第5話 希望が見せる幻

 フィーネがパンをこねている。

 素朴な木製のテーブル、転がるめん棒。床に落ちたそれを拾い上げて……オーブンを温めるのは、わたし。

 なんでそんなイメージが出てきたのだろう。うーん……そういえばこの前見た古い映画のシーンにあった気がする。夢の中のわたしは二人で住んでいる小さなログハウスを後にして、坂の下の小屋へと向かう。

 わたしはわたしを遠くから見ている。夢の中のわたしの背景には「のどかな田舎の風景」が映っていて、そこからは音も匂いも感じられない。けれどそれは嫌な静けさじゃなくて、小さくて幸せな、二人だけの世界の証だった。

 小屋には水車がくっついていて、羽の一部をそばの小川にひたしていた。水流の力を受けてくるくると回っている。水車は小屋の中にある小麦を叩いて、小麦粉を作り出す。小麦粉ができたら、わたしはそれをフィーネのところに持って行く。フィーネはとびっきりの笑顔をたたえながら家の扉を開いて、わたしを出迎える――それから頬にキスをする。


 わたしは……わたしたちは、自由。

 そう思うと同時に、映像はばらばらと崩れ落ちていく。

 フィーネが自由になること。

 彼女が人を殺さなくていいこと。命を脅かされなくていいこと。「政治的立場」を考えなくていいこと。戦わなくていい世界。

 わたしは、それをどうやって手に入れたらいい……。思考は尽きない。尽きない思考が川の水を飲み干して、頭の中で乾いた水車がぐるぐると回る。映画の中で見た枯れ川の水車小屋。物語の始めは豊かな水をたたえていた川も、上流に異変が起きるとすぐに枯れてしまった。確か原因は、竜が巣を作ったことだったはず。水力がなくなった村では、小麦は人力でひく。水車は人の汗によって回り、小麦粉ができていく。

 カラカラ……水車が回る。そして、目覚めとともに世界の境界が定まっていく。


 意識が川底から浮上する……。

 わたしはなにげなく首筋を掻いて、ピリリとした痛みに指をひっこめた。指先にしっとりとした血の感触。見ると、爪先にはがれたかさぶたが引っかかっていた。

 わたしの隣にはフィーネの抜け殻があった。ぐちゃぐちゃに脱ぎ捨てられた彼女のガウンと、クリームの入っていないコロネのような形の羽布団。シーツはベッドの半分ほどにまくり上げられたまま。床には彼女の下着が落ちていた。


「フィー」

 わたしは起き上がった。彼女は2人がけのソファに身体を投げ出し、壁面に設置されたモニターを見つめていた。

 わたしは枕元にたたんで置いていたナイトドレスを羽織ると、寂しげな背中を追いかけて彼女の隣へと歩み寄った。ぼうっと眺めている彼女の肩に、拾ったしわくちゃのガウンをかける。

「……朝なのに、こんなに暗い」

 フィーネは寝ぼけたままのまったりとした声で、つぶやいた。

 彼女の視線の先にある大画面のモニターは、《キャロライン》の外に広がる宇宙を映していた。暗い宇宙空間に星が色とりどりに輝いているのは、いつもの光景だ。


「なにが?」

「昨日の朝は、もっと明るかったのに……」

「どうしたの、電気つける?」

 タブレット端末を操作しようとしたところで、わたしはふと言葉を飲みこんだ。

 フィーネの瞳から、星のような雫が伝い落ちていった。

「な、なんで! 大丈夫?」

 わたしは慌てて、指先で彼女の火照った頬をぬぐった。

「あ……ごめんね。なんだか色々と思い出しちゃって。ありがとう、もう大丈夫」

 彼女は濡れたわたしの手に、そっと口づけをした。

「昨日は、ごめんね。びっくりしたでしょ」

「なにが?」

「ん、と……お風呂で突然キスしたこと」

 わたしはつい吹き出してしまった。

「今さらなに言ってるの。わたしの首筋思いっきり噛んだほうがびっくりしたわ」

 フィーネは真っ赤になって口元を押さえ、「ごめん」と呟いた。


「サラはお姫様なんだから今後お嫁に行く可能性だってあるのに」

「そんなはずないわ! だって、わたしはフィーの傍にいたいもの。ずっとずっと」

「サラは自分の立場がどんなに重要かってわかっていなさすぎるよ……」

 彼女は口をとがらせて言う。自分がしたことに対して後悔しているらしい。

「フィー、わたしはね。目が覚めたとき一番に、あなたの唇が紡ぐ『おはよう』が聞きたいの。一日の最後には、あなたの『おやすみ』を聞いて眠りたいの。だから、嬉しい」


 だって、「約束」の魔法がなければ、わたしは息苦しい王家のなかで過ごせないから。両親の死を思い出すたびに湧きおこる感情は、生とは真逆の未来へわたしを引きずっていこうとするから。

