第33話 叶うそのときまでずっと燃やし続けること


 当ても無いままユメとデートで訪れた公園に来ていた。フジの下のベンチで、見覚えのある背中を発見する。


「げ」思わず声が出た。

 小さな頭のポニーテールがくるりと振り返って、ぶすっとした表情を寄越してくる。


「げって何よ。はあ、あたしそんなにゲロっぽい女なの? 失礼しちゃう」


「そんなこと言ってないだろ、ていうかおまっ――チアキは……なんでここに」


「……別にいいじゃん。アオハルには関係ないし」


 俺は小さく溜息をついて、彼女の横に腰を下ろした。びくっと隣で身体を硬直させるチアキ。


「いやいや何勝手に座っちゃってんの? ベンチ座る代十億万円なんですけど。ローンも可」


「『クレヨンしんちゃん』じゃないんだから」


「……つまんない。……で、なんなわけ」


 ふんと顔を背けるチアキ。こうして彼女とまともに言葉を交わすのは久しぶりのことだった。


「小説さ、ダメだったよ」


 ユメに話すときは躊躇っていたのに、不思議と彼女に対してはスッと言葉が出てくる。


「……そう、なんだ」


 ユメが身体を竦めた。気を遣ってくれているのかもしれない。


「今考えるとなんでイケると思ってたんだろう。書き上がったときはさ、やべえ俺の小説そこらのプロより全然面白いじゃんとか思ってたのに、今じゃ欠陥ばかりの駄作にしか思えない。……聞いてよ、受賞する確率って1%以下なんだ。普通に考えて無理だよな、そんなの」


 面白い物語を書くことのできる天才か。その天才に指が届きそうな選ばれし努力家たちの中でも一握り。そんな馬鹿みたいな戦場なんだ。俺が目指した世界は。


「一回ダメだっただけでさ……もう小説を書く気力が無くなっちゃった。応募する前は落ちたら次の作品を書けば良いなんて思ってたのにさ。実際現実を突き付けられたらこの有様だよ。こんなんで小説家目指してるとか言ったら、他の志望者たちに殺されそうだよな。一緒に頑張ってくれた……ユメにも申し訳ないことしたよ」


 正直な気持ちを吐き出していくたびに、心の中が軽くなっていく。でも、同時に悲しさがぐっと押し寄せてくる。また視界が滲んでしまっていた。少しだけ声が震えていた。バレたら嫌だなと思ったが、チアキは特に気にした様子でもなかった。


「……だったら、もう書かなきゃいいじゃん」


 スニーカーのつま先で地面に意味不明のマークを描きながら、


「小説家なんて、例えなれたとしてもそれで食べていけるかわかんないんでしょ? そういうことに時間をかけるよりもさ、もっと有意義なことってたくさんあると思うよ」


 小説家としてデビューしたところで、出鼻からヒットをたたき出せる可能性は限りなく低い。小説を書くことだけで生きていけるわけじゃない。

 でも……だからこその兼業作家という道だった。


 物語をつくる人になりたいという夢を叶えるための一番現実的な近道が、最低限のリスクで目指せる小説家なのだとユメに言われたときは目から鱗が落ちた。

 夢の印税生活ができたらもちろん何より嬉しいけれど、俺は自分の考えた作品が世の中に本という形で発表されること自体に、創作家としての魅力を感じている。

 だからこそ、チアキの言うそれ以上に有意義なことというのが気になった。


「……例えば?」


 チアキはぽかんとした顔をして、うーんと唸りながら考え始めた。


「考えてなかったんかい!」


「いや、待って! 今出てくるから! すぐそこまで来てるから! 静かにして!」


 アイデアがそこまで出かかっている小説家みたいなチアキを見て、俺は笑った。


「えっとねー……まあ普通に大学は行くよね。この厳しい世の中だし。学校のレベルは高いほうが良いんだろうけど、この際そこは気にしなくても言い気がするんだよねー」


「なんで? 大学って勉強したいやつが行くところだろ」


「もちろんそれもあると思うけど、やりたいことを探すために大学に行くっていうのも一つの道だと思うのよ。そこで出会う新しい友達とかサークルでの先輩後輩関係とか、言っちゃえば社会に出る前の最終準備的な? ほら、きっとお酒とかも飲んだりするんでしょ? ノミニケーション的な何かがそこで培われるのではないかと」


「……そんなの教わりたくないんだけど」


「良いんだよ。テキトーに参加しとくくらいで。要は社会的常識を身につけておけば良いだけなんだから。実際それを楽しむかどうかは本人次第でしょ。でも、なんにも知らないまんまじゃ、いつか痛い目に遭うかもしれないよ」


「……知ったようなことを」


「普通に大学行って、就職して、通勤するようになった頃にはあたしたちって立派な大人になってるわけじゃん? それってさ、子供のあたしたちから見たら凄いことだって思わない?」


 一年に数回しか家に帰って来ないのに、キッチリ我が家にお金を入れ続けてくれる父親のことを考えながら、なるほどと思った。


「きっと中学や高校とは比べものにならないくらいたくさんの人と出会って、色んなことをすると思うのね。だから、あれもこれもとりあえず手を出してみて、嫌だったら手を引っ込めるし、面白そうだったら掴み取る。そんな風にしてたら視野が狭くならないっていうか、世界を広く感じられると思うんだよね。……で、それが普通の生活サイクルになってることに気付いたとき、そういう人生って案外楽しいものなんじゃないかなって」


