第36話 遠い日の想い出


 先ほど書き上げたばかりの荒削りの文章を近所のコンビ二で印刷する。まだ温かさの残るA4用紙を大切に抱いて、俺は自宅へと走った。


 推敲なんてまだしていない。きっと酷い出来だろう。誤字脱字は山ほどあるだろうし、言葉の誤用や「てにをは」さえロクに出来ていないかもしれない。


 そんな未完成原稿を人に見せるなんてこと、失礼に値するかも知れない。

 だけど、それでも。俺はこの熱いままの感情で。熱く燃え上がったこの作品が醒めてしまう前に読んで欲しかった。


 周りが見えていなかったせいか、コンクリートの突っかかりでこける。

 泥だらけの水たまりが広がっていた。原稿だけは汚せなかったから、背中から落ちた。少し冷たかったけど、気にならなかった。新しい服がすり切れたとしても。皮膚が切れて血が出たとしても。――俺は今、自分の熱い気持ちに応えたいんだ!


 自宅に辿り着くと、俺はすぐさま二階へと駆け上がった。

 目的地を前にして、上がる息を少しだけ落ち着ける。


 ――大丈夫。心の準備はできてる。

 扉をノックすると、声が返ってきた。俺は、勇気を振り絞ってその一歩を踏み出した。

 デスクチェアがくるりと回転して、ユメの大きな瞳と目が合う。


「……どうしたの? 顔色、あんまり良くない」


「小説を書いたんだ。ユメに読んで欲しくって」


「ずっと、書いてたの?」


「うん。気付いたら朝になってて、さっき印刷してきたんだ」


「読む。すぐに読むよ」


 ユメがデスクチェアから身体を起こして、俺のほうへ向かってくる。そのまま二人でベッドの壁に背を付けて隣り合った。A4用紙の束を受け取った彼女は早速ぺらぺらとめくり、顔を上げる。


「……え!? これって」


「ユメは、読むの二回目かも知れないけど。昔よりずっと面白くなっていると思う」


「どうして……!? これ、アオハルが書いた小説だったの!?」


「ユメが引っ越してから書いたんだ」


「二回目かも知れないけどってことは……わたしが読者だって知ってたの?」


「いや、実は昨日……色々あってユメの部屋のモニターが目に入っちゃって」


「……うそ、勝手に見たの!? イ、イロイロって何っ!」


 途端に真っ赤になる頬を両手で押さえるユメ。


「恥ずかしい……って、待って。ということは……わたしのあの感想って……」


「心に染みた。それで俺、これを書き直そうと思って――」


「ぎゃあ、死にたいっ」


 それから多少追求されたが、ユメは微笑みながら俺の原稿を読んでくれることになった。俺は、隣でユメが文章を追いかけるのを見守っていた。

 数時間が経過したとき、物語はついにクライマックスを迎えた。


 主人公は、いつも隣にいると思っていた幼馴染の女の子のことが大好きだった。でも、まだ幼かった彼は彼女との距離を上手に取ることができず、クリスマスイブに酷い突き放し方をしてしまう。すぐに謝れば良かったのに、それも叶わず月日だけが流れていく。


 数年後――主人公は幼馴染の女の子と再会した。


「せっかくのクリスマスだったのに、酷いことをしてゴメンね」


「凄く嬉しかったのに、素直になれなかった」


「周りのヤツらに冷やかされるのが恥ずかしかったんだ。でも、そのあと凄く後悔した」


「傷付いたよね、つまらない意地を張っていた俺の気持ちなんかより何倍も」


「許してくれなんて言わない。俺の勝手なワガママだけど、謝らせて欲しい」


「ごめんなさい。それと――クリスマスプレゼント、ありがとう」


 主人公は、それだけの言葉に誠心誠意すべてを注ぎ込んて言った。今までずっと言えなかった言葉たちが、胸の奥から湧き上がってくる。


 言いたいことが山ほどあった。言い訳めいた言葉回しもたくさん思いついた。だけど、削りに削った必要最低限の気持ちだけを正直に告白した。そのほうが伝わると思ったからだ。


 白い原稿に、ぽたぽたと黒い染みが作られていく。

 ユメの涙だった。


「…………あれ、わたし。なんで」


 自分の頬から涙が流れていることに当人がびっくりしていた。

 そして、困ったように笑みを浮かべながら、ユメは言った。


「遅いよ。…………嫌われちゃったと、思ったんだよ」


 ユメの声音が、徐々にか細くなっていく。


「お母さんと一緒にプレゼントを買いに行ったの。選ぶのに夢中になってたら夜になっちゃって、夕食は店屋物になっちゃったっけ。……アオハルは何くれるかなって楽しみだった」


