1-フタバ
木の幹のザラザラを肌で感じることができる『触覚』。
鳥がさえずる可愛らしい声を聴くことのできる『聴覚』。
林檎のみずみずしい甘酸っぱさを確かめることができる『味覚』。
胸いっぱいに吸い込んだ空気に花の香りを見いだせる『嗅覚』。
そして、美しいであろう世界を観察できる『視覚』。
おそらくだが、全てが素晴らしい感覚だろう。ほとんどの人間に備わっている『五感』と呼ばれるものだ。それらのおかげで、人類は世界を感じることができる。
しかし、例外もいる。
例えば、僕は世界を観たことがない。木の触り心地を知っているが、色は知らない。つまり、『視覚』が欠落しているのだ。僕の記憶の中でこの世界に光を感じたことはないし、大人が言うには生まれた時からこうらしい。それでも、生まれつきなかったものを手に入れたいとは特に思わなかった。
僕は施設に暮らしている。
母は僕を産んだ時にこの世を去ったらしい。彼女を愛していた父は、薬を過剰に摂取して同じく雲の上に逝ったそうだ。僕はその事を知らないで生きていることになっているが、施設で僕の世話をしてくれる大人たちが話していたのを小耳に挟んだ。特にショックでもなかったが、見たことのない両親のことを気の毒に思い、両手を合わせて冥福を祈った。
僕はこの世に生まれて十三年が経っているらしい。
この間、施設の大人が祝ってくれた。僕には友達と呼べる人物がいなかったので、お祝いの歌声は大人のものばかりだった。
その際に点字のバースデーカードをもらった。「オタンジョウビ オメデトウ フタバ クン」と打ってあった。フタバというのは僕の名前だ。点字なのに、乾ききらないインクの香りがしたのが不思議で、記憶に残っている。さすがにもうバースデーカードからその香りを確認することはできないので、勘違いだったかも今ではわからない。
そういえば、誕生日にプレゼントにヘッドホンをもらった。施設も裕福ではないはずなので、なんだか申し訳ない気持ちになった。目が見えないからか、小さい頃から音楽が好きだった僕にとっては嬉しいプレゼントだ。ただ、高音が好みな僕に重低音を強く出すヘッドホンはチョイスを間違われたなと少し思う。
CDプレーヤーに繋げっぱなしのヘッドホンを手に取り、頭にはめる。お気に入りの曲が入っているCDをパチンとセットして、再生ボタンを押した。
ズン、ズン、ズン、ズン……
音楽は好きだが詳しくはない。ベースというものだろうか、ヘッドホンのおかげでズンズンと頭を揺さぶられるような低音が響く。真っ暗な世界が揺れている気がする。
なんだか気分が悪くなったので、再生ボタンをまた押した。正確には『再生/停止ボタン』なので、再生中に押せば音楽と共に揺れが治まる。
今、自分でも意識しないで自然にCDの再生ができた。昔からそうだ。目が見えないはずなのだが、特に意識せずにいれば全てが見えているように行動できる。一種の才能だろうか。おかげで、点字ブロックのお世話にはならないし、目が覚めたら無意識に自室のカーテンを開ける。何枚かもっているCDを選ぶのに迷ったこともない。しかし、トイレだけは別だ。どうもそれだけは上手くできないので、男だが洋式の便器に座って用を足している。
ただ、トイレに限らず意識をした途端に何もできなくなる。自分の目が見えないことを思い出すと、見えているようだった身の回りが認識できなくなるのだ。CDを選ぶどころか、置いてある場所すらわからない。いつも自分の呼吸の仕方など意識しないのに、意識した途端に自らの意思でしか呼吸できなくなるようなものかもしれない。
なんだか急に重低音が恋しくなった。
いつの間にかまた黒い世界が揺れていた。耳に強い、ベースの音。それに続くように、軽快な高温のメロディ。
自分でも気づかないうちに再生ボタンを押していたらしい。これもよくあることだ。いつの間にか、何かしらの行動を起こしている。そして、それを自分は認知できない。手の感覚すらないのだ。目と同じように、これも生まれついての自分の特性かもしれないと施設の大人に相談したことがあったが、その時は適当に流されてしまった。この無意識の行動がないと生活で困る部分が多いので、治したいとも思わない。だから、このことについては気にしないことにしていた。
音楽を聴いたり点字の本を読んだりして一日を過ごすというのが僕の毎日だ。気が向いたら勉強をする。
退屈だ。
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