第二章

第二章

今日もまた、銘仙の着物を納品したついでに、ブッチャーは製鉄所を訪れた。

「こんにちは、水穂さんいますか?」

ブッチャーはインターフォンのない製鉄所の扉をガラリと開けた。

いつも通り、青柳先生が出て、ブッチャーを通してくれたが、今日は別の草履が、玄関に置かれていた。

四畳半に行ってみると、ちょうど影浦千代吉が、水穂と何か話していた。

「こんにちは。」

ブッチャーは影浦先生に声を掛ける。

「すみません。何か大事な話でもしていたんですか?」

失礼になってはいけないので、そう聞くと、

「いえいえ、大したことではないですよ。まあ言ってみれば世間話です。急を要することではありません。」

影浦はにこやかに笑った。でも、こういう世間話が大事な治療になることをブッチャーは知っていた。

「あ、ああ、すみません。俺、帰ろうかな。」

「いいえ、いてくれて構わないですよ。多ければ多いほどいいですから。どうぞ、適当なところに座ってくださいよ。」

不意に布団で寝ていた水穂さんが、そういってくれた。水穂さんという人は、そういう優しいところがもっと高く評価されてもいいのに、と、ブッチャーは思ってしまった。影浦が、水穂さんの枕元に、どうぞ、と場所を作ってくれた。

「いったい何を話していたんですか。」

と、ブッチャーは、影浦に指定された場所へ座る。

「まあ、大したことではないんですけどね。最近、うちの病院に通っている患者さんも、何だか、外へでるのが、少しづつ多くなってきました、という話をしていたんです。」

影浦にそういわれて、ブッチャーはその話に興味を持った。

「そうなんですか。例えば、どんなところへ出るんですか。」

「ええ。最近は病気の人を受け入れてくださるところも多くなったみたいで、音楽教室とか、料理教室に、病気の方が入って来るのも、珍しくないようです。企業は、まだまだですけど。」

「そうですか、、、。」

ブッチャーは、大きなため息をついた。

「ブッチャーさんどうしたんです。何かありました?」

水穂さんに聞かれて、ブッチャーは、発言していいのかダメなのか迷った。

「いや、俺の姉ちゃんにもそういう場所があれば、また、変わってくれるかなあと思いまして。」

ブッチャーは、もう一度ため息をつく。

「ああ、お姉さんもずっと家にいるんですか?」

影浦に聞かれて、ブッチャーは、はい、と肯定した。

「もう、大学に行けなかったというのは、そんなに悪いことなんですかね。いま姉ちゃんと一緒にいると、大学に行った俺のほうが、悪い奴のように見えてしまうんです。大学に行かなくても、幸せなんだっていう人はいっぱいいると思うんですけどね。でも、姉ちゃんは、もう大学行かないと、ダメだと言い張って。」

「そうですか、、、。」

水穂は、なんだか申し訳なさそうに言った。

「い、いやあ、水穂さんの事を責めているわけではないですよ。俺、働かざる者食うべからずとか、そんなことは言いません。それよりも、俺の姉ちゃんに、大学というところに縛られなくてもいいですから、幸せだなって感じてほしいんですが、無理ですかね。」

「まあ確かにね。三年間、高校に閉じ込められて、大学大学大学と毎日言われ続けるようでは、だれだって、そう思ってしまうんじゃないですか。特に感性のいい人は一層の事。」

ブッチャーはそういうと、影浦がそういう。

「そうですねえ。その感性がいいってのは、果たしてなんなんでしょうか。俺、単に、学校に捕縛されて、苦しんでいるようにしかみえないんですよ。なんだか、先生方の事を悪く言うわけではないんですが、学校の先生って、なんだか、新興宗教の教祖みたいですね。」

「ええ、事実そうですよ。僕の患者さんたちは、こぞってそういいますよ。学校の先生の言うことが強烈過ぎて、本来持っていた能力までなくしちゃうんですよ。例えば、ピアノが大好きな子がいて、もしかしたらよいところまで行けるんじゃないかな、と思われた子が、学校の先生に、そんな役に立たないものを勉強するより、もっと役に立つものを勉強しろと言われて、本来持っていた。ピアノの能力を悪事だと思って捨ててしまうとか。本当にそういう例は多いんですよ。別に、音楽関係の仕事につかなくても、若い時にはやりたいことをやらせてやるほうが、よほど安定感は得られると思うのですが、学校の先生と言いますのは、どうしても仕事と大学を関連付けてしまうようですね。そうなると、こっちへ回されることになって、こちらはいい迷惑です。」

