第四章

第四章

ブッチャーは、次の日、図書館に行った。

なにか、有希について参考になる本は無いか、探しに行ったのだ。そういう場合は本屋よりも図書館の方がいい。本屋では、売れる本しか置いていないために、本当に必要なものは、手に入らない場合が多いのである。たしかに本という物は、情報が古いことが多いが、パソコンのデータと違い、読む気になればいつでも手に取って読めるという利点もあるし、誤ってデータを消してしまうこともない。

とりあえず、ブッチャーは心理学のコーナーに行ってみた。たしかに、本はたくさんあるが、大体の本は、専門的なカウンセリングを行っている人のための本である。本の中の文書も、心理学の専門用語ばかりで、素人のブッチャーには、本当にわかりにくいものであった。

「あーあ、これではだめじゃないか。俺は、何をやっているんだろう。」

出来れば、姉ちゃんのような、レールに乗せられない人生を歩むことを強いられて、それではいけないという強迫観念から、脱出することに成功できた人の本を読みたいなと思っていたが、それではいけないと示しているかのように、そのような人の本は一つもなかった。それほど日本の教育から外れた人は、いないという事だろうか。有希のような人は、非常に珍しい人であるという事だろうか。

当たり前のように受けている教育が、実は苦痛になってしまい、そこから休みたいとお願いしても、日本の教育機関というのはそれを許してくれないようである。学校にいる間は、どんな時でも、順応していかなければダメであるという事だろう。其れよりも、うまく順応できる能力というものが試されて、それができなかった人は、もう自動的に切り捨て、切り捨てるのが、日本の教育というモノなんだろうなと、ブッチャーは、そう思ってしまった。

姉は、教育というモノにうまくなじめなくて、ダメな女性になってしまったし、水穂さんは、教育についていこうとして、経済的に追いつけず、体を壊してしまったんだなあと、二人の失敗例をブッチャーは、真剣に考える。そして、その人たちに支援をするという事は、二度とない。

教育か。

其れってなんのためにあるんだろうな。前に、ノーベル賞でも取れそうな偉い先生が、日本はもう捨ててもいいと発言していたことがあった。もし、水穂さんがもう少し経済的に豊かな人であったら、間違いなくそうした方が、いいんだろうな。そして、俺の姉ちゃんも、もしかしたら、休むことを許してくれる教育機関のある国家に「避難」することができたら、そのほうがよほどよいのではないだろうか。

「どうしたんですか。こんなところで。」

不意にブッチャーは、声をかけられた。ハッとして後ろを振り向くと、ジョチさんが立っていた。

「あ、どうもすみません。本なんかまるで縁のない俺が、こんなところに居るなんて、おかしいですよねえ。俺、確かにずっと本なんて、読みませんでしたからね。」

ブッチャーは、軽く頭を下げてあいさつする。

「いいえ、今の時代、重たい事情がないと、本なんて読むことはまずないでしょうから、何かあったんだろうな、とは思いましたよ。」

さすがだ。俺が何か悩んでいるのをすぐにわかってしまうんだから。

「何か本でも探しているんだなとは思いましたけど、こういうところに来るんだから、お姉さんの事ですか?」

「はい。俺、もうどうしようもなくなっちゃって。何か参考になる本でも無いかと思うんですが。」

ブッチャーが正直に答えると、

「じゃあ、これなんかどうですか。」

ジョチは、持っていた本を差し出した。ブッチャーは思わず、ジョチさんが借りる予定だったのではないかと聞くと、

「いいえ、僕は著者と面識がありますから、何かあれば本人に聞けばいいのですし、心配はいりません。本人からじかに話を聞くのが一番いいのでしょうけど、それがなかなか皆さん出来ないから、本を書けと言ったのです。初めは自費出版という形にしましたが、意外に売り上げは好調だったようで、

今年の一月に再度出版させたんですけどね。」

と、答えが返ってきた。

「あ、ありがとうございます。」

ブッチャーは本を受け取って、そのタイトルを読んでみる。タイトルは、「あるものは使えばいい」という、一見するとありふれたタイトルだが、中身をパラパラとめくってみると、あのうわさになっている予備校、夷隅学校を設置した人物が書いたものだとわかった。

「すごいですねえ、あの有名予備校を作った人も、ジョチさんのネットワークの一人だったんですか。なんでもそうやっておっきな企業にさせちゃうなんて、やっぱりすごいなあ。」