 遠い日の想い出に浸りながら、ユメが言った。


「大好きなアオハルに怒鳴られるなんて思ってもみなくて。いつも優しかったアオハルがまるで別人みたいで。アオハルのこと……凄く怖かったの」


 原稿を胸に抱きながら、ユメが身体を竦ませる。


「わたし、子供だったの。精神年齢が幼稚園児のまま育ったというか……アオハルとはずっと一緒にいるものだと思ってたから。でも、きっとアオハルはそれが恥ずかしかったんだよね。気持ち、気付いてあげられないでゴメンね。アオハルだって辛かったよね」


 ユメがぺこりと頭を下げた。悪いのは完全に俺だ。あのとき誰にも理解されなかった気持ちが、矛先を向けた本人に謝罪されるだなんて。


 瞳が涙で潤んでしまったのをなんとか隠しながら、口を開く。


「純粋なんだよ、ユメは。自然界の天然物みたいな子だったから」


「そうかな。今じゃ結構、悪い子めいた部分だって持ち合わせてるんだよ?」


 涙を拭いながら綺麗な歯をにかっと剥き出して「にひひ」とユメが笑った。


「……結局ね、酷いことをされてもアオハルのことが全然嫌いになれなくて。わたしは子供だったから、アオハルに拒絶されたなんて思ってなかったよ。明日になったらまた仲良しに戻れると思ってた。でも、何日経ってもアオハルは全然口を利いてくれなくて。それで……わたしもだんだん自分から話をすることが出来なくなっちゃって……仲直り出来ないまま、お父さんの海外転勤が決まっちゃった」


「……見送り、空港までは行ったんだ。でも……直前で怖くなって」


「来てくれてたんだ。……そっか、そうだったんだ」


 少し満足そうに微笑むユメ。それから、彼女は俺と離れてからの生活を教えてくれた。海外の学校にもイラスト好きの日本人がいて、その子と仲良しになれたこと。趣味だったイラストを通じて、国境を越えた友達がたくさんできたこと。以前母さんも言っていたけど、高校生になるころには日本に戻って来ていたこと。


「それでね、日本に戻ってきてようやく新しい生活にも慣れてきたってときに、お父さんがまた海外に行くって言い始めたから、わたし凄い抗議したの。そこで咄嗟にアオハルの名前が出たときにわたし思ったんだ。やっぱりアオハルとこのままなのは嫌だなぁ……って。それで決心したの。もう一回、ちゃんと会おうって」


「……不安じゃなかったの?」


「不安だったよ~! 急に居候するだなんて言ったら余計に嫌われちゃうかもしれないと思った。実際に会っても、何から話せばいいのかわからなかったし、そもそも……わたしのことなんて忘れちゃってるかもしれないし」寂しそうな表情でそんなことを言うユメ。


