食べている。
二日以上学校を休むなんて両親の葬儀以来だ。クラスに、もとい校内に友達は一人もいないので、授業に追いつくためには仕事の時間を一部勉強に充てなければならないかもしれない。
報告によると、花村ちぐさも今週は一度も登校していないらしい。担任が何度か家に電話をかけているものの、留守電になってしまうそうだ。つまり、ちぐさだけでなく家族も不在ということになる。
「ヒーロー活動が忙しいのかもしれませんが、学校では彼女も一人の生徒ですからね。せめて連絡の一本でも入れさせないと。今日にでもちょっと家の様子を見てきますよ」と、担任は語る。
花村ちぐさの不登校と同時に、街に新種の怪人が出没するようになった。刀のような長い指と、紅蓮に染まったうねる髪が特徴で、既にヒーローの何人かが返り討ちに遭っているらしい。中でもプリティッシュというアイドルヒーローは、顔に大きな傷をつけられ入院中ということだ。このまま引退もありえるとかで、ワイドショーは大騒ぎだ。
ソファで横たわりながら、メール添付の報告書をスマホで読んでいると、頬に冷たい感触が宿る。
斜めに向くと、紙パックのカフェオレを押し当てているミモリがいた。
「水分も大事だよ」
「こういう時はイオン水とかじゃないんですか」
こんな甘ったるいものを飲んだら、かえって気分が悪くなる。
日曜日、仕事を終えた直後、僕はショッピングモールで意識を失った。怪人の力を使いすぎたのだ。
気がついた時には事務所のソファにいた。目が覚めているはずなのに寝息が聞こえるのはおかしいと思い、足元を見てみると、ソファに寄りかかったミモリが目をつむったまま小さく呼吸をしていた。
ショッピングモールで一部始終を覗いていた彼女が、事務所まで運んでくれたらしい。そういえば僕の仕事を見学するようなことを言っていた。
「まあ、ちょうど喉が渇いていたんでもらいますけれど」
銀色の丸い穴にストローを差し、粘土色の液体を吸引する。甘い。
あの人も、カフェオレが大好きだった。
この調子だと、今週いっぱいは学校も仕事も休む羽目になるだろう。ミモリが甲斐甲斐しく身の回りの世話をしてくれるおかげで、休養に集中できている。
僕が倒れてからというもの、まるで近所の親しいお姉さんのように手を焼いてくれている。食事の用意に汗で湿ったブランケットの交換、部屋の掃除に備品の発注まで。普段はダラダラしてばかりでまったく働かないくせに、優しすぎて不気味だ。
「今日はおかゆを全部食べられたな。偉い偉い。夜はうどんにでもするか」
お椀とスプーンを片づけて、流し台に向かうミモリはなんだか上機嫌だ。
深青の髪、長いまつげ、意志の強そうな瞳、筋の通った鼻。パーツの一つひとつが人間離れした、作り物のような美しさを放っている。改めて観察すると、やっぱり美人だ。
「そうだ、課長くんに訊きたいことがあったんだ」
スポンジを泡立てながら、ミモリが尋ねてくる。
なんだかこういう光景、久しぶりな気がする。そう、七年ぶりだ。あの頃の僕は、食後はいつもソファでゴロゴロしていた。
僕はミモリの背中を眺めながら、続きを促した。
「なんでしょうか」
「君は、アルケニーをわざと死なせたな?」
かちゃかちゃと、食器が擦れる音だけが事務所に響く。
「ばれましたか」
当初の計画では、ショッピングモールで暴れ回るのは堕人だけで、アルケニーは指揮官として安全地帯から指令を出すだけだった。だが僕が提出した計画によりプランは上書きされ、個々の役割も変更となった。
堕人が建物を破壊したり大衆に危害を加えたりしている間、アルケニーは糸を張り巡らせレインの動きを妨害する。堕人が半分に減った頃には破壊活動を止め、大人しく退却する。
これが、紙面上の大まかなプラン。だがアルケニーには、口頭でこのように伝えてある。
「学校でずっと花村ちぐさを観察していたが、身体能力は所詮、今どきのアイドルヒーローって感じだね。可能であれば倒してしまっても構わない。彼女は体育の授業ではいつも、前半に体力を使いすぎて、後半はスタミナ切れを起こしやすい。また不意打ちにも弱いから、虚をついて動揺を誘えば簡単に勝てる」
実際は逆だ。花村ちぐさはペースを乱さず、常に全体を見渡して、最後まで決して油断しない。好戦的かつプライドの高いアルケニーであれば、僕の助言に絶対に乗ってくると思った。
「目的は親の復讐か?」
「それもありますが、一番の目的は恩人との約束ですね」
「恩人?」
蛇口をひねる音がする。
「僕が怪人に堕落しなかったのは、ある人が救ってくれたからなんです」
あの人は――お姉さんは、黒炎に包まれる僕を抱きしめながら言った。
『君は、最後まで自分らしく生きるんだよ』
人として。
正義を愛し、悪を憎む。
人間を愛し、怪人を憎む。
僕は、魔王軍を内側からぶっ壊す。
そのためには、四堕羅の一人であるアルケニーは邪魔者だった。
人事課としての仕事をこなし、ある程度の地位と権力を保ちながら、組織を弱体化させる。
「そういえば、怪人側に内通者がいるという噂があるな。よくあるガセだと思っていたが、あれは君か?」
「どうでしょうね」
さすがにハイと答えるほど、僕はミモリに対して心を開いてはいない。
「よし、終わりだ」
洗い物が済んで、ミモリがソファに近づいてくる。
終わり、とは「この話はもうおしまい」ということか、あるいは僕の命がこれまでかと勘繰ったりもしたが、実際はブランケットを肩までかけ直すだけだった。
「だから、その優しさが恐いんですけど」
「なんなら手も繋いでやろうか?」
悪戯っぽく目を細めるミモリ。
どうせいつものように僕を茶化して楽しんでいるのだ。あるいは弱っている時に恩を売っておいて、僕が元気になったらいつも以上にぐうたらになるに違いない。
そのはずなのに、なぜだろう。時折あのお姉さんと重なって映るのは。
僕は白く華奢な手をとって、目を閉じた。
「じゃあお言葉に甘えます。おやすみなさい」
だから、ミモリがどんな反応をしたのかは知る由もない。
本物か偽物かわからない優しさに包まれながら、僕はゆっくりと眠りについた。
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