サスペンス篇4、もう一度

増田朋美

第一章

もう一度

第一章

「須藤さーん、郵便です。」

ブッチャーの家の玄関前で、あわてんぼうの郵便屋が、でかい声で言った。

「何ですか。こんなに朝早く。」

まだ、歯磨きをし終っていなかったブッチャーは、急いで口をゆすぎ、玄関に直行する。

「あ、はい。こちらです。簡易書きとめが一通届いています。受け取りに印鑑をお願いします。」

「はいよ。じゃあ、ちょっと待って。今印鑑をとってくる。」

ブッチャーは、電話台から印鑑を出して持って来て、郵便屋に言われた通りのところに印鑑を押した。

「はい、ありがとうございます。では、失礼いたします!」

郵便屋はにこやかに笑って、走って家を出て行った。たぶん、郵便の量が多すぎて、いろんな家庭を回っているのだろう。それほど、人手不足は深刻だということである。

「ふうん、お母ちゃん宛か。」

改めて、その封筒を見てみると、ブッチャーの母に宛てたものであり、差出人は、母の出身の、大学からだった。

「あれえ、俺の母ちゃん、もう何十年も前に、大学は卒業してしまっているんだがなあ。もしかすると、同窓会のお知らせとか、そういうのかな?」

ブッチャーは、封筒の裏面を確認すると、

「もう一度大学で学びなおしてみませんか?社会人の為の講座のご案内です。」

と書かれていたのである。

「ははんなるほど、若い学生の呼び出しが、だんだんできなくなったせいで、こういう年寄りむきの講座をやって大学も儲けようとしているんだな。」

確かに、少子化の影響ということもあるのだろうが、お年寄りが多すぎてしまうというのも問題である。だから、こういう風に、大学がわざわざお年寄りの居場所をつくってくれるというのはありがたいことかもしれなかった。

「なるほどねえ。いわば、デイサービスの代わりになっていくのか。大学は。」

丁度その時。

「どうしたの聰。何をしているの?」

二階から、有希がやってきたため、ブッチャーはぎくっとした。有希にこれを見られたら、必ず何か嫌味が返ってくると思われる。それを聞くのは母も嫌いだけど、ブッチャー自身も好きではなかった。

「い、いやあ、母ちゃんに宛てて、一通手紙が来たんだよ。」

「誰から?」

有希はすぐに尋ねた。

「い、いやあね。ただ、お母ちゃんの大学から、、、。」

ああ、なんで自分は、こういうごまかしができないんだろう。もっと口がうまい人だったら、もっと上手な嘘もつくことができるかもしれないのに、、、。

「大学?」

有希は、ブッチャーに再度確認するように言った。

「大学が何をしにお母さんに手紙を出したのよ?」

「よく知らない。卒業生名簿でも作るんじゃないの?」

ブッチャーはそういったが、有希はその嘘には乗らなかった。ちょっと貸してと言って、無理矢理ブッチャーから手紙を取ってしまい、

「違うじゃない!これは、再度入学者募集の手紙だわ!ああ、どうして大学へ行った人は、こうして自由に勉強できて、あたしはできないのかしら!」

と、怒鳴った。ああ、また始まってしまったよ、姉ちゃんが。と、ブッチャーは思ったが、口に出していうことはしない。それをいったらさらに悪いことになってしまう。

「どうして大学に行った人っていうのは、こういう風に明るい人生になれるのかしらね。あたしは、こんなにつらい人生ばかりで!」

ブッチャーはこういうときはなにも言わないことにしている。さらに騒ぎを大きくしたら、隣の人にまで迷惑が掛かってしまうことも、知っている。だけど、静かにしてくれと言ったら、有希は自分の意見を誰も聞いてくれないとして、さらに暴れだすことも知っている。要は、この問題は永久に解決しないのだ。本人が何とかしようと思わなければ。と、いうより、思えないのだ。

「まさかうちのお母さんに来るなんて思わなかったわ!お母さんも聰も、みんな大学出て、そうやって、勉強する権利も与えられて。幸せに暮らせるじゃないの。あたしは、ただ、そういう偉い人たちの前で、頭を下げて、地面にひれ伏すだけの、みじめな人生しか用意されていないのね。あたしも、無理をしてでも、私立高校に行くべきだったんだわ。たとえ費用が掛かるとしても、要求を押し通せばよかった。そうすれば、あんな猿山みたいな学校ではなくて、しっかり落ち着いて勉強することもできたでしょうし、あたしだって、大学に行くことだってできた。そうすれば、もっと幸せな人生になれたはずなのに!」

