第五章

第五章

ブッチャーがその本を借りて、焼き鳥ほていやで、ジョチさんとしゃべっている間、有希は、家の中でパソコンに向かっていた。

見ていたのは藤樹園のホームページ。

ここへ行こうかなあ、、、そんなことを有希は考えている。もう自分も、こうするしかないのではないかと。こういう所しか、自分を見てくれるところはないのではないかと。

「ただいまあ。」

不意に、玄関から、そういう声が聞こえてきた。有希は玄関先に行った。

「お帰り、聰。」

ブッチャーはそういわれて、帰ってきたよ、とだけ言った。

「ねえ聰。あたし、やっぱりいないほうがいいのかしらね。」

ブッチャーはそういわれてまた嫌な顔をする。

「姉ちゃん、そんな事言うなよ。」

「だって、あたしがいても、聰にも、お母さんにも迷惑かかるでしょ。だから、あたしはいないほうがいいのかなってそんな気がして。」

「そんなこと言わなくてもいいよ。だって姉ちゃん、ほかに行くところないだろ。」

「でもどこかに行ったほうが、聰もお母さんも、其れらしい人生も送れるのかなって。」

まあ確かに、それは一理あるが、ほかに、有希を置いてくれるところなんて、どこにもないだろう。「姉ちゃん。そんな無理なこと言うなよ。俺たちにそんなこと言ったって、俺たちは何も出来ないんだから、実現不可能なことは言うな。それは俺たちに言っても、誰に言っても解決できることはないんだよ。」

「でも、あたしはつらいのよ。ここにいるってことが申し訳ないのよ。」

まあ確かに、その気持ちはわからないわけでもない。それはたしかに辛いだろう。誰かに迷惑をかけて生きているのを自覚していて、それを解決すべき方法がないというのは、確かにつらいものである。でも、それは、どうしても変えられないことであって、それはある意味口に出して言いたいが、それは言えないことでもある。

「姉ちゃん。それは確かにそうかもしれないけれどさ、それは、もうないじゃないか。こうしているしか、ないんだよ。それに、姉ちゃんのような人を受け入れてくれるところなんて、遊郭位なもんだろう?この辺りには、有能な更生のための先生もないんだし。それはもうしょうがないことだと思ってさ、一日一日を大切に生きていればそれでいいのさ。」

「そうね。」

有希は静かに言った。この時は、静かに反応してくれてよかったと思う。何も選択肢がなくて、このままでいるしかない、というのが、正解というか、正直な感想なのだ。

「あのな、姉ちゃん、今日な、俺、図書館にいったんだ。そのときさ、ジョチさんにこんないい本があったと教えてもらったんだよ。なんとも、外国人として生まれたために、地歌の邦楽界でいじめられてしまったらしい。それで、邦楽界に見切りをつけて、高卒資格を取って、今は、ほかの人にもそういう機会を分けてやろうとしているんだって。そんなすごい人がいるんだなと思って、俺たちも生きて行こうぜ。」

「そうね。あたしは、そういう人の話、あんまり好きではないわ。そういう人は、もともと出身階級が上だったとか、家にお金があったとか、そういう人であることがほとんどだもの。あたしたちは、ただの平凡な家の人間だし、そういう階級じゃないから、運が良くそうやって幸運を手に入れるという事は、できるわけないじゃない。」

姉ちゃん、俺はそういう意味で言ったわけではないんだけど、そういうセリフは水穂さんのセリフではないのかと思われることを、有希は平気で言う。自信のない人というのは、身分上下関係なく、同じことをいうのではないかと、ブッチャーは思った。

「そうだけど、この本の著者も身分的には決して高い人じゃないんだよ。ジョチさんの話では、路上でパフォーマンスをして、生活していたそうだから。そんな人が身分的に高いと思う?それでは、違うでしょう?」

有希にそう言っても、どうしても話は通じなかった。ブッチャーは、これ以上言ったら暴れる可能性もあるので、それ以上は言わないことにした。暴れる可能性があるのなら、それ以上暴れるのを助長させることはしない。それは言わないことにしている。

「まあ、今の話は忘れてくれ。俺たちは、今日一日生きて行けばいいと思えばそれでいいのさ。俺たちは、いくら金をためても、災害が起きれば、全部終わってしまうんだからな。」

