第3話 ユメチャンヨンデキテ
「落ち着け、落ち着くんだ俺」
自室をぐるぐると歩き回りながら一人呟く。思っていたよりも事態は深刻だ。これから一年間ユメと同じ屋根の下で暮らすというのはどうやら嘘ではないらしい。
こんなことってある? “ユメの夢を見た日に正夢”になったんですよ! ――ってクソつまんねーよ俺! 頼むから死んでくれ!
限界まで達した俺は、両手で頬をパン! そのままベッドに頭から突っ込んでいく。知らない間に心臓のドキドキが最高峰になっていた。
「……大丈夫だ。アオハル。……どうにでもなる。成せば成るんだ……」
ある程度落ち着きを取り戻してからリビングを訪れると、ここでまた一つ試練が。
「もうすぐ夕飯だから、ユメチャンヨンデキテ」
俺の脳が母親の言葉後半を違う国の言語にしてしまった。ユメチャン・ヨンデキテ!
「なんで俺が」と軽く抵抗ししつつも結局押し負けて、渋々階段を上がり二階へ。ユメの部屋の前に立ちすくみ、ドアをノックしようとしたが――、
「……っ!」
――できないっ! 無理だよ! 突然女子の部屋をノックするだなんて!
一度深呼吸をする。ゆっくりとドアノブに手をかけ――られないっ!
部屋の前で一人そわそわしたり飛び跳ねたりする。しかし、ここで俺は名案を思いついた。 そう、今日ユメはクラスのグループチャットに加入していた。それはつまり、俺から個別でメッセージのやりとりをすることだって可能なのだ。俺はスマホからクラスのグループチャットを呼び出し、ユメの名前を探す。
――これか、『ユメ@WanWan』。
ワンワン? そういえば犬好きだったなあ。なんか……可愛いなあ。
ふんふんと鼻息を漏らしながら、『ご飯だって』と面白みの無い五文字を打ち込んだ。速攻で既読が付いたとき、俺はとある失態に気が付いてしまった。
――ワイ、扉の前にいるやんけな。
そして次の瞬間、扉ガチャリ☆
そこには――まるでウンコめっちゃ我慢してる奴みたいに全身汗だくのまま、奇妙な表情で固まった俺が居た。紛れもない変質者である。
わかりきってるけど何この微妙な感じ。俺何してんの。これ彼女は俺をどう解釈するんだ? え、気まずっ。もう本当に最悪なんだけど誰のせいなんだよ俺のせいだよ。
俺は身形を正し、コホンと咳き込む。
「ご飯っ……だそうです」
チャット、送った意味なかった。
* * *
食事中の会話は、基本的にユメについてだった。
「それにしてもユメちゃんってば綺麗になって」
「そ、そんなこと……ないです」
「小さかった頃は、もっとわんぱくで不思議な感じの子だったのにねえ。もうすっかり大人」
「ぜんぜん、子供ですよ……わたしなんて」
隣で繰り広げられる会話に耳を傾けながら、箸を進める。
――ユメの一人称が、“ユメ”から“わたし”に変わっていた。
「敬語なんてやめてよー! ほら、昔みたいにアオハルママって言ってくれていいんだから」
「ァ、……ァオハル……ママ」小さな言葉でなんとか言い切るユメ。
「うん。恥じらい百二十点満点」
グッと親指を立てる母親。何がしたいんだアンタは。母さんには呆れるばかりだったけど、そのおかげか食事の雰囲気は終始良いものだった。
「中学生くらいになってからユメちゃんあんまりウチに遊びに来なくなっちゃったからさ。わたしもう寂しくて寂しくて」
母さんがデリケートな部分に触れ始めた。思わず身体に緊張が走る。俺とユメが不仲になってしまった原因を母さんは知らないはずだが。
「実の娘にしようって企んでたからさあ。ユメちゃんママに何回もお願いしたんだよ? アオハルの妹……いや、姉にさせてもらっても良い? って。……ところで、彼氏とか居るの?」
前言撤回。戸惑いを見せるユメの表情を見て、明らかに楽しそうな顔をする母親。
俺の後頭部に圧力がかかる。「もしアレだったら、アオハルとかどう?」
カッと頭に血が上った俺は、「ふざけんなっ!」と怒鳴っていた。
そそくさとその場から逃げようとすると、居心地の悪そうなユメが母さんに必死に喋りかけている姿が見えた。
……俺は、やっぱり大バカだ。
* * *
わかっていたのに、後悔はすぐにやってきた。