影浦は、半分苦笑いを浮かべて、大きなため息をついた。

「そうですね。それに、方向転換は。まったくできないという。」

水穂さんが付け加えた。

「もう、学校へいるときと、それ以外の時は、よその国にいったように見えますよ。」

咳き込みながらそういう水穂さんのいうことは、ある意味正しかった。

「ただ、それを反省する声もあるんでしょうね。ほんの少しですけど、大学が社会人入試とか、シニア入試とか、そういうものを始めるようになりましたね。そのほか、インターネットを利用して、通学の際の費用を抑え、わざわざ遠方の大学へ通わなくてもいいとか、そういう試みも行われています。そうなると、「人生の多様化」を、やっと社会が認めてくれるようになるかもしれない。僕たちは、それを利用しようと思っています。それに乗せで仕舞えば、多くの患者さんが救われる気がする。」

「そうですか、それは、身分の高い人だけに許されることでは?」

水穂が当たり前のようにそういうと、

「いや、そうでもないそうですよ。この間、減薬を申し込んできた患者さんが、こんなものを持ってきたんです。僕らのところで、使う薬なんて、ほとんどが患者さんの自己満足に過ぎませんからね。本当は、薬なんかに頼るより、ご自身を見つめなおしてほしいんですが、今の人はなかなかできないですから、仕方なく薬を出している、というのが精神科なんですよ。」

影浦は、風呂敷包みをほどいて、一枚のパンフレットを取り出した。

「へえ、何ですか、これは。」

「ええ、最近できたところですが、なんでも高齢になってから、学校に行きたい人のための支援施設なんだそうです。まあ、区分としては、大検の予備校ですが。ちなみに大検は、アビトゥーアとか、バカロレアと呼ばれて、欧米では、普通に行われているそうですし。バカロレアに偏見のある国は、日本くらいのもんですよ。」

「はああ、、、。なるほど。大検を取って、大学に行かせようという魂胆なんですか。確かに、わざわざ高校に行かなくても、こういう試験をすれば、試験料金だけでいいわけですから、やっぱり、お得ですねえ。」

ブッチャーは、素直にそういった。

「そうですよ。ほとんどの人は、大学卒とか、そういう一部の学歴しか見ないんですから、高校はどこかなんてあまり気にしません。要は、バカロレアに合格して、大学に行っても、大学を出れば、そこをつつかれることはないってことです。」

「はあ、そうですか。そんな施設ができたんですねえ。俺、全然知りませんでした。そんな施設ができたら、もうちょっと生きづらさも解消されるかなあ。」

ブッチャーは、もうちょっとこういう施設を早くつくってくれたら、と思わずにはいられない。

「で。その患者さんは、どうなったのです?その施設に行って、何か変わってきましたか?」

水穂が聞くと、

「そうですね。やっと自分の学歴がないことを解消できると言って、喜んでます。バカロレアを取ったら、インターネットで学べる大学に行くそうです。まあ、精神科に来る患者さんのほとんどは、居場所さえ見つかれば、よくなってしまう人ばかりで、本当におかしくなってしまう人はごくわずかですから。それをもうちょっとしってくれれば社会ももう少し明るくなれると思うんですけどね。」

と、影浦は答えた。

「精神疾患というのはそういうものです。元凶になるものから逃げるか、新しい何かを見つけられるかすれば、すぐ治る。それくらい単純ですよ。でも、それができないのが、人間というものなのかな。ほんとは、悩んでいることなんて、すぐに解決できる手段は足元に転がっているはずなのに、それは、どうしても拾おうとできないのが、人間というものなのかもしれないです。それを、勝手に複雑化して、やっとそうしなければ助からないって気が付いたときは、自分も、それを実行できないほど、複雑化させている。人間って、そうしちゃうものなんですよ。自分で何でも間でもしようとすると。だからこそ、他人と助け合うということが必要なのかと思うんですが。だけど、なんだかスマートフォンだとか、そういうものを発明しちゃって、より、そういうことを避けようとしているきがしてならないですね。だから、僕たちから見たら、そういうものは作らないでもらえないか、と思うんですけど、それはなんだか。」

影浦は、医者らしく大きなため息をついた。

「無理っぽいですね。」

うん、確かにそうだ。そして、できない人は、変人として排除してしまうのも人間である。

「まあ、とりあえず、それも、少しずつ反省してくれて、こういう施設を作ったんではないかなと思われます。」

影浦はそういって、やれやれと頭をかじった。ブッチャーは、そういうことが当たり前の時代だったら、もうちょっと、過ごしやすい世の中になると追わずにはいられなかった。


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