ブッチャーは、この本の著者について、聞いてみたいことがたくさんあった。でも、図書館の中でべらべらしゃべるのは、マナー違反であることもわかっていた。なので、

「ちょっと時間ありますかね、教えてほしいことがあるんですけど。」

と聞いてみる。

「あ、かまいませんよ。どうせこの後は自宅へ帰るだけですから、ちょっと遅くなっても心配ありません。」

ジョチはそういって、運転手の小園さんに、ラインを打った。暫くすると、彼のラインがなって、小園さんから了解したと返事が来た。

「じゃあ、俺、この本借りていきますから、一寸待っててください。本当にありがとうございます。」

ブッチャーは急いで貸し出しカウンターに向かって走っていく。これも本当はマナー違反だが、なぜか、そうしなければならないような気がしたのである。

小園さんの運転する、黒い高級セダンに乗り、ブッチャーとジョチは、図書館の近くにある、焼き鳥ほていやに入った。ジョチの指示で焼き焼き親父さんは、店の奥にある個室を貸してくれた。食べ物を運んでくる以外は顔を出さないように、というと、わかりましたと言ってくれた。

「一体、この本の著者といいますのは、どんな人なんですかね。」

ブッチャーが聞くとジョチは、

「路上でパフォーマンスをしていた芸人でした。」

と、答えた。

「へえ、漫才でもしていたんですか?それとも大道芸?」

「いいえ、ただの地歌奏者です。ありふれた古典の演奏では、非常に能力は劣ると言われたそうですが、こういう洋楽的なパフォーマンスは非常に優れたものがありますよ。もともと彼は、日本人ではありませんでしたから、邦楽の世界では、もうスタートから負けているんですよ。それで、邦楽の世界から締め出されてしまったんでしょう。そこで、どこにも入れなくて、大変な苦労をしたそうです。」

たしかに、本の著者名を見ると、「ジャック片岡」と書かれていた。そこから判断すると、どこかの外国とのハーフなのだろう。

「じゃあ、夷隅学校を作ってと言ったのはもしかして。」

「ええ、そうですよ。彼は、邦楽の道に進むために高校へ行かないで修行をしたそうですから。まあ、今でもいるんですよね、大手の大学を出ないで偉い先生にじかに弟子入りしてしまう人。」

「じゃ、じゃあ、つまり。」

「ええ、一度そのような人生を強いられたのですが、やはり日本の教育から外れることはどうしてもできないので、奮発して高卒程度認定を受けたんだそうです。しかも独学でね。僕はその部分が彼の強みなのではないかと思ったので、そこを売り物にすれば、何かやれるのではないかと言ったんですよ。ただ、僕が言ったのはそこだけですよ。夷隅学校を作れとは言いません。それは彼の発想ですから。」

そうかあ、、、。世のなかには、レールを外れた人間がこういう事業を起こしてしまうこともあるという事だ。

「まあ、そういうことですね。たぶんですが、この日本にいる限り、レールを外れた人生を選んでしまうと、だれかれから白眼視を受けることは間違いありません。それは、どんな分野の人も同じことです。どんなに経済的に豊かであってもそうなりますよ。だからそういう人は、それを商売としてしまえばいい。そしてやむを得ず、レールをはずれなければならなくなった人たちの応援に回る。これが、彼らに与えられた役割なのではないかなと思うんですよね。やっぱり、自分を守るためには、一般的なレールからやむを得ずはずれなければならなかった人も、大勢いますからね。したくなくても、自分を守るため、もっと極端に言えば平和を得るためにね。平和ほど、人間社会で幸せなことはないですからね。」

ああ、いまの話、俺の姉ちゃんが聞いたら、涙を流して喜ぶだろうな、とブッチャーは思った。

「その本、ブッチャーさんのような人にはいいかもしれませんね。僕は出版の際にも立ち会いましたので、内容は大体知っていますよ。彼が、純粋に地歌が好きで邦楽の世界に飛び込んだが失敗したことが、ありありと書かれていますから。そして、本当に必要なものを得るために、事業を起こしたこともね。ジャックさんの素晴らしいところは、自分をはっきりと、失敗したと言えるところですよね。

人間、なかなか、自分のことを失敗したとは言えませんからね。逆に、邦楽が好きな人には向かないかもしれないですけど。」

ありがとうございます!ジョチさん!俺は、本当に救われました!ブッチャーは、頭の中でそう言いかけたが、同時に鼻をかむ音がした。ジョチさんも、このしぐささえしなかったら、もっと実業家として活動できたかもしれない。直接国政選挙に出られないのは、これのせいだとブッチャーは知っている。でも、それがなかったら、この本を出版させてやるなんて、発想はしなかったかもしれない。

そう考えると、ブッチャーは何が役に立って、何が役に立たないか、世の中よくわからないな、と思った。

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