ひとつの書物

ねこ

ひとつの書物


彼はその時考えた。もし言葉というものが、世界のなかに存在するための一つの道であるならば、たとえ入るべき世界がないとしても、世界はすでにここに、この部屋にあるのだ、と。ということはつまり、詩の中に部屋が現前しているのであって、部屋に詩が現前しているのではない。

——『孤独の発明』ポール・オースター



 あれだけの大事故の後で、言語野だけがほとんど無傷に近い状態で残っていたのは奇跡というほかなかった。あの大事故で私は多くのものを失ったのだから。所有ということに関して、私はほとんど意識したことはなかった。無論私は私自身の持ち物に対して他のものとは違った感情を抱いていたし、どんな小さなものであれそれが私の財産と引き換えに手に入れられたものであれば、もしそれが何処かに行ってしまったとしても、私はあらゆる方策を駆使してそれを取り戻そうと努力したし、現実にその様にしてまた私の支配のもとに置くことができた。しかし今回ばかりは事情が違った。私は私自身を失ってしまったのだ。単に自己を喪失したといっても、それだけでは足りない。私は私自身とともに、私を取り巻くすべての世界もまた失ってしまったのだから。私の持っていたあらゆるものは、どれほど私がそれをなくさないように気を配ったとしても、やはりなくなるときにはなるなるものだった。それはあるときには歩いているときにたまたまポケットから落ちてしまったりだとか、時間の経過によって内側から壊れてしまい、どうにも直せなくなったり、あるいは誰かによって盗まれてしまったこともあった。それらはある程度私の中でも予期していた消失であり、避けがたい運命でもあった。しかし、たったひとつ、私自身の身体だけは、私のもとからなくなってしまうことがあろうとは考えたことすらもなかった。死だって例外ではなかった。私の身体が死んだとき、それを所有する私もまた死んでいるのだ。そこには身体を失った私は存在しない。身体とともに私自身もまた失われているのだから。しかし、私は自分の身体を失ってしまった。特殊なことだが、私は私自身を失ったが、私自身を失った私は残されていた。私に残されたのはもう二度と動かない、したがってもう私のものとは呼ぶことのできない今やぶよぶよの牢獄と化したこの肉体と、考える能力だけだった。私の心は完全に肉体から切り離されてしまった。私の言葉はもう、私の身体には届かない。私は私の孤独の中で必死に叫び声をあげた。腕を動かすように、身体を起こすように、脚を、腰をあげるようにと。首を動かせ。頭を上げろ。手を握れ。指を曲げろ。そのどれ一つとして、私は果たすことができなかった。行おうとすることすら叶わなかった。私の言葉は不気味な柔らかい闇に阻まれて、私の身体まで届くことはなかった。そして私は気づいた。今や私の意識が、私自身のこの肉体の中にすっかり閉じ込められてしまったことに。あの大事故から目覚めた時、私は完全な闇と無音の中にいた。身体が身体としての形を保っているあのしっかりとした感じは失われて、茫洋とした闇の中に私が無限に拡散していくように思われた。私は視力を失った。私は聴覚を失った。嗅覚を、身体に触れるあらゆる感覚を失った。つまり、私は現実の世界と関わるあらゆる手段を失ってしまったのだ。身体は世界と私とを隔てる果てしない壁になった。私は世界に働きかけることができず、世界もまた、真の意味で私に働きかけることはできない。恐らく現実の私の身体は、あらゆる生命維持の機械に取り囲まれていることだろう。身体中の穴という穴から、雑居ビルの通風筒のようにチューブが伸びているはずだ。もはや私は自分の生命すら私自身によって統御することはできない。果たしてこれが私の身体、私の生命と呼べるのだろうか。

 世界との関わりを失ったにもかかわらず、私に残されていたのは言葉だけだった。言葉は私のものではない。言葉は世界が作り出したものだ。ある意味では、私に意識の残されていたことは最も大きな不幸だったと言えるだろう。意識すら残っていなかったのならば、私はこの孤独、世界からも自分自身からも隔てられたこの真の孤独に閉じ込められることはなかったのだから。私は言葉を使わなくてはならない。世界が産み出し、世界が取り仕切る言葉を、世界とはもはやなんの関係も持たないところで、私は使わなくてはならない。

