第2話 フィーネ・アンリエッタ

 運動能力。

 栄養。

 生きる気力、等々。


 意識のなかった1年という時間によって、わたしの身体からはそれらが欠如していた。でも、栄養管理士が考案した食事メニュー、医療従事者たちの献身的な治療を受けることによって、徐々に回復に向かっていることは確かだった。

 対して、わたしの精神はといえば、芳しくなかった。身体がよくなるにつれて、痛みのせいで忘れていた色々なできごとを思い出していった。

 一番つらかったのは、爆発の瞬間がフラッシュバックするとき。宙のかなたから、光の筋が目の前を横切ったかと思うと、母とともに吹き飛ばされた瞬間。蛇がかま首をもたげるように、悪夢はふいに湧き起こってはわたしの喉元をしめつけた。

 そして、その間にも《キャロライン》を取り巻く戦況はどんどん悪化していた。


 先に宇宙へ旅立った、というマージンが使えるのは序盤だけ。あとは、地球からの断続的な物資を背景にした、最新型の宇宙兵器技術で地球から遠くへ遠くへと追いやられていく。

 幸運なことに、宇宙では限られた国土を奪い合う必要はない。だから、わたしたちの宇宙船はどこまででも逃げられる。辿りつくのに何年もかかるような場所に行ってしまえば、どの後発船団だってわたしたちを追いかけてくることはない。誰にも邪魔されない平和を謳歌し、心穏やかに過ごすことができる。

 そして、限られた人間同士で結婚して、子どもを作っていれば、遠い未来にこの《キャロライン》は無人の宇宙船国家となるだろう。それはそれで、賢明な判断だと思う。


「サラったら、またそんな難しいこと言って」


 わたしの肩を叩きながら、フィーネが笑っている。

 彼女は、毎日のようにわたしの病室を訪れていた。なにを好んでわたしのところへやってくるのか、最初はまったくわからなかった。けれど話すうちに、彼女も戦争で家族を亡くし、一人になってしまったのだと知った。わたしが母から聞いた地球の話、母の家族の話、彼女の好きな星の話、超科学文明の遺産といわれるものの話。彼女はもしかすると、悲しみを共有できる人を探していたのかもしれない――と勝手に考えて、納得していた。

 わたしが横たわるベッドの縁に座る彼女は、うなずきながら耳を傾けている。


「戦争なんてないほうがいいのよ。絶対そう。こんなところで生きるのは嫌なの、わたし」

「そりゃ誰だってさ、口に出さないだけでそう思ってるよ」

「じゃあなんでなの」

 わたしはくってかかった。


「なんでみんな戦争をしていて、やめようとしないのよ。嫌ならやめればいいじゃない。続けたってなにかが変わるわけじゃない、ただ死者を増やすだけ。後にはなにも残らない。死体はみんな冷凍されて、ばらばらにされて、土になる。最終的には、みんな宇宙の塵になるのよ」

「サラはそう考えているんだね」


 フィーネはふわりと笑った。あたたかい風が吹いたみたいに。

 ぎりりと握りしめていたわたしの手に、彼女は自らの手を重ねた。

「あたしはさ、死んだからってなにも残らないわけじゃないと思う。今まで出会った色んな人が、あたしという人間を作ってくれてるんだ。みんなが今まで命をかけて戦ってくれたから、あたしがあるんだよ」


 その言葉は太陽のように煌々と輝く。彼女はあまりにも眩しい。

 自分の脚で立とうとし、わたしやその他の人々、例えば医療従事者たちに気を遣い、患者たちを元気づけようと声をかける。わたしはその姿を見ているとくらくらする。だって、彼女の透き通ったひとみは鏡のように、なにもできないわたしを映すから。

 もしわたしが彼女のような強い人間だったら、父母の死も受け入れられただろうか。

 もしわたしが彼女のような優しい人間だったら、この憎しみの銃口を誰かに向けずにはいられないと、思い悩むことはなかったのだろうか。

 もしわたしが彼女のような人間だったら。

 もしわたしが。

 わたしは憧れとも羨望ともつかない感情を抱きながら、彼女の優しさにすがりついている。彼女を縛ることで、苦しめるかもしれない自覚はあった。でも、わたしのフィーネはそんな不安も軽く飛びこえて、わたしにたくさんのあたたかさをくれた。


 フィーネはわたしの額をそっと撫でた。

 わたしは彼女を見上げた。

 彼女はなぜだか切なさそうな顔をしていた……ように、見えた。

「サラもさ、今は難しいかもしれないけど、いつかそんなふうに考えられるといいな」

「そんなこと……」


 だから、フィーネの言葉にどんな返事をしたらいいかわからなくなって、わたしは口をつぐんだ。父と母を殺された怒りはいったいどこへ向ければいいのだろう。わたしはなにを憎めばいいのだろう。答えのない問いが頭の中をぐるぐると回り続ける。まるで銀河のように。

