第9話

見たかった絵を2人で見に行った海外旅行から戻り、2週間たった日だった。

なんでもない、春の日。


私は、人生にこんな残酷な瞬間があるのかと立ち尽くした。

為す術も、なかった。

そんな無力な自分が悲しく、一方で、神様というものがいるのなら、大声で「なんで」と問いただしたかった。


その朝、私は、いつものように、夫を会社に送り出して、特に急ぐでもなく家事をすませた。

のんびり買い物に行こうとしていたお昼過ぎ、突然携帯電話が鳴った。

画面の表示は、夫の会社の部署代表電話だ。

ー何か確認ごとでも忘れたのかな、珍しい…

そう思いながら電話を取った。


予想外に、慎重な口調の男性の声が耳に飛び込んできた。


「梶川さんの奥様の携帯電話でよろしいでしょうか。わたくし、日東観光の瀬山といいます。ご主人のことでご連絡させていただきました。」


「はい、梶川の妻ですが…。」


次の言葉に、私の目の前の景色は、一瞬にして絵になったように光を抑え、動きを止めた。


「12時前にご主人が急に倒れられて、社内のデスクで。すぐに救急車を呼んで、先ほど受け入れ先の病院に着いたそうなんです。病院から、連絡を受けました。詳しい状況は、まだこちらも聞けていないのですが、取り急ぎ病院の連絡先をお伝えしますので、直接連絡を取っていただいて、急いで向かっていただけますか。一応、奥さんの携帯番号はこちらから病院に伝えてあります。」


落ち着いた聞き取りやすい口調ではあったが、明らかに、そうそう遭遇しない事態になったことへの動揺を抑えている感じが伝わってきた。


「はい。はい。わかりました。ありがとうございます。連絡して、向かいます。」


えぇ⁈本当ですか⁈

夫は無事なんですか⁈

…そんな言葉も頭の遠くでよぎったが、正直、口に出すことも恐ろしく、かえって淡々と受け答えていた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る