 私はこの世界を生きるために新しい身体を必要とした。いや、この表現は正しくない。なぜなら、時間の感覚を失った私が途方も無いと感じるほどの時間を経て、ついに身体を産み出すことに成功した時、その肉体を包む空間と時間が初めて産まれたのだから。私が使える素材は言葉だけだった。私はこういったこと全てを言葉でやらねばならなかった。つまり、私は言葉だけで一から新しく世界を産み出さねばならなかったのだ。私はまず生命の源を、生ける心臓を生み出すことから始めた。ようやくひとつの心臓を産み出すことに成功した時点で、私は恐らくかなりの時間をこのことだけに使ったと思う。正確な時間はわからない。それは一年かもしれないし、十年かもしれない。身体に閉じ込められてから、私は現実世界の時間が感覚においてのみ捉えることのできるものだったことに初めて気がついた。かつて私のいた世界では、一日は二十四時間だった。しかしそれは、例えば目覚める時間を朝とし、空腹を感じる時間を昼に、眠る時間を夜とするような、人間の生物的な必然から生まれた数字ではなかった。それは天体の運行から導き出されたものだった。しかし、それもまだ不十分な記述だ。というのも、実は地球の運行に忠実であろうとすると、季節と暦の間にズレが出てきてしまう。だから人間はそこに行政上の単位を導入した。つまり、我々が生きていた時間というのは自然のものではなく、制度の上に成り立っているものだったのだ。しかし外から与えられたそのような時間が、私たちの中に真に備わっているとは言い難い。結局私たちは自分の感覚によってしか時間の経過を感知できないのだ。気温の変化、色の変化、ものの状態が変わることによって、あるいは空腹、疲労、老化、自分の内部の変化によって、私たちはそこに時間が流れていたことに気づく。だから、外からの刺激を感じることができず、自分の内部から発せられる信号すら知覚できない私は時間の動きを把握することができなかった。私が今幾つなのかさえ、私は知らない。

 心臓がある。これだけでは何も産んだことにはならない。血管があり、その血管はどのように構成され、どのように働き、どのように他の血管と結びついているのか。その中を流れる血はどのような成分を含んでいて、流れる、とはつまりどういうことか、それが心臓を駆け巡るとはどういうことか。ものは無限に分解され、動きは静止に近づくほど詳細に描写される。この世界では名詞がほとんど意味をなさないことを私は理解した。ものはものではない。存在する全ての要素と互いに結びついていて、一つの要素が変化すれば、全てが全く違うものになってしまう。それは言葉と言葉が織りなす錯綜した関係の網の目である。変化が起きるたびに、言葉で世界を作り変えなければならない。夥しい数の形容詞と動詞のみがこの世界を可能にしていた。注意していただきたいのは、私が今ここで事物について話しているのではない、ということだ。私はここでただ言葉についてのみ話している。しかし、このことは現実世界の事物についてもまったく同じことが言える。現実世界の事物もまた、他の事物とのつながりの中にある。ものはものとして決して独立しえず、常に事物同士の関係の中で初めて意味を持つことができる。他の言葉との関係において意味を持つ言葉のように。

 私はひとつの部屋を持つに至った。それが私の限界だった。これ以上広い空間に私の頭は耐えられず、無理をすれば世界そのものが崩壊しかねなかった。それは殺風景な部屋だった。かつて見たゴッホの絵を、私は思い出す。それは『寝室』と名付けられた、物寂しい絵だ。ポール・オースターの言う通り、その絵に描かれた部屋は孤独の実体そのものだった。窓にはブラインドが閉ざされ、その前に椅子が置かれている。ベッドが邪魔をしているので、扉を開くことはできない。牢獄。私はこの部屋に閉じ込められている。オースターは言う。「世界はその遮られたドアのところで終わっている」。この部屋の外に世界は存在しない。私の言葉の限界が、私の世界の限界なのだ。だから私はこの部屋の外へ出ることができない。もし私がこの部屋を否定するなら、それは私自身の存在をも否定することになる。この部屋は私を閉じ込めるものであると同時に、私自身を成り立たせるものでもあるのだ。私の身体は部屋と一体になっている。部屋そのものが私であるともいえるかもしれない。

 私の世界は、この部屋が産まれたことによって安定した。私は一日中(と書くのも愚かしいが)特に何をするでもなく、ただ椅子に座っている。この部屋には窓があるのだが、ブラインドが閉じていて外は見えない。さながら盲目ブラインドのように。目は窓の比喩として用いられることもあるが、実は窓の語源のほうが「目の戸」なのである。身体と建物の結びつきは深い。私は日に三度食事をする。しかしそれは普通の食事ではない。現実の世界に暮らしていたとき、私の朝食はトーストとコーヒーだった。今でもそれは変わらない。言葉で出来た机の上に、トーストとコーヒーが並ぶ。しかし私が食べるのはトーストとコーヒーではない。私が食べるのはトーストとコーヒーを構成する言葉であり、さらに食べるという言葉と現実の世界の食事とは同じではないのだ。例えば「ナイフが肉を切る」という言葉があるとする。ここで表現されているものは「切られる」という属性、出来事であって、それは肉にもナイフにも還元できないものだ。現実に存在するのは未だ切られていない肉と切られた肉だけであり、「肉が切られる」という出来事はそのどちらにも属していない。それは言葉の上だけにのみ存在するものである。そして、この部屋ではただ言葉だけが存在し、言葉が全てなのだ。