 そんなこと、今はとても考えられない。

 考えられるとしたら、それはただの理想論。ただのきれいごと。

 でも、このフィーネという女の子は、そのきれいごとをまっすぐに信じていた。わたしなんかより、とてもとてもいい子。だから、彼女はわたしと違って、この理不尽な世の中をまっすぐに生きていけるのだろう。

だからきっと、わたしよりフィーネが幸せになるべきだったのに。

 そんな話をたまにして、他にも他愛ない話をして、わたしたちの時は過ぎていった。



 やがて、わたしの身体は順調に快復に向かう。一日のスケジュールにもリハビリの時間が加えられるようになっていた。

 まずは指で、しっかりと握る。次に手のひらをベッドの縁におき、下へ向けてめいいっぱいの力で押し出す。そうすると、わたしのおしりはぐいと持ち上がる。

 そうすると、わたしはベッドから立ち上がって医療区画内をある程度自由に歩けるようになった。トイレにだって一人で行ける。全ての行動に看護師の手をわずらわせることもない。

 その頃になると、わたしからフィーネの病室へ赴くことも増えた。わたしの腕には、患者が利用できるIDチップが埋め込まれたブレスレットが装着されている。それをいつも通り、扉の横にある読み取り機にかざし、入室を要求する――。

 ブー、という音が鳴り、あっけにとられるわたしに人工音声が告げた。


「この部屋は、現在、入室が制限されております。制限が解除されるのは、11時、です」

 わたしは自分の病室の時計を思い出す。たしか11時まではあと5分。戻るのもおっくうなのでここで待つことにした。

 壁に身体を預けていると、遠くからガラガラ……という音が聞こえてきた。わたしはなんの音かと、廊下の奥へ視線を向ける。


 看護師に見守られながらやって来たのは、男性を乗せたストレッチャーだった。まるで大きな箱のようなストレッチャーは、内部に救命救急機器を内蔵している。機器から伸びる何本かの管は傷病者の状況をモニタリングしながら、白いシーツのマットで傷病者を優しく抱き、わたしの前を慌ただしく通り過ぎていく。

 すれ違いざま、男性が苦悶の表情を浮かべているのが見える。《キャロライン》の軍服を着ていた。そして、彼の片脚は真っ白な包帯で覆われ、膝より下は存在していない。その後ろから、家族と思われる女性が走ってくる。一瞬ではあったが、興奮と涙のせいで顔が真っ赤になっているのがわかった。

 車輪の音が遠のいて聞こえなくなった頃、フィーネの病室の扉が開いた。わたしは扉に駆け寄った。


「では、来月から」

 彼女の部屋から知らない男性が出てくる。

 彼はしわひとつないスーツに身を包み、高圧的とも感じられるような威厳をみなぎらせていた。年は二〇代か三〇代といったところだろうか。男性は部屋の前にいるわたしと目が合うと、まるで見てはいけないものを見てしまったかのような表情をして、立ち止まった。


「おまえは……」

 初めて会う人のはずなのに、その声には聞き覚えがあった。

 ときどき船内放送から流れる低い音声。《キャロライン》国民に向けて、わたしには意味のわからない言葉で国のことや戦争のことを説明する、声。


「どうされましたか?」

 彼に続いて出てきた中年の男性が、いぶかしげに彼を眺めた。そしてわたしに気づくと、

「これはこれは」

と笑いかけた。


 わたしはなにが起こっているのかわからず、「ごめんなさい」と彼らに道を譲る。

 若いほうの男性は何事もなかったように目を逸らし、そのままフィーネの部屋から出ていってしまった。

「ごめんね、今は彼も忙しいんだ。また会おう」

 中年の男性はにこやかに手をふって、早足で先の男性を追いかけていった。

 わたしは途方に暮れて2人の背中を見つめていた。


「……あれ、《キャロライン》の新しい王様と、右腕の大臣だって」

 いつの間にかフィーネがそばにいた。扉の前で突っ立っていたわたしの手首を掴んで、彼女はなかばむりやり部屋に引き入れた。

「なんで王様がここにいたの?」

 わたしの問いに彼女は答えなかった。代わりに、全てを覚悟したような、さっぱりとした顔を見せた。こうなることはわかっていた――とでも言いたげな表情。

「あたし、来月から軍に入るよ」

 握られた手がかすかに震えていたのを、わたしは今でも忘れない。

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