第6話 マシェリ・マリー
――わたしは思い出す。
戦いの前、ちっぽけな悩みなんてすべて振り払えるはずの彼女が、迷子のように瞳を潤ませてわたしを抱きしめたことを。
そんな顔をしていることを、わたしに悟らせないようにして、彼女は泣いていた。わたしは知ってる。戦争というものが、正しい人にどんな影を落とすのかを。
「フィー、行っちゃだめよ」
わたしは彼女の手を握りしめていた。ある小天体の地下に隠された《キャロライン》の軍事基地では軍人たちがせわしなく行き来して、簡易食料や小型の武器などを積み込んでいた。技術者たちは灰色の装置からツタのように生えたコードと戦闘機とを繋いで、不可解なグラフが表示されたモニターを見ていた。
フィーネにくっついている軍人――この艦を率いる男性は、怖い顔でわたしたちを見ている。本来ならここは軍人たちの聖域で、王族であるわたしは邪魔者でしかないのだろう。彼の目はわたしに「今すぐここから出ていけ」と言っているようだったが、わたしはフィーネが出撃しないことになるまでがんとして出ていく気はなかった。
フィーネはすこし俯いて、わたしを少しだけ引き寄せた。そして、
「サラ。あたしのことはいいから」
と言って離れると、何事もなかったかのように微笑んだ。それから、わたしたちはしばし無言で歩いた。
平らにされた岩盤を蹴り、走っていく兵士たち。《キャロライン》の誇りであると、義兄が演説するのを聞いたことがある。でもわたしにとってそれは巨大な種だ。戦争という最大最悪の果実を引き寄せ実らせる、わざわいの種。兵力などさっさと捨ててしまえばいい、世界中すべてが。そうしたら人間は戦う必要がない――なによりフィーネが。そして、わたしのようなひねくれた犠牲者も存在しなくてすむ。
船底に宙間戦闘機が次々と吸いこまれていくのを見ながら、揺れる金属の階段を上った。敬礼する兵士たちを横目に、軍人は先立って早足で歩いていく。引き離されそうになるたびに、わたしとフィーネは小走りになる。そして、宇宙船の側面についているタラップの手前まで来る。
「サラ姫様、そろそろご満足いただけましたか」
ぶしつけな声がわたしに降りかかった。
わたしは唇を結んで、その軍人を見上げた。わたしの倍ほどもありそうな身長で、肩にはキラキラした年代物の肩章――それが簡単にいうと「偉い軍人の証」であることは、フィーネが教えてくれた――が飾られている。階級を聞いてもどういう仕事をしているのかわたしにはわからない。けれど、大尉が来たって中将が来たって、立場上わたしのほうが上なのは変わらない。なにをしても怒られない立場を精いっぱい利用して、ずっとフィーネと一緒にいないと満足なんてするわけがない、とにらんでやる。
「ふむ、ご満足いただけたようですな。そうでなければ、わたしどもにはどうしようもない。……サラ姫様、どうか王を困らせられますな」
「今ここで、お義兄様は関係ないわ。わたしはフィーが戦いに行かなければそれで満足なの、だから返してよ」
フィーネはいつのまにか彼の横にいる。悲しそうな目でわたしを見つめている。
「ふむ。それは困りましたな」
彼はじっとわたしを見つめた。それから、かたわらで身体をこわばらせるフィーネを見た。
突然、筋肉の鎧をまとった腕がしなる。視界からフィーネが消えた。
わたしがまばたきするあいだに、彼女は冷たい床に転がっていた。
――パアン!