「……普通だな」


「普通だよ。でもその普通を手にするのってわりと大変なことだと思うよ。ほら、ケモケモ14で考えてみなよ。友達が普通に居て、ゲーム内での立ち回りも普通に出来て、普通に友好的で大きな問題を起こさない無難なプレイヤーって結構重宝するでしょ。現実世界でそういうの目指してみるのも結構やりがいあると思うよ。ほら、MMORPGのハイエンドコンテンツだって仕事みたいなところあるし、会社だって似たようなもんだって。だからあたし、働くのって結構楽しみなんだぁ。オフィス仕事とか憧れあるし」


「いつの間にやらなんでもゲームで例えるようなゲーマーになっちゃったな、チアキは」


「ね。もうすっかりルーチンの中に入っちゃったよね、へへ」


「しかしチアキがオフィス仕事ねえ……」


「おっす美人OLチアキだ、よろしくな!」


「ほぁ」


「うわっ、さては貴様微塵も興味がないな!? えぇ!?」


 バカでないことはわかっていたけど、彼女の意見は思っていた以上に大人な回答だった。

 ギャグマンガみたいな表情から、真面目ベースに戻るチアキ。


「特別である必要なんてないと思うんだよ、あたし。だからさ、…………夢を諦めるってことは何も悪いことじゃない。……別の道を、探すってことなんだ」


 何やらこそばゆい台詞のように思えた。でも、チアキが本気で言っている言葉なのだとすんなり理解できる。今の俺は、彼女の言葉を茶化すことができなかった。


「別の道……ね」


 そうぼやくと、隣のチアキは少し照れたような仕草をした。やっぱり恥ずかしかったらしい。


「あ、あたしはさ…………その、アオハルには……幸せになってほしいからさ」


 言葉を詰まらせながら、そんなことを言う。まるで愛の言葉だった。チアキの優しい声音が胸に染みこんでくる。


「ま、まあ……そのとき隣にいるのがあたしだと、個人的には嬉しいんだけどね」


 目を細めて、にししとイタズラな笑みを浮かべるチアキ。その表情が。声が。チアキを構成しているすべてが、愛おしく思えてくる。


「はい! 今の話ナシー! ナシデース!」


 突然ベンチから立ち上がって、腕でバッテンマークを作るチアキ。しかし、もう遅かった。


 俺の頬には、熱い液体が流れてしまっていたから。


「……アオハル」


 母親が小さな子供を慰めるみたいな声で、チアキは言う。

 そして次の瞬間、俺は温かい体温に包まれていた。


 スポーツ少女らしく引き締まった体躯だと思っていた。でも、触れてみれば男の自分とは比べものにならないくらい柔らかくて、とても良い香りだった。ずっと嗅いでいたら眠ってしまうんじゃないかと思うくらい。


 そんな温かなチアキの体温の中で、俺は呆れるくらい啜り泣いていた。男なのに、女の子の胸の中で泣くだなんて情けないにも程がある。


 なんて優しいやつなんだろう。こんなに惨めな俺の何処が好きなんだ。助けたことはあったかもしれない。でもそれは俺が俺のためにやったことであって、別に好かれたいと思ってしたことではなかったのに。


 涙は止めどなく溢れた。そのうち干からびるんじゃないかと思った。

 瞼の裏に、これだけ涙が隠れているだなんて知らなかった。水分だけじゃ説明がつかない気がする。


 ああ……わかった。

 それは、きっと夢を叶えるための糧だ。夢見る人たちは、立ちはだかる困難や葛藤にぶち当たり、たくさん涙を流して強くなっていくんだろう。


 だとしたら、夢を叶えることのできた人の大半が、俺なんかよりもずっとたくさんの涙を流していたのだろう。


 涙の質はみんな一緒だ。違うのは、その量。

 百? 千? 一万? 十万? 百万? 一千万? 一億? 俺は、圧倒的に努力が足りていない。いや……努力をするための忍耐力が足りていない。――それだけの熱意が。


 ヨウ兄が声優を諦めたことの辛さが、今なら理解できる。こうして他人に優しくしてもらった今だからこそ、俺は冷静になれる。


 あたりまえのことだけど。誰もが知っていることだけど。

 ――夢を叶えるって、凄く大変なことなんだ。もっともっと頑張らなくちゃいけないんだ。


 夢を追いかける途中――、生活環境が変わったら。心を病んでしまったら。大きなケガをしてしまったら。憧れていた世界で見たくもない現実を突き付けられたら。大切な誰かが死んでしまったら。


 現実は小説より奇なりと聞く。何が起こるかなんて、俺たちにはわからない。

 そんな中、多くの人が道半ばで夢を諦めてしまう。

 立ちはだかる障害の種類や大きさは人それぞれだし、乗り越える方法も無数に存在するのだと思う。まさに十人十色。俺は、それを……なんだか物語のようだなと思った。


 どんな現実が立ち向かって来ようと、それと戦わなくちゃいけないんだ。

 才能や技術は大切だ。でも、夢を叶えるために一番必要な能力は――、


“夢を叶えたいという執念を、叶うそのときまでずっと燃やし続けること”。

 それをできる一握りの人たちだけが、夢を叶えることができるんだ。

 だから……俺にとって、物語をつくる人になりたいという夢は――それほど叶えたい夢ではなかった。ただそれだけのことだった。


 チアキの胸の中で、俺はそんな現実を受け入れ始めていた。


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