 私は何もしない。しかし、同時に私は全てのことをしている。少しでも気を抜けば、私の身体は、この部屋は、形を保つことができなくなって崩れてしまうだろう。私は描写する。全てのものの状態を言葉にする。私が言葉にすることによって、この世界は存在する。世界はあらゆる事物の総計ではない。「世界とはそれらの事物のあいだに存在する、無限に錯綜した結びつきの網の総体にほかならない」。それは言葉だ。言葉を離れて事物は存在しない。言葉がなければ、私はここに存在することすらできない。

 しかし、私は慣れ始めていた。そして、多少の退屈さも感じるようになった。考えてみればこれは異常な事態なのだ。かつての世界の私の部屋に四六時中閉じ込められていたとしたら、私は発狂しただろう。自分の部屋というのは特別な空間だ。自分のものがそこらじゅうに転がっているだけでなく、自分のにおいや、髪や爪などのかつて自分だったものたち、まとまりきらない思考や膨大な量の過去、そして自分自身の孤独で部屋はいっぱいで、息苦しくなっている。そこに閉じ込められてじっとしていると、いずれ自分自身の存在に押し潰されてしまう。私は娯楽がほしくなった。娯楽。英語にすればdiversion。それはdivert逸らす、つまり、自分の意識を自分自身から逸らすことである。試しに私は一冊の本を産み出すことにした。内容は、昔読んだ本の中から好きに選んだ。短編を四本。製本してみればごくごく薄い本になったはずだ。むしろ、小冊子と呼ぶ方がふさわしいかもしれない。これはただの実験で、いずれより本格的な本を生み出す予定だった。結果から言えば、実験は失敗した。いや、失敗などという生易しいものではない。私は危うくこの世界を崩壊させかけたのだ。本、とはつまり言葉の詰まったものだ。ページを開いてみれば、そこにはぎっしりと文字が書き込まれている。その言葉は、あくまでその書物の中でのみ互いの関係を織り成している。月並みな表現だが、本とは言葉で出来た一つの宇宙なのだ。しかし、この部屋、この世界もまた言葉だ。そこには、世界を構成する言葉と書物の言葉の区別はない。早い話が、書物と世界と、お互いの言葉が相互に干渉し合い、世界が崩れ始めた。私は慌てて本の産み出し作業を中止した。しかし、一度崩れたバランスはひとつの力を得て、ひとりでに世界の崩壊を続けた。奇妙なことに、世界の崩壊と反比例して、本の言葉は膨大な宇宙を形作りつつあった。私はすぐさま本を消滅させた。そこで世界の崩壊は止まった。

 半壊した部屋の修復には相当の体力と時間を要した。それは一から世界を作るよりもよっぽど大変な作業だった。しかしこの書物の一件は私にひとつの教訓を与えるとともに、ある重大な事実を私に気づかせてくれた。それはふとしたことがきっかけだった。部屋の修復もひと段落ついたころ、私は何かが足りていないような、妙な違和感を持った。それが鍵だということにしばらくしてから気づいたが、私はどうしても鍵という言葉を思い出せなかった。それからおかしなことがあった。ある日私は何の気なしにキーボードの前に座った。このキーボードからすべての言葉は産まれ、その言葉の無数の組み合わせからこの部屋が成り立っていた。どれほど複雑で多層的でも、還元すれば部屋は結局この文字を組み合わせていったものに過ぎない。そうであるならば、この部屋はたった26文字のアルファベットの中にすでに存在していたのだと言えるのではなかろうか。私が産み出すよりもずっと前から、おそらく私が言葉を覚えはじめた頃から、つねにすでに私と共にこの部屋は存在していたのだ。私はそのキーボードの上に言葉でできた私の腕を伸ばした。その時、事もあろうにそのキーボードがボロボロと崩れ始めた。この部屋は私の言葉によって管理されている。そのようなことが起きるはずはなかった。しばらくして私が鍵という言葉を思い出した時、全て納得がいった。それはkey鍵・キーという言葉遊びだった。ひとつの言葉が他の言葉へと繋がる。まさにキーワードだ。言葉は関係の中で意味を持つ。ひとつの言葉が失われれば、それに伴って言葉全体の中に大きな変化を来たしてもおかしくはない。そしてそれは、この世界においては部屋の変容という形で現れる。しかし、と私は訝しんだ。なぜ私はkeyという言葉を忘れてしまったのだろうか。私は記憶には絶対の自信があった。もう長いことこの世界の中で暮らしてきたし、言葉に関しては、それはまさに私自身だったのだ。あの大事故のあとも私の中に残り続けたのだ、いまさら失うはずなどなかった。これは一種の怪奇現象、しかも世界の存亡に関わる怪奇現象だった。考えあぐねた末に、私はひとつの推測に行き当たった。そして私は、もうすっかりその存在を忘れていた、現実世界の私の肉体を思い出した。一体、あの大事故に遭ってからどのくらいの時間が流れたのだろうか。私は、いや、私の肉体は、今何歳なのだろうか。ひょっとしたら、私の考えていたよりも、もっとずっと途方もない時間が私の肉体に流れていたのかもしれない。私の肉体は限界を迎えつつある。そしてこの怪奇現象は私の肉体の痴呆からくるものだろう。牢獄は、その内側から崩壊しつつあった。