遅れて、頬と手のひらの触れあうエコーがわたしの頭の中に響く。わたしの喉を出ようとした空気が、驚いて奥に引っこんだ。
「……言うことはないな、アンリエッタ」
彼は表情ひとつ変えず、静かに言った。
「はい。異存はございません、中佐殿」
呆然と立ちすくむわたしの目の前で、フィーネは泣き言ひとつもらさずに立ち上がった。
「行け」
彼女は命じられるがまま、わたしに視線を向けることもなくタラップを上っていった。小さくなる背中は、それでも背筋をすっと伸ばして去っていく。彼は、わたしに頭を下げる。
「お見苦しいところをお見せしました、サラ姫様。あの者がサラ姫様にそのような発言をさせるなど、あってはならないことであります。あなたはまだ幼い、それはあなたの身の上では仕方のないことかもしれませぬが。どうかよく勉強なされませ。そして王を支え、この国をお導きくださいますよう。……さあ姫様、このようなところでお座りになられては身体が冷えてしまいます……、失礼」
脚に力が入らなくなって、わたしも冷たい床にへたりこんでいた。彼に支え起こされて初めて、なにが起こったのか――気づく。
フィーネは殴られた。それはわたしのせい? それとも、このわからずやの頑固おやじのせい……義兄のせい? そして連れていかれる。なにもない場所へ、真空の宇宙へ。
彼女の姿は小さくなっていた。タラップの先は遥か上にある。彼女はふり返らなかった、豆粒のような大きさになって、残酷な小人の国の扉が開かれる。
「……待って、行かないで。フィー」
駆けだしたかったけれど、わたしの身体は宇宙服を着たときみたいに重くなって、ただただ震えるばかりだった。
その日賓客を迎えるべく、食堂は女中たちによってひどく気合が入った装いとなっていた。普段は必要な最低限の食器と、繊維に汚れにくい加工が施されたテーブルクロスやナプキンを使う。なぜなら、今みたいに水が豊富に得られる小天体のそばにいるときを除いて、水は貴重品だから。貯水量に余裕のあるときは洗うこともあるけれど、汚れがひどいものは処分する。どうやるかというと、専用の廃棄物処理艦に詰めて、地球へ向かって送り出すだけ。あとは地球に飛んでいく隕石が、大気との摩擦によって一瞬だけ輝いて消えていくのと同じ。処理艦もまた大気が塵ひとつ残さず燃やしてくれる。
《マリー》の使者は、予定通り午前中に「ヒトガタ」の見学を終えた。そして、彼らはわたしたちの前へと現れる。
食事中は、姿勢よく座ること。
ナイフとフォークは、正しく使うこと。
おしゃべりは、不用意に行わないこと。
そして、食事中につまらない顔をしないこと。
わたしは守った。好印象の笑顔を心がけ、扱いを間違わないようナイフとフォークに手を伸ばした。すべて合っているはず。わたしは大丈夫。なにもかも間違っていない、はず。
《マリー》の使者は朗らかな笑顔を見せ、わたしたち兄妹もまた和やかな雰囲気を出していただろう。席にはわたしに悪魔のサインをさせた大臣もいて、微笑を浮かべていたのが気持ち悪かったけれど仕方ない。それは義兄も同じ。そしてわたしもまた気味の悪い笑顔にとりつかれている……。
そうやって《マリー》来訪のすべての行程が終わり、彼らは小さな宇宙船に乗って去っていく。《キャロライン》の来賓用格納庫から《マリー》国籍マークの船が飛んでいくのを見るのは、なんだか不思議な気分だった。
地球と宇宙船、軍と司令部のやりとりや自国と他国との会議などが、複合現実技術を用いた円卓で行われるようになるまでは実際に来客が来ることも多かったようだ。フィーネが言うには、今は特別な場合――例えば、通信電波上に流してはいけない機密情報のやりとりをするとき――のみでしか、人の往来はないだろうということだった。
《マリー》の使者はなにを見、なにを話したのだろうか。フィーネが乗っている「ヒトガタ」を、わたしはまだ近くで見たことがなかった。遠くからキラキラした機体を眺めていただけだ。
わたしは自分の部屋へと戻った。脱いだドレスを女中が持っていってしまってから、ベッドに飛びこんだ。……疲れていた。フィーネは今夜も来るのだろうか、そればかりが気がかりだった。
お行儀のいい子じゃないから、靴を脱いで、掛け布団の上でごろんと寝返りをうつ。動くのがおっくうなので、枕を引き寄せようと手を伸ばしたとき――枕の上になにか乗っているのに気づいた。
それは紙だった。真っ白封筒。デジタルメッセージのご時世に、誰もそんなデッドメディアを選んだりはしない。……特別な理由がなければ。
わたしは封筒をひらひらと動かした。裏にも表にもなにも書かれてはいない。光に透かして見ると、やはり中には手紙が入っているようだった。
今朝、わたしにわからないようにフィーネがこっそりと置いていったものだろうか? ううん、そんなはずはない……なにか大事なことがあるなら、直接言ってくれるはずだ。例えば耳元で囁くこと。それが一番安全なやりかた。それに、もしフィーネが置いたものなら、わたしが出て行ったあとにベッドメイクをした女中が見つけて、テーブルの上にでも置いておいただろう。
なんとなく違和感を持ちながら、わたしは封を慎重に開ける。が、厳重にのりづけされていたせいで、真ん中からみっともなく破れてしまった。珍しいものをもらって多少ドキドキしていたのか、なんだかとても残念な気持ちになる。裂け目から今度はもっと慎重に取りだした紙は、冷たい。
――親愛なるサラ姫様。
黒よりも暗い漆黒で描かれた迷いのない筆致。アルファベットが便箋で大胆に踊る。紋切り型の挨拶に続いた文章を見て、息をのんだ。
――あなたの悲願、私たちが叶えて差し上げます。
差出人、《マリー》使節団代表。
記憶を辿る。彼女は先ほどまで食事をとっていた。わたしの目の前で。
一度見たら忘れない。
第三
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