俺とユメの関係を茶化されて腹が立ったのは本当だけど、テキトーに返しておけば良かった。いつもの母さんとのやりとりが、ユメが介入したことで上手に出来なかった。
――怖がられただろうな。嫌われている上にあんな風に怒鳴ったりしたら。突然キレるとかイキリオタクかよ。俺いつからこんなヤツになっちゃったんだよ……悲しい。
部屋に戻ってからは溜息しか出てこなかった。そんなときチアキからチャットが送られてきて、俺はいつものようにネトゲ仲間たちとゲームに興じた。その間は憂鬱な気持ちを忘れることができた。
二階の廊下に常備されている内線が鳴った。丁度ゲームが一区切りついたところだったので、仲間たちに一言告げて席を立つ。
ボタンを押して相手の言葉を待つ。母親だった。
『さっきはゴメンね』
「いいよ、もう。……俺も、怒鳴ったりしてゴメン」
『あら良かった。で、悪いんだけど食器用洗剤が切れちゃったから持ってきてくれない?』
早くも平常運転だな。そうだよ。母さんに腹を立てるだなんて、バカらしい。
「……洗面所の下?」
『そそ、お願いね~』
通話が切れる。俺は脱衣所へ向かった。
スライド式の扉を開く。ふわりと甘い香りが鼻腔の奥を刺激する。
眼鏡のレンズが少しだけ曇り、視界の中で瑞々しい肌色がきらりと光った。
「……?」
そこには――、タオルを一枚持ったまま硬直しているユメが居た。
突然のことに、思考が停止する。あれ、俺何しに来たんだっけ。
お互い見つめ合う。潤んだユメの綺麗な瞳の下、白い肌が少しだけ紅潮している。表情はガチガチに固まっていて、白いタオルが邪な視線からその女体を守るナイトの盾に見えた。
彼女の手から溢れてしまいそうな豊満な二つの乳房が、俺の脳を埋め尽くす。
え? これ女子の胸? 本物のおっぱい? なんでここにあんの? え、ユメってそういうの生えてたんだ。あ、やべえ。頭がおかしくなってきた。
――じいっと三秒ほどは見つめていただろうか。ようやく、現在の状況を理解し始める。
俺の視線は彼女の谷間から、すうっと下のほうへと流れていく。艶やかな肌を舐めるように見ていたかもしれない。透明な雫が付いた白い肌には赤みが差していて、ふやけたようにとても柔らかそうだった。そのタオルの向こうには、一体何があるんだろう。
濡れた黒髪からポタリ、ポタリと水滴が床に垂れた。
ふと、何か踏んづけていることに気が付く。それは、世の女性たちの双丘を守るための神具だった。山なりに大きく膨らんだ、薄ピンク色のブラジャー。その付近に散らかっているものは、彼女が先ほどまで着ていたブラウスやら、パンツ……それらに完全に目を奪われてしまった俺は、顔を上げることができなくなる。
「……っ!」
突然、ユメが動いた。それはもう俊敏なんて表現は可愛いくらいの高速さで、ブラジャーをバッと掴んで、思い切り引っ張った。
――――ブチンッ!!
悲しい音が響き渡る。真っ二つに引き裂かれた悲しみのブラジャー。
片割れをユメが。片割れを俺が踏みつぶしている。
「…………」
「…………」
異様な空気が脱衣所に流れる。お互いに視線を外したまま、立ち竦む。視界の端には全裸のユメが確認出来る。だけど、ユメがどんな表情をしているかまではわからなかった。
やがて耐えきれなくなったのか、ユメは己の貞操を守るみたいにその裸体を丸めてから、
「……………………きゃ、きゃぁっ……」
濡れた唇から漏れ出たか細い声を聞いたとき、彼女は本気で恥じらっているんだという当たり前のことが俺の胸に突き刺さった。
小さく縮まりこむユメを見下ろしながら、途轍もない罪悪感に苛まれる。どばっと汗が吹き出し、血が全身を巡り、瞬きが勝手に多くなる。
そっと身体を引いて、洗面所のスライドドアをゆっくり閉めて踵を返した。
「ごめん」と言うべきだったのかもしれない。だけど、言えなかった。
生温かい世界からようやく帰還した俺は、早急に逃走を決め込む。自室への扉を乱暴にこじ開けて、ベッドへとダイビング。
申し訳ない気持ちでいっぱいなのに、悶々としてしまう俺だった。
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