ブッチャーは、そういって、今回の話を閉めた。

「そうね。あたし、消えた方がいいのよね。」

姉ちゃん、それは、言うなよと思うのだが、どうしてもそれを止めることはできないようだ。

「そんなこと言うな。それでは俺たち、何もできないじゃないか。そんなこと言ったら、俺たち、何をしていけばいいのかわからなくなっちゃうよ。」

ブッチャーはそういうしかできない。俺はどうしたらいいんだと、思うのだが、答えとしては、この有希といつまでも一緒に暮らしていく、今の生活を続けて行くしかないという事である。

ブッチャーは、あーあと思ったが、そうしていくしかないのだった。

それではと、そそくさと有希の前から消えて行った。結局、有希には、例の本を渡すことはできなかった。

俺たちは、とにかく、一日一日を生きていくしかない。誰かがどこかで変化をしてくれるのを待ってはいけないと、偉い人は口をそろえていうのだが、それはやっぱり経済的にお金がある人でないとできない気がする。やっぱり一般的な庶民は、どこかで法律でも変えてくれない限り、動けないという事が、ほとんどであって、それに乗っていくしか出来ないという場合がほとんどなのだ。ちょっと意識を変えてみろとか、そういう事だって、お金がなければできないという、大事なことを、忘れている。其れを忘れてはいけない。

それでもブッチャーは、姉のことが心配でしょうがなくて、と、いうより姉に何とか変わってほしくて、自分の部屋に行き、スマートフォンを取って、電話番号を回した。

「はいはい。ああ、ブッチャーさん。どうしたんですか。」

ジョチさんの声がして、ブッチャーはやっとほっとする。

「あのう、すみません。今日貸してくれた本の著者である、ジャック何とかという方の連絡先か何かご存知ありませんかね。俺の姉ちゃんもその人の組織に参加させてもらえないかと思いまして。」

ブッチャーは藁をもつかむ思いでそういった。

「ああ、お姉さんにあの本見せたんですか?」

そう聞かれて、ブッチャーは正直に、

「いや、まだ見せてないですけど。」

と答えた。ブッチャーは、この時、見せたと嘘をつくこともできたのだが、それはどうしてもできなかった。こういうことは、ブッチャーにとって得意なことではない。何だか女の人のほうが、うまく口裏を合わせられるような気がする。

「そうですか、それでは、まだ連絡はできませんね。お姉さんにしっかりと、夷隅学校の特徴とか趣旨をしっかり伝えて、納得してもらわないといけません。ブッチャーさんが単に自分たちが楽をしたいからと言って、お姉さんを追い出すようでは、まだ、ダメですよ。」

電話口で、ジョチさんがそういっている声が聞こえる。それをいわれると、ブッチャーは、まだダメか、と、がっかりと力が抜けてしまった。

「ブッチャーさん、これは本当に大事なことなんで、もう一度言いますが、こういう支援施設を利用る時に、本人を無理やり連れて行ったり、だまして連れていったりすることはいけないことなんです。

それをしてしまったら、お姉さんは、家族から見捨てられたと思って、支援先でさらに問題を起こすことにもなりかねません。そうしたら、立ち直るのはさらに難しくなるんですよ。」

「ジョチさん、だったらなんで、今日図書館で俺にあの本貸してくれたんですか。」

「ただ、参考にしてほしいと思っただけの事ですよ。ブッチャーさん、勘違いしないでほしいのですが、僕はそこを利用しろと、アドバイスしたというわけではありません。本というのはね、そこを利用する人を獲得するためにあるんじゃなくて、人の意識を変えるためにあるんです。そこを間違えてしまうと、戸塚ヨットスクール事件のような事件も起きてしまうんですよ。そうでなくて、利用するんだったらね、ちゃんと家族全員の同意を得て、本人も利用したいとしっかり意思をもってくれることが、本当に必要なんですよ。」

そうかあ、、、。偉い人っていうのは、どうしてこう無責任なのだろうか。ブッチャーは、紹介してくれたのに!と悔しがった。

「ブッチャーさん、もうちょっと落ち着いて考えてみてください。たしかにお姉さんを抱えておつらいことはわかりますが、お姉さんは機械ではないことをしっかり考えないと。もし、お姉さんの意思に反して、そういうところへやってしまったら、どうなってしまうか、映画スパルタの海でも見て、考えてみたらどうですか?」

そうですか、、、。ジョチさんは親切にそうアドバイスをくれたのだが、ブッチャーは、どうしてもその通りにする気にはなれなかった。

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