 でも、そういうの、やめたの。


「フィー……大好き」

わたしは彼女に抱きついた。彼女も、力強く抱きしめてくれる。

 そのあたたかさが、わたしの思いは間違っていないのだと、信じる力になる。

 わたしは彼女を解放したい。

 そして、ずっと一緒にいたい。

「ねぇ、今日はディナーを一緒にどう?」

 ブラのホックを留めていた彼女に声をかける。彼女は身体をねじり、ナイトドレスからブラウスに着替えていたわたしを見た。

 日中は軍の仕事がある、というのは聞いていた。戻りを待って一緒に食事ができるのか、それとも義兄と2人で食べなくてはいけないのか、わたしは淡い期待を胸に尋ねたのだった。


「今日はだめなんだ、ごめんね」

 フィーネはわたしが落胆するのを見越して、なだめるように告げた。

「明日は?」

「うーん、明日はたぶん大丈夫」

 彼女は船外活動用のスーツ――ボディラインにぴったりと沿う特注のもの――で身体を包むと、その上から軍の制服を着た。やけに念入りな準備が気にかかり、

「今日は訓練なの?」

と尋ねると、彼女は「来客だよ」と答えた。

 同盟国の要人が、超科学文明の兵器「ヒトガタ」の見学にやってくるという。



 カラカラ……わたしの頭の中で水車が回っている。

 川とは、どんなものなのだろう。

 映像や人から聞いた話ではわかっているけれど、実際それを目にしたとき、わたしはどんな印象を受けるのだろう。

 わたしは川を生まれてこのかた一度だって見たことがない。わたしが生まれたのは宇宙船 《キャロライン》だから。

 シャワーを浴びているとき、手を洗っているとき、わたしは「流れる水」のことを考える。無数の水が絶えず動いている川。その川が何本も集まってできている海。

 わたしの父や母が生まれた地球という惑星は、湯船とシャワーの入浴が毎日できるほどたくさん水を湛えているのが信じられない。そんな贅沢に水を使った入浴は、一ヶ月に一度できれば良いほうなのに。


 現在、《キャロライン》は宇宙において限られた水源近くに停泊している。水源とはいっても、この小天体においてそれは氷河――つまり、巨大な氷の塊だ。それを少しずつ溶かして生活用水として貯水槽に蓄えていく。

 この小天体は、先発船団と後発船団のあいだで不可侵領域として同意がなされている。どういうことかというと、水を補給する間を狙って攻撃してはいけないし、逆の立場では敵の攻撃を受けることもないということになる。《キャロライン》を含む先発船団の生き残りは、このたび後発船団の圧力に対抗するために同盟を結ぶことになっていた。

 わたしのいる《キャロライン》は同盟締結に先駆けて、先発船団の中でも実力のある宇宙船国家マリーと話し合いをするらしい。そのためにこの安全地帯を利用し、申し合わせてここに集まった。


 そして、《キャロライン》は「ヒトガタ」の戦力の概要を、また《マリー》は技術力の概要を示し、手を取って同盟戦線の強化を図るのだ。《キリエ》降伏後の宇宙情勢は不安定なままだからこそ、早急な解決が求められている。……というようなことを、今朝義兄が言っていた気がする。わたしはいつも通りまともに聞いていなかったが、フィーネが「これは重要なことだから」と再度懇切丁寧に話し聞かせてくれた。


 じゃぷん――わたしは蛇口から流れ出た水をすくいとり、顔に叩きつけた。

「サラ様、お急ぎになってくださいませ」

 わたしを責めるように、使用人の女性がタオルを渡してくる。

「遅れたっていいのよ。わたしなんている意味ないのに」

 彼女からタオルを受け取って、わたしは洗面所から部屋に戻る。先ほどまでフィーネがいた空間を、わたしはいつまでも抱きしめていたい。そう思って、胸いっぱいに空気を吸いこんだ。

「こちらへ」

 女中はわたしの身支度をすべて整えると、食堂へと導いた。《マリー》の使者は、フィーネと軍のお偉いさんの同伴で「ヒトガタ」を見学した後、ここにやってくる予定になっている。

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