「そんなわけないだろ。ずっと……考えてたよ」


「……そうなの?」


「…………や、やっぱ今のナシ」


「ええ~! なんで! もっかい! もっかい言って欲しい!」


「……なんか、急に子供っぽくなった」


 ぽつりと言うと、ユメは首を傾げた。それから数テンポ遅れて、


「いつまでものほほんとしてる子供じゃないよ!」とぷりぷりする。色々遅い。とろい。チアキだったら気持ちよくスパーンとキメてきそうだ。


「嘘うそ。ユメはちゃんと大人になってるよ。その、女の子っぽくなったというか……化粧するようになったし」


「わ、一応気付いてくれてるんだね。でもあれだね。改めて言われると恥ずかしい!」


「そりゃあ気付くよ。色々変わってるんだし。髪型とか身体とか」


 チラリとユメに視線をやってみると、頬を少しだけ染めて顔を俯けていた。


「身体…………」


「あ、いや……ヘンな意味じゃないよ?」


「え、あ、あはは……そ、そんなの……わ、わかってるよう~!」


 冗談っぽく肩を叩いてくるユメ。絶対ヘンな誤解してるだろこれ。


「でも嬉しいな。アオハル、子供のときから髪の長いお姉さんが好きだったもんね」


「え、何その情報。どこから仕入れたの」


「“禁則事項”ですっ」


 二人の笑い声が丁度良く重なった。


「……最初は凄く気を使ってたんだよ。その……チアキちゃんと付き合ってると思ってたし」


 恥ずかしがりながら声を小さくしていくユメに、俺は驚きの表情を浮かべる。


「ユメの口から恋愛系の発言が出るなんて、小学生の俺が聞いたら驚くな。きっと」


「何それ! さてはバカにしてる~!」


「してないって」


「この前デートしたとき、ガッチガチだったのは誰かなあ~?」


「アイツは死んだ。もう居ない!」


「……でも、嬉しかったのはホントだよ。色々調べてきてくれたんだよね。アオハル」


 それから俺たちは色々なことを語り合った。今まで遠慮して言えなかったようなことも、正直に言い合った。嬉しかったことも。嫌だったことも。気になる些細な事柄も。


 俺たちの間にぼんやりと残っていた壁が、ようやく壊れたのだ。


「そうそう、国語できないとは聞いてたけど、本当にダメダメ過ぎてどうしようって結構本気で悩んでたんだよ、アレ」


「マジかよ! かなりショックだわ……」


「むっふっふ。精進しなさい」何故だか誇らしげなユメ。


「……なんだか、今こうしていられるのって奇跡みたいだな~」


「……思い出した。ユメって、そういう恥ずかしいこと平気で言うような子だったわ」


「えっ、嘘! 今のそんなにヘンだった!? わたし、全然そういうつもりじゃなくて……!」


「次作では恥ずかしい台詞を連発するヒロインでも出してみようか」


「あ、酷い! ちゃんとわたしの許可取ってよね!」


「じゃあくれ」


「ダメ~!」


「なんなんだよ!」


「にひひ~!」


 特徴的な笑い方でユメが笑った。学校では大人しいけどしっかり者のユメが、こんな笑い方をしたらクラスメイトのみんなは驚くかもしれない。


 でも、俺にとってはこの笑い方こそユメなのだ。子供のときも。今も。これからも。


「あ、ゴメン小説途中だったね。すぐ読むから! 二分で残り全部読むから!」


「落ち着いて読んでちゃんと感想聞かせてください!」


 そしてユメは小説を読了した。俺が最初に言われたことは――、


「この小説、推敲全然してないでしょう」


「やっぱりわかる……?」


「バレバレ~」


「うっ……その、勢いを大切にしたくて……それで」


 言い訳がましい俺の肩に、ポンと優しく手が乗った。


「大丈夫。これ、今までで一番面白いから。でももっと面白くできるから一緒に頑張ろ!」


「うん!」


 ユメからお墨付きをもらったこの小説を、もっと面白い物語にしなくちゃいけない。きっと大変だ。でも全然嫌じゃない。この物語がどう変化するのか、今から楽しみでしかない。


「じゃあ早速なんだけどさ、ユメ的にここの展開って強引に見える? 作者の都合を通すためにキャラが動いちゃってる感じがするかもなーって個人的には思うんだけど……」


「うーん……ここは、もうちょっと主人公の気持ちを隠してみようよ。まだここじゃないよ、この子の感情が爆発するのは」


「おおっ……なんか編集っぽいな、今の台詞」



「――――なるほどなぁ。確かにそういう想いもあるかもしれない。盲点だったわ」

「自分で作ったキャラなのに……」


「そ、そういうときだってあるの!」



「――――じゃあここはどうよ! 結構自信あるんだけどこのシーン」


「あ、ここは文句ないですホントにすっごく良い! キュンキュンしたもん。アオハルってこういうの上手だよね」


「ふっふっふ。恋愛マスターアオハルさんと言ってくれて良い」


「……恋愛ますたぁ」


「何その言い方。バカにしてんの」



「――――アオハルは不明確な言葉を使いたがるよね。なんで? 優柔不断だから?」


「失礼な! でも確かに「……かもしれない」とか「……だと思う」とか多いかもしれない」


「ほら、今も!」



「――――眠くなってきたな。コンビニでも行く?」


「こんな夜中に!?」


「え? 別にフツーじゃない?」


「ふ、不良だ……」



「――――因みにさ、このヒロインはなんでいびきかくの?」


「モデルはあなたですよ」


「え!? わたしいびきなんてかかないけど!?」


「今度録音しとくわ」


「えっ……ちょっと待って、本当ってこと? それいつ? いつなの!?」


「アッハッハ――――」


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