有希はそういって、壁にガンガンと頭をぶつけた。さすがにけがをするといけないから、そこだけは止めないといけなかった。

「姉ちゃん、けがをすると困るから、そこでおしまいにしろ!」

急いでブッチャーは有希を壁から引き離す。大学時代に柔道をやっていたブッチャーは、人間一人持ち上げることができるほどの体力はあった。それがない人では、とてもそんなことができず、介助者のほうが逆にけがをしてしまう可能性もある。さすがに青柳先生のように、新聞紙を丸めて叩くということはブッチャーにはできなかったが、姉を抑え込みして、暴れるのをやめさせるということはできた。有希は、涙をこぼして泣きながら、赤ん坊よりももっと恐ろしい声で泣き叫ぶ。ブッチャーは柔道の寝技をつかって、有希を暴れないように押さえつけるが、同時に、こんな馬鹿なことをしなければならない自分を恥ずかしくおもった。同時に、人間というものは、本当に弱い生き物であり、ちょっとしたことでも、こうして助けてやらないと、何もできなくなってしまうというものなんだなということも、改めて知らされた。

もうこういうときは、俺の人生がどうのこうのなんてどうでもよかった。ただ、姉が叫ぶのをやめてもらうこと。それしか考えていなかった。

「日本って、レールから脱落すると二度と立ち上がれないように作ってあるんだな。もう一回何とかしようということは、正直できないよ。」

ブッチャーは、泣いている姉を抑え込みしながら、ぼそっとそうつぶやく。

そう、日本というのはそういうところである。一度レールから外れてしまうと二度と戻れないように、社会も学校もそうなっている。学校に入ってみて、雰囲気になじめないなど苦情を出しても、それが受理されることもないし、そこからまた別の学校に、ということは世間が許さない。最近では、そういう人のための学校もあちらこちらにできているが、まだ、頭の悪い人が行くところ、という偏見が強い。

本当は、富士にもそういう人のための学校があってもいいのだが、さすがにそういうところは、大都市圏に偏ってしまうようで、なかなか見つからないのだった。姉にしても、そういうところに行って、もう一度学びなおせれば、こうやって暴れることもないかもしれなかった。

「ごめんね聰。」

不意に、有希がそういった。

「もういいか?」

ブッチャーがそういうと、有希はうん、とだけ言った。さすがに、散々暴れすぎて、疲れてしまったのだろう。

「あたしは、まだまだだめね。」

有希もそんなことを言う。

「まあ、そうだな。」

ブッチャーもとりあえず、それは認める。そっと、姉を押さえつけていた体を離した。

「もう、あたしは、消えたほうがいいんだよね。そうでしょ。こんなに迷惑かけちゃって。」

それがわかるなら、初めからしなければいいのだが、それができないのが、有希のような患者の特徴と言える。自分で、症状があるとわかっているのだが、それを止めるために、自分でどうのこうのというのが、全くできないのだ。そうして、他人を巻き込んで、こういう迷惑行為を起こす。

「いいよ姉ちゃん。俺、慣れているから大丈夫。」

ブッチャーは、そういうしかなかった。

「姉ちゃん、疲れているんだろうから、休んだらどうだ?」

特に姉は疲れているというわけでもないのだが、症状がある以上、必ずそういわなければならない。

「そうね。その通りかもしれない。」

有希は静かに立ち上がって、二階の部屋へ戻っていった。

まあ確かに、ごめんねと言ってくれたから、今日は良いか。ブッチャーは、そう思っておくしかできなかった。精神障碍者のいる家庭には、過去も未来もない。ひたすら、現在、現在と割りきって生きていくしかなかった。

今回は、割とましなほうだったと思う。お皿を割るとか、テーブルを壊すとか、けがをするとか、そういう「損害」はなかったのだから。

「俺、この先本当に幸せになれるんかな。」

ブッチャーは時折そう考えてしまう時がある。有希に邪魔されて、というより振り回されて、自分は不幸になってしまうのではないか。

第一、 有希は、一人では生きていかれないだろう。俺たちがああして暴れるのを止めな

ければ。時折、有希は、何のために生きているのかわからないと自身でいうことがあるが、

まさしく、家族のブッチャーもそう思ってしまった。

戦時中に、精神障害のある娘を殺害して、その肉を食べてしまったという事件があった話を、華岡さんに聞いたことがあった。もしかしたら、俺の姉ちゃんもそういうことにしかやくに立たないのではないか、と、ブッチャーはそう思ってしまったこともある。

全くなあ、こういうひとをどうしたらいいのか。そういう研究も法律も何もないのか。

ブッチャーはそう思って大きなため息をついた。


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