第20話
俊一は何年も通う常連客のように「のんき」の扉を開ける。
すでに先客が三人飲んでいた。きょうは考えがあって、常連客から離れた席で観察するのではなく、逆にひとつ離れた席に腰を降ろした。
「いらっしゃい」
店主は昨日のきょうだから、俊一の顔を忘れることもなく、愛想よく迎えてくれた。
「どうも。冷たいビールをお願いします」
俊一は出された熱いおしぼりで首筋を拭きながらいう。
「うちは冷たいビールしかないよ。温めたのは燗ビールだから」
と、訳のわからないジョークをいいながら冷蔵庫から瓶ビールを取り出した。
俊一は少しほっとした。下らないジョークをいうっていうことは、店主が気を許してくれたという風に解釈をした。
「何かお勧めのつまみをください」
お通しで出された枝豆を手にしながらいった。
「きょうはアジのいいのが入ってるのと、タコ、シャコなんかもいいよ」
店主はネタケースを覗き込みながら説明をする。
「じゃあ、アジのたたきと、肉じゃがを」
「あいよ」
店主がアジを捌いている間、俊一は横目で右隣りの盗み見ながら耳をそばだてる。
聞えて来たのは二、三人の政治家の名前だった。まあ、納得の行かない政治が罷り通っている世のなかでは、こういった場所では当然の話題だ。
「あい、お待ち」
カウンター越しにアジのたたきを渡される。
透き通った切り身と、銀色に光る皮目が新鮮さを教えてくれる。さらには刻みネギの青さが鮮やかだった。
「美味しいです」
正直なところ俊一が口にする物は油物が多かった。場末の居酒屋で本物の魚の味を認識させられるとは思わなかった。
俊一は感謝の気持ちとして、店主にビールを勧める。嫌いじゃない店主は迷うことなくグラスを差し出した。
一本目のビールがなくなりかけた頃、
「そういえばお兄ちゃん、昨日も来てたんじゃなかったか?」
いちばん近くにいた常連客が声をかけて来た。
頭が禿げて老眼鏡をかけた七十くらいの爺さんだった。
「ええ、昨日来てました。そういえばおトウさんも飲んでましたね」
俊一は計算通りに物事が進んでいることに安心しつつ返事をする。
「俺たちは毎日だ。向こう(駅)に行けばいっぱい店があるけど、静かで落ち着けるこの店がいいんだ、なあ」
ほかの飲み仲間に問いかける。
「そりゃあ、飲み屋なんてあっちこっちにあるけど、ここより旨いもん出す店はないよな、大将」
「そんなことないから」
店主は嬉しそうな顔で鉢巻を締め直した。
「みなさんはこの近所にお住まいなんですか?」
そろそろ本題にかかろうとする俊一。
「うん。俺とこの爺さんはこの近所だけど、いちばん向こうのは、駅の向こうからわざわざここまで来てる。お兄ちゃんはどうなんだい?」
頭の禿げた爺さんは、目の前のお猪口に酒を注ぎながら訊く。
「ええ、つい最近ここよりちょっと離れたところに越して来たんですけど、地理があんまりよくわからなくてうろうろしている時にこの店を見つけたんです。これからもちょいちょい顔を出しますので、よろしくお願いします」
「ああ、いいよ。いつでも顔を出しな。ほとんど毎日飲んでるから。大将、青年との近づきにビールを一本出してくれ」
爺さんの掛け声でみんなで乾杯することになった。
「ちょっと教えてもらっていいですか?」
グラスのビールを半分ほど飲んだ俊一は、軽い気持ちを装って尋ねた。
「そうだなァ、さっきもいったけど、向こうには店が嫌になるくらいあるんだけど、ここいらはちょっと時間が遅いと僻地みたいに人が歩かないからなァ」
爺さんは少し考えるような仕草で話す。
「でも、逆にこういう場所だと、隠れ家的なバーとかレストランとかがありそうなんですけど、そうでもないですか」
俊一は遠まわしに探りを入れる。
「ない、ない」
そういったのは真ん中に坐ってる爺さんだった。
「そうなんですか」
俊一は覗き込むようにして真ん中の爺さんを見る。
「ないよ。俺はこのあたりに住んで長いんだから、大体のことは知ってる」
そういい切られてしまうと、俊一はその先何もいえなくなってしまった。
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