第六章

第六章

影浦医院には今日もたくさんの患者さんが訪れる。みんな、医学的には異常がないのに体の不調を訴えたり、誰にも自分の抱えている問題を話せなくてやってくるのだ。

今日は、何十人の患者さんが待っている待合室の中に、一人の女性がやってきた。その風貌から見て、患者さんという感じではなかった。

「佐藤さんどうぞ。」

と、看護師に言われて、その女性は診察室にやってきた。

「佐藤さん、今日はどうされました?」

影浦はまず聞いた。

「はい。実は、誰にも言えないことがありまして。市役所に相談しても埒が明かないものですから。それで、こちらに来させていただきました。」

「誰にも言えないことですか?市役所では、どんな返答が返ってきたのでしょう?先ず教えてください。」

影浦がそう聞くと、

「はい。あの支援施設が、そんなことをするはずがないとして、私の話なんて聞いてもくれませんでした。市役所は、どうしても事なかれ主義で、何かがあってからでないと動かないし、何かあればあったで、ただ責任を取って、ほかの部署に異動するくらいで何も変わろうとしませんし。」

と、佐藤さんは答えた。

「支援施設?」

影浦は、そこが気になったので、もう一回聞いてみる。

「ええ、あの藤樹園という支援施設です。」

「藤樹園。今話題の支援施設ですね。そこで何かあったんでしょうか。」

「はい、、、。」

ここで彼女の口は止まる。やっぱりこの人に話していいものか、迷いがあるのだろう。それほど、デリケートな内容なんだろうなと思った。

「僕は、ただの医者に過ぎないのですから、僕自身も完璧な人間ではありません。医者と言っても、たいした大学を出ているわけでも無いし、テレビやラジオに出ている偉い人でもありません。医者と言っても、迷いもあるし、悩みもあります。そういうただの人間なんですよ。持っているのは薬の知識だけ。それだけしかできないんですよ。そういう人間を信じていただけるかいただかけないかは、佐藤さん次第です。」

影浦は、正直にそういった。そこだけは、患者さん本人の問題だった。自分のことを信じてもらえるか。それはやっぱり患者さんの意思に任せるしかない。

「先生が、そんな発言するなんて、不思議ですね。」

と、佐藤さんはそういった。

「どうして不思議ですか?」

影浦が聞くと、

「ええ、だってお医者さんって、みんな偉そうに椅子に座って、すごい大学を出ているとか、自慢話ばっかり何ですもの。東大を出たとか、慶應義塾とか、そういう自慢話ばっかりで。」

と、返ってくる。確かに医者というと、どうしても偉い人というイメージが付きまとうのだが、この影浦先生は、そうではなさそうだと思ったのだろう。

「何を言うんですか、僕は東大でも慶應義塾でも、なんでもありません。ですから、自慢話などすることはありませんよ。」

「まあ、影浦先生は、其れじゃあどちらのご出身なんでしょうか?」

佐藤さんは、一寸素っ頓狂にいった。

「ああ、言いましょうか。防衛医大です。僕はこの仕事をやる前は、軍医でした。自衛隊で兵隊さんの診察をやっていたんです。兵隊さんと言いますと、強そうで偉ぶっている人ばっかりのようにみえるけど、意外にそうでも無かったりします。意外に繊細な人がいて、海外に派遣されても、目の前の戦闘シーンに耐えられず、おかしくなってしまう兵隊さんも少なくなかったんですよ。でも、僕ができることは、彼らの話を聞くことしかないんです。本当は、それではいけないんですよ。医者は、健康を取り戻してやるのが職務ですから。それができないのに、先生と言われ続けるのは、辛くて仕方ありませんでした。この辛さは何なんでしょうね。だったらもう職務を変えるしかないでしょう。だけど、人間の人生と言いますのは恐ろしいものでね。もう一度やり直すなんて、二度とできないですね。だから、結局似たようなことをやっていくしか生きていく方法もないんですよ。それが人生です。誰であっても。」

「そうですよね、、、。」

影浦が、長い身の上話をすると、佐藤さんは、静かに泣き始めた。

「それでは、私たちも二度と治ることもないんでしょうね。娘が、ある日突然学校に行かなくなってしまって、私たちは、何かしてやれることは無いかと思って、支援者を探したんですけどどうしても見つからなくて。運よく見つかったのが藤樹園なんです。それで、そこが子供さんを預かって、立ち直らせる施設だと聞かされて、私たちは、もしそういうところへ預けたら、同じように学校にいけないで、悩んでいる子供さんと知り合うことができて、一緒に話し合ったりできるんじゃないかって思いまして、、、。」