 私が気づかなかっただけで、すでに私は多くの言葉を失っているのだろう。そしてその結果として起きた部屋の変容にも私は気づいていないのだ。私は恐怖に襲われた。このままでは、私は消えてしまう。この部屋が、この世界が消滅してしまう。しかし対抗する手立てはなかった。私の方から私の肉体に何かをするということは不可能だった。私は甘んじてこの忘却を受け入れなくてはならないのか? 私が、私の世界が消滅してしまうのを受け入れなくてはならないのか?

 その時、私にひとつの考えが浮かんだ。それはまさに天啓だった。ただし、相当な賭けでもあった。失敗するのは目に見えているし、失敗してどうなるかは分かったものではない。しかし、私はこの賭けに頼らざるを得なかった。他に方法はないのだから。私はあの世界の半壊を招いた実験を思い出していた。本。記録であり、記憶である書物。ただ言葉だけで成り立つもの。オースターの部屋を巡る思索は「記憶の書」に書かれたものだ。そこには部屋と記憶を巡るいくつもの思索が累られている。アンネ・フランクの屋根裏部屋。ヨナを飲み込んだ鯨の腹。私とただ言葉だけで成るこの部屋。私もまた、記憶の書を書かねばならないのだ。

 世界の崩壊に対抗して、私はひとつの書物を生み出すことにした。そこには全てが書かれている。私の記憶が、世界が、全ての言葉が。無論、この世界において書物は世界を崩壊させるものだ。だから、そのような書物を産み出すことは世界の消失に拍車をかけることになってしまう。しかし、と私は考える。しかし私はそれをせねばならないのだ。忘却の中に消え去ってしまうのであれば、私が、私自身が、ひとつの本と引き換えにこの世界を消してやろう。世界が消えるのが先か、ひとつの本が完成するのが先か、私の存在をかけた一世一代の大勝負だ。世界の消えた後に、果たしてその本が残るのかは私にはわからない。全くの無駄骨に終わってしまう可能性だってある。それでもやらねばならないのだ。それだけの犠牲を払う価値が、その本にはある。

 私は本を産み出した。そして、一息にそこに言葉を書き始めた。知っていることを、知らないことを、私自身を、言葉を、私はそこに書き殴る。世界が崩壊を始めた。目に見えて世界が歪む。壁は崩れ、床が溶ける。あらゆるものがバランスをなくして、自壊する。しかし私は言葉を書く手を止めない。身体がしっかりとした感じを失い始める。そして私は気づく。形を失った私の腕が書くことをやめても、世界の崩壊に反応するように、書物がひとりでに膨張を始めていることに。崩れた言葉を吸い込むように書物は宇宙の網の目をさらに広げる。それは暴力的な膨張だ。ブラックホールのように、書物は世界の言葉をもぎ取って膨らんでいく。その度に、新しい関係が、新しい網の目が宇宙を広げる。そこに知らない概念が産まれる。知らない言葉が産まれる。それがさらにほかの言葉と結びついて、大きなビックバンを起こす。世界が消えて行く。私の身体も、もうほとんど残っていない。しかし、書物は膨らむ。無限に膨らんでいく。そしていつか、世界をすっかり飲み込んでしまうだろう。その時に何が起こるのか、私は見れないのが残念である。

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