第32話
その時、右のほうから白衣を着た男が目の前を通り過ぎて行く姿が見えた。白衣の男は脇見することなく、急ぎ足でどこかに向かっている。
見届けたい俊一だったが、残念なことに視界から外れているので、何が起きているのかまったくわからなかった。
「おーい。おーい」
俊一は大きな声で呼んだ。
しばらくしてあの黒服の男が面倒臭そうな足取りで姿を見せた。
「何だ、静かにしろ」
「小便がしたい」
「だったら、そこにポリバケツがあるだろ。そこにしとけ」
男は顎で部屋の奥を指すと、すたすたと戻って行った。ドアを閉める音が聞こえた。
我慢しきれなくなった俊一は、仕方なくポリバケツの前に立ち、壁に向かいながら放尿した。こんな自分が惨めでならなかった。
俊一は腹を括った。
こんなわけのわからない部屋に監禁されたんだから、どう考えてもまともにここから出されることはないだろう。大声で叫んでみたところで相手にされないことはわかっている。それを考えると自分が惨めに思えて来そうだった。
そんなことを考えているうちに急に空腹を覚えた。絶対に手をつけまいと我慢していた菓子パンの袋を手にすると、勢いよく袋を引き千切った。なかのパンが跳び出して、樹脂塗装の床に転がり出た。
慌ててパンを拾うと、右手で床の汚れを叩き落とし、大きな口で齧り付いた。ただでさえ少ない唾液がすべて吸い取られてしまう。口のなかで転がり回る物体をミネラルウォーターで流し込む。気がつくとミネラルウォーターの残りが少なくなっていた。
空っぽの胃袋はそれぐらいのパンでは満足しなかったが、それ以上口に出来る物はなく、不貞腐れるようにしてベッドに横になった。
周囲に音らしきものはまったくなく、睡眠を摂るには持って来いの環境だった。
幾らもしないうちに俊一は深い眠りに就き、長く眠ったあと騒々しい物音に目が覚めた。
どうやら二回目の食事の時間らしい。理不尽な奴らだが、ちゃんと飯は食わせてくれるらしい。
俊一は急いで鉄格子の近くに行き、顔を鉄格子に挟み込むようにして外の様子を覗う。早く飯が食いたかったからではなく、あの黒服男に聞きたいことがあるのだ。
待ち切れなかった俊一は、差し入れられた食料を受け取るや否や、
「頼むから教えてくれ。僕はどうしてここに連れられて来たんだ? ただあの店の会員になりたいっていっただけじゃないか?」
と、訴えるような目で訊く。
「そんなこと聞いてどうするんだ」
男は冷静な口調で聞き返した。
「どうせ僕はここから出ることが出来ないんだろ? だったらそれくらい教えて貰っても罰は当たらないだろ」
俊一がそういうと、男は少し考えたあとこういった。
「お前はあの店の内容をどのくらい知っているか知らないが、あの店はあることをする窓口なんだ」
「あることって?」
「まあ、そのうちにわかるさ。あの店の名前なんだけど、『ラフレシアナ』って意味を知っているのか?」
男は薄笑いを浮かべながらいった。
「………」
「それは調べてないのか? じゃあ教えてやろう。ラフレシアナというのは、食虫植物で簡単にいうと、中学生の時に理科で教えてもらった『ウツボカズラ』のことだ。頭のいい君のことだ、これでもうわかっただろう」
急に馬鹿にしたような口調になって男はいった。
「食虫植物……?」
俊一はすぐにぴんと来なかった。
「お前は、沼田という男に売られたんだよ。お前はウツボカズラに入り込んだ虫けらということだ。まああの男に出逢ったことが不幸だった。そう、死神に出会ってしまったのさ」
男は俊一の訊いたことに答えることなくいった。「じゃあ、沼田の彼女の綾香ちゃんのお父さんがあの店に出入りしてたというのは?」
「それはオレにはわからんが、おそらくあいつの作り話だろう。あいつは意外と口が立つ人間で、その場に応じていろんな拵えることが出来る。あんたはその口車に乗ってしまったというわけだ。ひょっとしたらあいつはアルバイトに振り込め詐欺の掛け子をやってるかもしれんな。
あいつは小遣い欲しさに何人もの人間をあの店に送り込んで来てくれた。あんたもそのなかのひとりだ」
「ということは、沼田の遊ぶ金のために僕はここに連れられて来たということなのか?」
「まあ、そういうことだ。心配するな、もうすぐそこから出してやるから、おとなしくしてな」
男は吐き捨てるようにいうと、踵を返してどこかに行ってしまった。
俊一は冷たいコンクリートの壁に凭れて、男の遺した言葉の意味を考えるのだった。
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