「なるほど、つまり、娘さんをそこへ預けたんですね。」

影浦は、静かに言った。佐藤さんが本音を話し始めたと確信する。

「ええ。そうです。そうすれば娘も解決できるんじゃないかと思って、藤樹園にお願いしました。でも、娘は、それが本当に嫌だったみたいで、もっとひどくなって帰ってきました。本当は、娘をここへ連れてきたかったんですが、どうしても来てくれなくて。私が、インターネットで調べてみましたところ、藤樹園を利用した方々のブログなどが見つかりまして、そこを読みますと、勉強を怠けたりした人は、大勢の前で見せしめとして野球のバットで殴られたりするとか、、、。」

佐藤さんは涙ぐんでいる。

「そうですか、では、娘さんも、野球のバットで殴られたのですか?」

「それは、本人に聞かないとわかりませんが、でも、多くの利用者さんのブログで、野球のバットで殴られるという記事が多数ありましたので、娘もそうだったかもしれません。でも、一番つらいのは、娘が前より酷い状態で帰ってきたことです。私たちに対して、一言もしゃべらなくなり、何かあれば、叩き合いをしたりするようになりました。もう、それでは、どうしていいのかも分かりません。」

そうか。そういう場合なら、本人ではなく、家族が来ただけでも大丈夫だなと、影浦はおもった。

「そうですか。娘さんに対しては、ここが重要なんですが、娘さんを家から追い出して自分が楽になりたいから、藤樹園に預けたんですか?」

核心をついた質問だが、ここが一番重要である。

「いいえ、私はそういうつもりではありません。私が楽になりたいのではなく、娘に友達を作ってもらいたくて、預けたのです。」

佐藤さんは、そこをしっかりいった。

「そうですか。それでは大丈夫ですね。そこさえちゃんとしていれば、比較的立ち直りは早いでしょう。お母様がすることはまずこれです。自身が誤った判断をしたために、娘さんを女衒に売り渡してしまったことを陳謝すること。それが一番です。娘さんはおそらく、お母さんが自分を人買いに売り渡したと思っているから、口を利かないんだと思いますので。立場も何も関係なく、間違ったことをしたら、謝ることは、一番重要なことですからね。」

影浦がそういうと、佐藤さんもしっかりわかってくれたようだ。そうですかと言って、素直にうんうんと頷いている。

「わかりました。私も、娘の態度を見て、私が悪かったと何となく感じていた部分がありますし、其れなら私が、まず、行動を起こすことにします。先生今日は、ありがとうございました。」

特に影浦が手助けをしているわけでも無いのだが、彼女はそう決まったらしい。たぶんきっと、誰にも相談できなくて悩んでいたのだろう。それを、影浦が聞いてあげただけで、そうしようと決めたのだ。こういう風にすぐに決断のできる人間を見ているのは、影浦にとっても気持ちのいいものだった。

大体の人間は、こういう風に決断できることはまれであるので。


一方そのころ、華岡たちは、富士警察署内で、捜査会議を行っていた。

「えー、今回の被害者鷺沢は、富士市内にある、情緒障碍児支援施設、藤樹園で教師として働いていた。藤樹園を利用している親御さんに聞き込みをした所、指導熱心で、熱血漢のある教師だったそうだ。犯人は、遺留品らしきものを全く残していないため、身元を特定できそうなものは何もない。」

「でもですよ、警視。ちょっと気になるんですが、鷺沢の身元は確かに持っていた免許書から分かりましたね。でも、犯人を特定できそうなものはない。これですと、鷺沢が殺されたことをおおっぴらに見せびらかしているような気がするんですけどね。」

華岡がそういうと、一人の刑事がそう発言した。何人かの刑事も彼に同調する。

「そうだなあ。そうなると、やっぱり怨恨という線が濃厚だなあ。鷺沢と働いている藤樹園の教師の中で、誰か不仲なものはいるか?」

「警視、あの施設は、もともと問題のある子どもを助けるところですよ。それが、職員同士で不仲になるってことはないんじゃありませんか。職員同士でトラブルがあったら、子どもも助けられませんよ。」

別の刑事が、華岡を指摘した。

「すまん、そうだった。じゃあ、利用者の中で、誰か怨恨のあるものはいるか?」

この質問にはみんな黙ってしまった。

「しかし、はっきりと、ああいう残忍な殺し方をするようなら、他殺で間違いないだろう。自殺するときに、体を13か所めった刺しすると思う?しないだろ?だから、犯人というものは存在するんだろうが。」

華岡はもう一回言った。

「しかしですよ。警視、凶器も残されていない、指紋も残されていない、そんな状態で、すぐに犯人を見つけることはできるんですかねえ。」

「うーん。」

華岡は黙ってしまった。この事件は、残された手掛かりも何もないのだった。

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